「ケアの社会学」を読む・40・予知能力という制度性

   1・危機を生きる
誰かがいう、人々は平和な時代になったために動物のような危険予知の能力を失って不安になっている、と。
しかし動物がはたして、未来の危険を予知する能力を持っているだろうか。彼らはただ、「いまここ」の異常や異変に敏感なだけだろう。
地震が起きそうだという漠然とした予感とか、ニューヨークの貿易センターのビルの中にいて9・11のテロに遭遇しそうだと予感してビルを出てきたとか、そんな予知能力があるはずないじゃないか。
予知能力などというものはひとつの妄想=病理であり、その妄想によって人はあれこれの不安に陥る。分裂病者の幻聴は、ひとつの予知能力である。
内田樹先生は、「あの大震災の津波で逃げ遅れた人は危機を予知して回避する能力が欠落して楽観的過ぎたからであり、これもひとつの平和ボケである」というようなことをいっておられるが、そうではない、人間は危機を生きようとする衝動を持っているからどうしてもそういう犠牲者が出てしまうのであり、それはそれで避けられない天災=運命だったのだ。
ただ、現代人はいつも未来のことを考えているから、勝手にそんな未来予知などという妄想を紡ぎだしてしまう。予知能力などというものは現代社会の病理であって、動物には無縁のものだ。
未来を予知して危機を回避する能力よりも、「いまここ」の危機を生きようとする方が、ずっと根源的な人間性なのだ。
命とはひとつの危機であり、生き物にとって死=危機は、つねに目前に存在している。
危機を回避する生き方ばかりしてきたから、終末期を生きられなくなるのだ。危機そのものを生きる以外に終末期を生きるすべはないのである。
原始人も動物も、予知能力など持っていない。
現代人は、予知能力を失ったから不安なのではなく、未来を予知しようとする欲望が肥大化してしまっているから不安なのだろう。目の前の人間に対して、この人間は自分に悪意を持っているとか自分を殺そうとしていると思い込んでしまうのと同じだ。内田先生のいう予知能力などというものは、そういうたんなる分裂病の気質にすぎない。
彼らは、動物や原始人には予知能力がそなわっている、という。つまり、つねに未来の危機を警戒しおびえていて、その強迫観念を自分心の奥底に眠っている原始的動物的な本能だと思いたいらしい。
しかしそんな能力など誰も持っていない。ただそんな妄想や科学的な計算式が存在しているだけのことだ。
動物や原始人は、先のことなどわからないと思い定めて「いまここ」をけんめいに生きている。彼らは、死を目の前のものとして自覚している。未来のことだとは思っていない。未来のことなんか考えない。
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   2・未来のことはわからない
未来のことをわかろうとするから不安になる。だから、未来のことを誰かに決めてもらって安心しようとする。
しかし、未来の社会は「こうなるだろう」とは誰にもいえない。「こうなるべきだ」としかいいようがないし、われわれはそれを希望的観測にして安心しようとしている。
われわれは、スケジュール通りにこの社会を動かそうとし、スケジュール通りに生きようとしている。
だが、時代は、人間のつくったスケジュール通りには動いてゆかないし、われわれの人生もまた、最後にはスケジュールのない時間を生きねばならない。
人生の終末期とは、自分が決めたスケジュール通りにはならない時間である。体はもう、自分の思う通りにはならない。痛みや不具合という「危機」を回避することはもうできない。それを受け入れるしかない。「危機」それ自体を生きるしかない。
終末期の老人は、「危機」それ自体を生きている。そしてそれは、人間の根源的な生のかたちにかえることにほかならない。人は、終末期の老人に根源的な生のかたちを発見するから介護せずにいられないのであって、この生から逸脱したかわいそうな存在だからではない。
われわれの方が、むしろ逸脱してしまっている。
この社会の中で生きてゆくことは、人間性の根源のかたちから逸脱してゆくことであるらしい。そして乳幼児体験やふだんのプライベートな生き方として「危機それ自体を生きる」というトレーニングをしてこなかった人間は、終末期になってうまくそこにかえってゆくことができない。
