「ケアの社会学」を読む・39・落下感覚

   1・自分にしがみつくという制度性というか不自然
自分を捨てなければ「受け入れる」という心の動きは起きてこない。
社会の規範を受け入れる、という。しかしそれは、受け入れているのではない。自分を守るために社会の規範にしがみついているのだ。
そして、自分を守るために反体制的なことをいって、自分はほかの人間とは違う、と思い込もうとする。
右翼だろうと左翼だろうと市民だろうと、社会意識を持つことは、自分にしがみついているのと同じだ。自分にしがみついているから、全体思想にしてやられるし、反体制的なことをいう。
人間なら誰だって、社会のことなんかどうでもいい、という心の世界を持っている。どうでもいいと思ったらうまく生きてゆけないのに、それでもどうでもいいと思ってしまう。
人間は「どうでもいい」という心の位相で人にときめき、学問や芸術と親しくなってゆく。つまり、どこかしらで、うまく生きてゆけなくてもいい、と思っている。そうやって、人類の文化や文明が発達してきた。
人間は、自分なんか捨てて(忘れて)、人や学問や芸術にときめいてゆく。
人間は危機を生きようとする。
生きてあることは、次の瞬間には死ぬかもしれないという状態である。命とは、死の可能性のことだ。生きるとは、死の可能性を生きることだ。
「自己保存の本能」などというものはない。
人にときめくこととも学問や芸術をすることも、「危機を生きる」体験である。
人間は強く自分を意識する存在だからこそ、自分を捨てて(忘れて)世界にときめいてゆくことも深く体験している。
恋をすることであれ、芸術や学問をすることであれ、スポーツをすることであれ、人は、自分にしがみついているところで限界と出会うのだ。才能は、そこで停滞する。
自分にしがみついているところで、終末期の過ごし方に失敗するのだ。
政府はだめだ、といって自分にしがみついていやがる。
大衆は愚かだ、といって自分にしがみついていやがる。
原発はだめだ、といって自分にしがみついていやがる。
大衆は愚かでも賢いのでもない。大衆であろうとなかろうと、人の心は、目の前の人間にときめくようにできている。
人の心は、世界にときめくようにできている。それは自分を捨てて(忘れて)危機を生きることに快楽を覚えてしまう生き物だからだ。
この世界を認識することそれ自体が、自分を捨てて(忘れて)危機に飛び込んでゆく行為なのだ。
青い空を「青い」と認識することは、その「青い」という状況を受け入れることである。「状況を受け入れる」という本能がなければ、「認識する」という意識の現象も成り立たない。
人間の認識能力が発達しているとすれば、それは他の動物よりも「状況を受け入れる」という心の動きが盛んだということにほかならない。
「状況をつくろうとする」のではない。「状況を受け入れる」のだ。
この命は、命の危機としてはたらいている。すべての生き物は、命の危機を受け入れ、命の危機を生きようとしている。「認識」という心的現象は、そこで起こっている。
「自分は死にかけて生き返った体験をした」といって自慢をする人がいるわけじゃないですか。アホらしい。人間なら誰だって、死にかけている存在だ。その「生き返った」という言い草がのうてんきなのだ。死にかけないと死が見えないのか。鈍感でお気楽なこった。僕は、そんなこといって自慢されても、少しもえらいとは思わない。
人類の文化や文明が発達してきたということは、たくさんのイノベーションを体験し続けてきた、ということだろう。イノベーションなど起きない方が生きやすいのに、人間はその「生きにくくなる=危機」という事態を受け入れてしまう生き物なのだ。
人間は、生きようとするのではない、「生きてしまう」のだ。すべての生き物が、「生きてしまう」ようなシステムを持っている。
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   2・イノベーションの快楽
直立二足歩行の開始というイノベーションは、不安定な姿勢のまま胸・腹・性器等の急所をさらし続けるという、ひとつの生きにくくなる事態(=危機)だった。
しかし、その生きにくくなるという事態(=危機)そのものに快楽があった。
そのとき人類は、二本の足で立ち上がろうとしたのではない。立ちあがったら生きにくくなるのだから、立ち上がろうとなんかするはずがないのだが、それでも立ち上がってしまえば、そこに快楽があった。
ある人類学者は「棒を持って戦うために立ちあがった」という。あるいは「食糧を手にもてメスのもとに運ぶために立ちあがった」ともいう。くだらない。そんなことが生きるのに都合がいいのなら、ほかの猿だってしている。原初の人類にそれができたのなら、ほかの猿にだってできないはずがない。
その二本の足で立ち上がるというイノベーションが特異であったのは、それが生きにくくなることだったからであり、それでもその生きにくさを受け入れるしかない状況があったからだ。そしてその生きにくさを受け入れることに快楽があった。
気がついたら立ち上がっていただけのことだ。
