「ケアの社会学」を読む・32・日本語で思考する

   1・けっきょくは、人と人の関係の問題なのだ
「人情の機微」という言い方があいまいだというのなら、「生き物としての実存感覚」だと言い換えてもよい。介護士離職率が高いという問題は、たぶんそういう問題なのだ。
体がきついとか賃金が安いからというだけではすまされない。
地域によって言葉が違うように、アメリカにはアメリカの人と人の関係があるし、日本には日本の人と人の関係がある。
しかし現在のこの国では、この国らしい人と人の関係を見失っている。それが、年間の自殺者が3万人以上という現象をもたらしているのだろう。けっきょくは、人と人の関係に失敗してみずから死を選ぶのではないだろうか。
言い換えれば、人と人の関係が、それを思いとどまらせる。
われわれの社会は、それを思いとどまることができるような人と人の関係を持つことができているだろうか。
「介護される権利を主張せよ」などといっていたら、ますます人と人の関係はぎくしゃくしてゆくばかりじゃないか。
上野さん、勘弁してよ……と僕はいいたいのだ。
この国は、そうした「権利と義務」で人と人がつながっているような「契約社会」ではない。それを無理やりそういう社会にして動かそうとしたら、そりゃああれこれほころびはあらわれてくる。
そういう社会にしたければ、日本語そのものを捨てなければならない。だから、そういう社会にしたくて「ユニクロ」のように英語だけしか使っちゃいけないという会社も出てくるのだろう。
日本語ブームというのがあった。それはちょうど、自殺者が3万人を突破したころからはじまった。そうやって日本語の構造を問い直そうというのは、人と人の関係を問い直そうというムーブメントでもあったのだろうか。
そうしてわれわれは、ちゃんと問い直すことができたか。
たぶん、できなかった。
どこかの頭のおかしいインテリ女が「介護される権利を主張せよ」とわめき散らしている世の中なんだもの。
けっきょくは、人と人の関係の問題なのだ。だからわれわれは、日本語とは何かということが気になる。
・・・・・・・・・・・・・・・・
   2・終末期を支える生命観
日本語の構造は、権利と義務の関係で人と人の関係がうまくいくようにはなっていない。
それはその機能が「意味の伝達」ではなく「感慨の表出」になっていることにあるのだろうが、いまは日本語論を語っている余裕はない。
ともあれ、権利を主張するために意味を伝えようとする。権利を持つということは、「生きられるもの」になるということである。西洋人は「生きられるもの」として生きようとする。
「生きられるもの」の論理が人間性の基礎的な論理体系(世界観)であるか否かはともかく、誰もがそういう論理で生きているという合意のある社会であればそれでいいだろう。しかしそういう論理で歴史を生きてこなかった民族がそういう論理で生きようとすれば、どうしてもほころびは出てくる。
われわれは、西洋人のように「生きられるもの」の論理で生きようとして、みずからの「生きられないもの」として生きてきた歴史的な無意識に裏切られてしまっている。そうやって人と人の関係がぎくしゃくし、年間3万人以上という自殺者を生み出している。
われわれは「生きられるもの」の論理で生き切ることができない。人生の最後の終末期になると、どうしても「生きられるもの」の論理では持ちこたえられない。西洋人だって持ちこたえられないのだが、日本列島の住民はなおうろたえてしまい、鬱病とか認知症とか自殺などの事態を引き起こしてしまう。
われわれは、終末期を「生きられるもの」の論理で生きることができない。それは「生きる権利」とか「生きなければならないという倫理」が通用する事態ではない。そういう論理体系をすべてチャラにしなければその事態に耐えることはできない。
まあ元気なあいだは「生きられるもの」の論理で生きるのが圧倒的に有利な世の中だが、死んでゆくことは、生きてきたという事実がすべてパーになる事態である。それはもう誰もがそう思ってしまうのであり、日本列島の「あはれ」や「はかなし」の伝統文化は、どうしてもそういう感慨に人を投げ込んでしまう。そうは思いたくなくても、われわれはそういう感慨を持ってしまう民族なのだ。で、その事態に耐えられなくてうろたえる。
「生きられるもの」の論理で生きてきたものは、そうは思いたくない、と煩悶する。むかしの日本列島の住民は「すべてがパーになる」ことの快感を知っていたから、「あはれ」や「はかなし」や「黄泉の国」や「無常」の文化を育ててきた。
「すべてがパーになる」ことは、ひとつのイノベーションである。地球は太陽のまわりをまわっている、といったコペルニクス的転回のことだ。
人生の終末期になれば「生きられるもの」の論理体系から「生きられないもの」の論理体系に転回するというイノベーションを体験しなければならない。