安定した戦後の経済成長の中で生きてきた人々は、すでに「危機それ自体を生きる」というタッチを失ってしまっている。そのつけを、人生の終末期になって支払わされている。
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   3・ときめくということ
われわれがあの大震災に遭遇した人々に対してなぜあんなにも心を動かされたかといえば、津波にさらわれて死んでいった人たちも含めて、すべての人たちが「危機それ自体を生きる」姿になっていたからだ。
かわいそうだから多くの人たちがボランティアに駆けつけたのではない。その「危機それ自体を生きる」姿こそ人間が感じるセックスアピールの本質だからであり、そうやって「ときめいた」から、ボランティアに駆けつけずにいられなかったのだ。
「かわいそうだから助けてやらねば」と思った人間がどれほど迅速に動くことができたか。「ときめいた」人間が真っ先に動いたのだ。
老人介護と格差社会とか自殺者の多さとか、近ごろはいろいろそうした問題があるらしいが、それは「かわいそうだから助けてやる」という上から目線の「倫理」の問題としてあるのではなく、「ときめく」という心の動きを持っているかどうかとして問われるべきなのだ。
「予知能力」とか「危機回避能力」などという本能は存在しないし、そんな能力が人間を生かしているのでもない。
生きてあることの醍醐味は、生きてあることの自覚にあるのではない、生きてあることを忘れて「危機それ自体を生きる」ことにある。
人間がこの世界や他者にときめかずにいられないのは、生まれてきてしまったことにうんざりしているからだ。「生命の尊厳」とか「生きてあることの価値」などというものにしがみついて人の心は停滞してゆく。
生き物に生きようとする「衝動=本能」などというものはない。危機を生きるものは「生きてしまう」し、「生命の尊厳」などという価値にしがみついているものたちが作為的な「生きようとする衝動」を紡いでゆかねばならない。それはつまり「死にたくない」という思いであり、その思いを強く抱いたまま終末期に入っていって失敗する。
人は、どこかしらに「死んでもかまわない」という思いを抱えている。だから、人生にはいろんなことがある。
「生きようとする衝動」とともにスケジュール通りに生きて死んでゆくことなど誰もできない。まあ現代人の多くは、そんなふうに生きようとする観念を紡いでいるが、そのあげくにブサイクな大人になり、終末期を生きることに失敗している。そういう社会的な問題がある。
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   4・平和ボケしているか
生き物は、「予知能力」や「危機回避能力」で生きているわけではない。
そんな能力があったら、誰が戦争などするものか。殺し合いになることがわかっていても、その「危機」を回避しようとしないのである。先のことなどわからない、という前提で生きているから、戦争に踏み切れるのだ。
内田樹先生は、「平和ボケしているから予知能力や危機回避能力を失っている」といわれるのだが、平和とは、物事がスケジュール通りに進む社会である。そのために「予知」や「危機回避」ができるつもりになってしまっている。
内田先生こそ、平和ボケの典型なのである。
今回の原発事故だって、「予知」や「危機回避」ができるつもりでいたから起きてしまったのだ。それができないと思い定めていれば、無駄かもしれないと思いつつもっと厳重な警戒をしている。
人は、「平和ボケ」すると、「予知能力」や「危機回避能力」で生ききようとする。だから、それが通用しない終末期を迎えると混乱してしまい、大騒ぎしてうろたえたり鬱病認知症になったりする。
人間は、「予知」や「危機回避」などできない不完全な生き物であり、不完全な生き物として「危機それ自体」を生きようとするのだ。生きてあることに倦んでいる人間のそういう暗い衝動は、平和だから気づくことができるし、平和だからこそ忘れてしまっている。
人間は「予知」も「危機回避」もしないで「危機それ自体」を生きようとする生き物である。そういうことを、われわれは今回の震災で知らされた。