イノベーションとは生きにくくなることだから、イノベーションを起こそうとする衝動なんかない。それでも起きてしまったらそれを受け入れてゆくのが人間なのだ。なぜならそこに快楽を体験してしまうから。
イノベーションとは、いままでの自分が壊れるということであり、その状況を受け入れることによって起きる。
イノベーションは、自分が壊れることをいとわない人間において避けがたく「起きる」のであって、作為的に「起こす」ことではない。それは自分が壊れることだから起こそうとするはずがない。
あるとき原初の人類は「もう生きられない」というある状況を受け入れ、その「結果」として二本の足で立ち上がった。それは、その状況を変えるための姿勢ではなく、その状況を受け入れる姿勢だった。
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   3・現代人は、終末期をうまく過ごせない
現代人は、自分にしがみついて、自分が壊れることを嫌がる。だから、死を覚悟するというイノベーションを体験できない。
現代人が終末期をうまく過ごせないということは、とても大きな社会問題のはずである。
上野千鶴子氏は、「つらいのは死の瞬間だけで、それまでは<おひとりさま>で快適に過ごせるから心配しなくていい」という。
そうじゃないんだなあ。死の瞬間はなんとでもなる。問題は、死を覚悟するほかなくなったときから死の瞬間までの終末期をうまく過ごせなくなっていることにこそある。
吉本隆明氏も、こういう問題意識がなかった。死の瞬間を解き明かせば死の問題は解決される、という安直な発想で「死の位相学」という本を書かれていた。
彼らがなぜ「死の瞬間」を不幸な体験としてこだわるかといえば、「自分が壊れる」イノベーションを嫌う人たちだからだろう。最後の最後まで自分にしがみついて生きてゆきたい人たちで、それができるつもりでいる。そうして、最後の最後だけは自分にしがみつくことができないから怖い、と思っている。
それですむのかどうか知らないが、自分にしがみついている被介護老人ほど迷惑な存在もないだろうし、本人とっても果たしてそれでいいのかどうか。
吉本氏は、自分にしがみついて生きたあげくに、歩けないヨイヨイのじじいになってしまったのだ。
人は、最後の最後には自分にしがみつくことをやめて、死=状況を受け入れる……人間にとって自分にしがみつくことができないのはひとつの救い=快楽であり、おそらく死の瞬間はそう心配することもないのだ。
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   4・命の尊厳などといっている老人ほど終末期に苦しまねばならない
原初の人類は、自分にしがみつくことを喪失して二本の足で立ち上がり、そこで快楽を発見した。
自分にしがみつくこと、すなわち自我=自意識。自意識の薄い子供は、いつまでも遊び呆けていられる。
発達心理学では3歳ころの第一反抗期を「自我の目覚め」などというが、「自分という意識」は、うまく体を動かせない生まれた直後からひとつの「嘆き」として持たされている。3歳ころになってうまく体が動くようになり、その「自分という意識=嘆き」から解放される体験をするようになってくるのだろう。それは、「自我の目覚め」ではなく、「自我からの解放の目覚め」なのだ。
子供は自分ひとりでは生きられない存在であるがゆえに、自分にしがみついて生きていないし、自分にしがみつくことからの解放の「快楽」をよく知っている。
同様に、終末期の老人もまた、自分にしがみつくことのできない存在である。そして直立二足歩行の起源のことを考えるなら、人間とはほんらい、自分にしがみつくことからの解放を「快楽」として生きている存在なのだ。
うまく体を動かせないもの(うまく生きられないもの)は、自分(の身体)を、どうしても意識させられてしまう。だから自分(の身体)を忘れることは、ひとつの救い(快楽)になる。
「生きられない自分」に対する「嘆き」があるから、そこからの解放が快楽として体験される。したがって死の瞬間はある種の恍惚として体験されることが多い。だから、手首を切るとかの自殺という行為がくせになったりする。
死の瞬間は、おそらくそれほどつらいものではない。なぜなら、そのときだけは誰も自分にしがみつくことはできないからだ。
つらいのは、自分にしがみついて終末期を生きねばならないことだ。安楽に生きられるはずがないのに、安楽に生きようとするからつらいものになってしまう。
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   5・介護のしがいがある年寄りになれない
終末期の吉本氏は、いつもへらへら笑っていた。自分にしがみついて、つねに自分は安楽に生きていると思いこもうとしていたし、安楽に生きていることを他人に見せようとしていた。彼は、自分の体が動かなくなってしまっている不幸と向き合うことができなかった。自分を忘れるということが、けっしてできなかった。いつも人に見られている自分を意識していた。自分を見せようとしていた。つねに自分にしがみついていた。
