「ケアの社会学」を読む・35・終末期の過ごし方

   1・「いまここ」でこの生や世界を完結させること
「生きられるもの」の論理は、社会にフィットして生きているかぎり健康な論理になり得るが、年老いたり病気になったり失業したり失恋したりして社会から離脱すれば病理的な観念のはたらきになる。
またそれは、社会から離れたプライベートな人と人の関係においても、有効な論理にはなり得ない。
人と人の心は、「生きられないもの」の「嘆き」を共有して響き合う。
体が元気で「生きられるもの」として生きているあいだは天国や極楽浄土のイメージが救いにも励みにもなるが、人生の最後に「生きられないもの」になったときに、そこで切実に死と向き合うことができなくなっている。弱ってしまったみずからの身体の「いまここ」と向き合うことができなくなっている。
自分の体の「いまここ」と向き合うことができないと、ますます体が動かなくなってしまうし、体が動かないことにヒステリーを起して介護人に当たり散らすことにもなる。
動かなくなってゆく自分の体とどう和解してゆくことができるか……この問題に対する答えは、「生きられないもの」として生きるところにしかない。
「生きられなないもの」として生きるとは、未来という時間のことは忘れて、「いまここ」でこの生もこの世界も完結してしまうことだ。そうやって「いまここ」の身体と和解することができるものが、動かないなりの体をなんとか動かすこともできる。
身体を置き去りにして観念だけの存在になってしまったら、ますます体は動かなくなってゆく。「介護される権利」を主張して自分の体を介護まかせにしてしまったら、体は動くことを忘れてゆく。
たとえ介護される身であっても、「介護される権利」を断念して自分の体や死との親密な関係を結んでゆくしかない。そうしないと体はますます動かなくなるし、頭の中はますます混乱してゆく。
介護人からしたら、永遠に生きるつもりで「介護を受ける権利」など主張されたらたまったものではない。そんなところで、介護人と被介護人の良好な関係などつくれるはずがない。
この社会の「生きられるもの」としてどんなに大手を振って生きてこようと、終末期になれば、「生きられないもの」になるしかない。そういう観念(=論理体系)のイノベーションに飛び込んでゆくことができるか。
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   2・人生を清算するということ
イノベーションとは、観念(=論理体系)の挫折である。未来を喪失して、「いまここ」に立ちつくすことである。未来が開けることではない。「いまここ」に立ちつくす体験である。
たとえば、新しい魅力的な商品と出会えば、未来のことなど忘れて夢中になってしまう。ひとまずそこでこの生や世界が完結するのだ。
未来のことなど忘れて夢中になってしまうのが、「遊び」である。遊びとは、いまここでこの生や世界を完結させてしまう行為であり、未来に向かうことの不可能性を生きる行為である。
賭けごとの醍醐味は、未来のことはわからない、ということの上に成り立っている。
「遊び」とは、「いまここ」に立ちつくす行為である。遊びの醍醐味は、「いまここ」でこの生やこの世界が完結してゆくことにある。
遊びを知らないと認知症になりやすい、とよくいわれるが、それは、未来に向かうことの不可能性の中で「いまここ」に立ちつくす醍醐味を知らない、ということだ。
人は、人生の終末期になれば、未来に向かうことの不可能性の中に立たされる。このことに耐えられないことが、認知症の引き金になることが多い。
未来に向かうことの不可能性の中で「いまここ」に立ちつくしているものは、「介護を受ける権利」を主張しない。なぜなら、すでに「いまここ」でこの生やこの世界が完結しているからだ。
日本列島の住民のように天国や極楽浄土を信じきれない民族はもう、「いまここ」でこの生やこの世界が完結するイメージを持つことでしか終末期を過ごすことができない。われわれは、そういう文化風土の中に置かれてあるのだ。
したがって、終末期になってもなお未来を当てにして「生きる権利」とか「介護を受ける権利」など主張していたら精神が危機的な状態に陥ってしまう、ということだ。
中世の人々は「無常」といっていた。彼らは今よりも寿命が短かったから人生の終末期はなかったと思うべきではない。彼らにとっては、生まれてから死ぬまでの人生のまるごとが終末期だったから「無常」といったのだ。
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   3・終末期の過ごし方、という問題がある
もともと人間にとっては、人生のまるごとが「生きられないもの」として生きる終末期だった。とすれば寿命が延びたことによってわれわれは、人生の終末期を歴史上初めて体験しているのではなく、その終末期を人生の最後の時間だけに押し込めてしまったのだ。
そうして、終末期をうまく過ごせない存在になってしまった。
現代人は、終末期の過ごし方のノウハウを失ってしまった。終末期の過ごし方に失敗して、現代的なさまざまな病理があらわれてきている。
人間は、「生きられないもの」として生きることの醍醐味を見つけてしまった。それは、この生やこの世界を「いまここ」で完結させるという作法である。それが、直立二足歩行の起源であり、言葉の起源であり、その「遊び」にこそ人間性の基礎がある。
その「生きられないもの」として生きることの醍醐味を共有してゆく「遊び」という位相において人と人の関係がつくられる。
上野氏のいうように「介護される権利」を自覚し主張ばかりしていたら、われわれは終末期の体との関係にも人との関係にも失敗してしまう。上野氏には、そういうことに対する想像力がまるでない。
そしてそれは、この国の大人全体が抱えている病理なのだ。
「生きられるもの」の論理で生きている現代社会の大人たちは、終末期をうまく生きられなくなってしまっている。われわれは、「介護される権利」がどうのというまえに、まずそういう問題を考えてみる必要があるのではないだろうか。
それは、死に対する親密さを失っている社会だということを意味するのではないだろうか。
死に対する親密さは、「生きられないもの」として「いまここ」でこの生や世界を完結させてゆくことにある。それが「遊び」という行為であり、そこにこそ人間の根源的普遍的な美や快楽や友情や感動がある。
そういう「遊び」を失っている社会なのだ。
大人たちが醜いから若者が離れてゆくのだし、離れていかれることに焦って大人たちは、ますます若者に対して「教えてやる」と居丈高になってゆく。
現代の若者たちは、大人たちから離れてそういう「遊び」の世界に遡行しようとしている。たぶん、だから経済が活性化しないのであり、若者はどんどん職場から離れてゆく。それは、「生きられないもの」として生きる作法であり、人間の根源的普遍的な美や快楽や友情や感動に遡行しようとする心の動きでもある。
年寄りの終末期の過ごし方だって、若者たちのその「生きられないもの」として生きようとする態度から学ぶ必要があるのではないだろうか。
われわれ大人たちは、大人ぶって若者たちに「教えてやる」などといっている場合ではないのである。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
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