現在は、「予知」や「危機回避」をできるつもりでそのことに勤勉な人間と、そういうことをしようとしない行き当たりばったりの怠惰な人間とに二極化しているのだろうか。「勝ち組」と「負け組」として。
「予知」や「危機回避」で生きようとする平和ボケした大人と、平和に倦んで「ときめき」で生きようとしている若者とのジェネレーションギャップ、と言い換えてもよい。
われわれは、今回の震災で「ときめく」ことを体験したのであって、死ぬことの悲惨を知ったのではない。死ぬことは、悲惨でもなんでもない。われわれはそのとき、死ぬことにときめいて涙した。
死ぬことは回避できない、と知った。
人間は「かわいそうだから助けてやる」という「倫理」で介護をするのではない、危機それ自体を生きている存在に対してときめかずにいられないからだ。
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   5・自分が消える、ということ
人間は、危機それ自体を生きようとする。危機を生きていないと、心が停滞してときめかなくなる。
だから僕は、内田先生の言説はインポテンツの論理だ、という。実際にインポかどうかなんて、そりゃあわかりませんよ。
しかし、心がときめくということは、危機の中を生きている状態なのだ。
生き物は、危機に浸されると、消えようとする。逃げることも「いまここ」から消えようとする行為である。つまり、意識が自分から離れてしまう。自分から離れて自分を認識していない状態になる。それが「消える」という状態である。意識が自分から離れて世界や他者に憑依している状態を「認識する」といい「ときめく」という。この、危機のさなかで消えようとする衝動が生き物を生かしている。
自分を忘れて世界や他者にときめいている体験がなければ、人は生きられない。この状態において男は勃起するのであり、二本の足で立って不安定な姿勢のまま胸・腹・性器等の急所を外にさらしている人間にとっては、他者と向き合うこと自体がひとつの「危機」である。その「危機」においてときめいてゆくのが人間なのだ。
裸になって他者と向き合うのだもの、これこそまさに原初的根源的な「危機」だろう。そうやって男は、心を震わせ勃起している。
仕事が忙しくて心因性勃起不全(仮性インポ)に陥った、というとき、心が「スケジュールをこなす」という「未来予知」にばかりはたらいて、「いまここ」に対する反応が鈍くなってしまっている。意識が、未来に持っていかれてしまっている。
「いまここ」に対するときめきを失ったら、インポになるほかない。人間にとって「他者と向き合う」ということは、「危機」なのである。その「いまここ」の「危機」を回避して未来を「予知」することばかりしていたら、インポになってしまう。いやこれは、インポだけの問題ではない。現代社会そのもの病理なのだ。
日本列島の住民は「神」という制度を持たないから、良くも悪くも共同体の制度性に対してナイーブであり、人間性の基礎を逸脱するとかんたんに病理的現象を引き起こしてしまう。そうやって鬱病になったり自殺してしまったりしている。
人と人は、「危機」を共有して向き合っている。危機を回避している安定よりも「危機それ自体」の方が、よりダイナミックの心が動く。「ときめく」という心の動きは、そうやって「いまここ」の「危機」のさなかに投げ入れられたところで起きている。
人と人が向き合うことは「危機」の中に投げ入れられることであり、そこで「消えよう」とする衝動が起き、その自分が消えてゆくダイナミズムとして「ときめく(感動する)」という心の動きを体験する。
われわれが震災の報道に接したときも、裸で他者と向き合っているような原初的根源的な「危機」を体験したのであり、「危機」を共有して人と人はときめき合うようにできている。「かわいそう」と思ったんじゃない。そのとき日本列島の住民は、いつにも増してときめき合ったのだ。
たぶん、介護の現場だって、まれにはそういう「危機」を共有してときめき合う関係が生まれているのだろう。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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