自分にしがみついているから荒れ狂う人もいれば、へらへら笑ってみせる人もいる。
どちらにしても人は、そうやって自分(の観念)にしがみつきながら、身体との関係を失ってゆく。
吉本氏は、「歳をとることは観念だけの存在になってゆくということです」といわれた。観念だけの存在になってしまえば、「生きられないものの嘆き」などない。そうやって、いつもへらへら笑いながら、ますます身体との関係を喪失していった。
作家の佐藤愛子氏は吉本氏と同じ年代だが、吉本氏とは逆に「歳をとることは、体の不調や痛みと年中つきあわされて生きることだ」といわれる。つまり彼女は、観念だけで生きることの不可能性を自覚している。
おしっこを洩らしたことを嘆いている年寄りと、そんなことには知らんぷりしていつもへらへら笑っていると年寄りと、いったいどちらが介護のしがいがあるだろうか。
へらへら笑って自分(の観念)に執着してばかりいるから、ますます体が動かなくなってゆく。
現代の被介護老人の体がますます動かなくなってゆくのは、ただ老齢による衰弱というだけではすまない問題が潜んでいるのではないだろうか。
歳をとれば、誰だって老いや死を語るようになる。しかし何事も「当事者」がいちばんわかっているとはかぎらないのだ。「当事者」だから見失ってしまうことも少なくない。
結論を急ごう。
現代の老人はどうしてこうも自分(の観念)にしがみついて終末期を生きようとするのだろうか。そういう生き方が正しいつもりでいる、それが問題だ。
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   6・失敗するべくして失敗している
誰だって多かれ少なかれ自意識を抱えているが、人と出会えば自意識なんか忘れてしまう。なのに現代人は、それでもまだ自意識で人との関係をつくろうとする。それが、問題だ。
内田先生や上野氏や吉本氏のように、このごろでは、老人になるとますます自分にしがみついてゆく人は多い。そうやって、終末期の過ごし方に失敗する。
ほんとに、自意識過剰な年寄りが多い。これじゃあ介護する人は苦労するはずだ、と思う。
もちろん介護する方だって、介護してやっているという恩着せがましい自意識を押し付けていっていいわけでもないだろう。
それはもう、最後の最後のせっぱつまった関係なのだから、もう少しなんとかならないのかと思う。ともに自分を捨てて向き合う関係なのではないか。
介護されたら、自分を捨てるしかない。介護するなら、自分を捨てるしかない。人間は、そういう関係が生まれるような存在の仕方をしているのではないだろうか。
終末期になってもまだ自分にしがみついていられるために介護が存在するのではない。自分捨てることを助けてやる行為として介護をするのではないだろうか。
何はともあれ人と人の関係の根源は、自分を捨てて(忘れて)相手にときめいてゆくことにあるのではないだろうか。
世の中全体が、自分にしがみついて生きることが当然のような空気になっている。
現代の大人たちは、終末期の生き方を、失敗するべくして失敗している。相手のせいにするわけにはいかない。
自分にしがみつくばかりで、自分が壊れる(=自分を忘れる)ことのイノベーションを知らない。それはつまり、感動という体験が希薄になっている世の中だ、ということだろうか。平和な世の中だからということではないと思う。経済社会に踊らされて疲れてしまっているのかもしれない。
とにかく、経済的にも人格的にも自分が何ものかになったつもりでいるから、自分とか自分の既得権益を手放したくない。凋落という事態を体験したくない。
しかし人生の終末期に入ってゆくことは、まぎれもなくひとつの凋落なのである。年寄りを尊敬せよといっても、体力も知力も衰えて社会から置き去りにされてしまっている存在なのである。そういう凋落を生きることが、終末期を生きるということだ。
終末期の老人は、羽を焼かれたイカロスなのだ。その落下感覚を避けることはもうできないし、人間の快楽の根源はそこにこそある。人間はそういう快楽を「生きられないもの」として生きる乳幼児期に体験するのだが、現代人の多くは、その段階ですでにそれを体験することに失敗している。
死を自覚すれば、その落下感覚を抱きすくめてゆくしかない。
しかし内田先生や上野氏は、この落下感覚の快楽を知らない。だから、飽きずに自慢話を繰り返すことができる。そんな年寄りがいちばん嫌われやすいんだけどね。
幸せな「おひとりさまの老後」などというものはない。落下感覚の快楽というものを知らない田舎っぺのブスがどういう老後を送るのか、まあ見ものである。というか、見る気もないし、見るに値するものでもないだろう。とにかく、この人がみごとに現代人の病理を体現している、と僕はいいたいのだ。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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