しかし現代人は、そのイノベーションを怖れて、なおも「生きられるもの」の論理にしがみつこうとする。「すべてがパーになる」というイノベーションの快感を知らない。そうして、おおいにうろたえる。しかし、死を前にすれば、どうあってもこのことは受け入れるしかない。
過ぎてしまった時間はもう戻らない。人はこの事実と向き合うことを避けて、未来を待ち焦がれながらスケジュールを生きようとする。意識は、未来へ未来へと向かって、「いまここ」を忘れてゆく。そうして、生き物には生きようとする衝動(本能)がある、という論理を導き出す。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   3・霊魂という概念は外来のものである
人がスケジュールを生きようとするとき、未来まで生きてあることが前提にされている。これは「生きられるもの」の論理である。そして未来のスケジュールがあるのなら、「いまここ」が変更されてはならない。すなわち、「いまここ」でイノベーションが起きてはならない。
もう未来まで生きられない、という事実をイノベーションとして受け入れることができない。
だから、天国や極楽浄土のイメージが捏造される。身体は死んでも観念(=魂)は死なない。だから、観念(=魂)は天国や極楽浄土にいける。
そうやって、身体を置き去りにした論理が紡ぎだされてゆく。
「生きられるもの」の論理とは、身体を置き去りにした論理である。
「たましい=霊魂」という概念は、仏教とともに大陸から入ってきたもので、もともと日本列島の住民の生命観ではなかった。それは観念が身体を置き去りしたところで成り立っている生命観である。
霊魂は、死んだ人の身体を離れて永遠に生き続ける……このような生命観が平安時代に外来の陰陽道などとともに広まっていったが、これは、日本列島土着の生命観ではない。
古代以前の日本列島では、肉体が朽ち果てれば命も消えてなくなる、と信じられていた。だから、肉体が朽ち果てて骨だけになってから埋葬していた。埋葬するのは、死者の霊魂を鎮めるためではなく、生き残った人たちの死者に対する未練を断ち切るためであった。
人類の埋葬という行為はこのようにしてはじまり、氷河期明け以降の共同体の発生以後に「霊魂」という概念が生まれ変質してきたのだが、孤立した島国であった日本列島では原初の生命観がずっと残っていた。
そしてその歴史的な無意識は、現代に住むわれわれの中にも引き継がれているのだ。
日本列島の住民には、観念(=霊魂)が身体を置き去りにして(身体から離れて)天国や極楽浄土まで生き延びてゆくというような生命観は馴染まない。われわれは、観念だけがひとり歩きしてゆくような思考がうまくできない。
西洋人は、われわれが考えるよりもずっと本気で天国を信じているのだ。われわれには、彼らほどそれを信じきる能力がない。
だから、終末期として死と向き合う段階になると、おおいに混乱しなければならなくなる。
それは、歳をとってからのことだけではない。人間は、かんたんに死と向き合ってしまう。病気をしたり失恋したり失業しただけでも、死と向き合ってしまう。誰もがどこかしらで死と向き合って生きているともいえる。
なのにこの国の現代人は、観念が身体を置き去りにする西洋人やインド中国人の流儀を真似て死と向き合おうとしている。
真似ても、うまくいかないのだ。だから、年間3万人以上の自殺者を生み出してしまう。
観念が身体を置き去りにする流儀の「権利と義務」だの「需要と供給」だのという流儀で人と人の関係をつくろうとして、さまざまにぎくしゃくしてしまっている。
・・・・・・・・・・・
   4・観念が身体を置き去りにすることの制度性
観念=霊魂が身体を離れて外から自分の身体を眺めている……幽体離脱……西洋人や中国インド人は、こういうことを宗教者が修行の果てにたどりつく「悟り」の境地のようにいっているのだが、そんなことくらい病理的な現象として誰でも体験するのであり、それが人間性の根源のかたちではない。そんなところに人間の実存感覚があるのではない。それはあくまで、一時的な精神の病理現象なのだ。
そんな体験を自慢げに語る言説と出会うと、僕はむかむかする。そんな体験でこの国の人々の「死の恐怖」は克服できないし、終末期の過ごし方の問題は解決できないのだ。
観念が身体を置き去りにするという意識のはたらきは、人間性の根源ではない。少なくともこの国はそんな流儀で歴史を歩んでこなかった。あくまで観念が身体につき従うようなかたちの生命観を紡いできた。つまりこの国の人と人の関係を円滑にする「人情の機微」は、そのようなかたちで身体と向き合い死と向き合う生命観から生まれてくる。
だから、日本語(やまとことば)は身体的である、といわれる。
幽体離脱」などという現象が「悟り」だの「意識のはたらきの根源」だのというのはただの外来の思想であり、中沢新一氏とか吉本隆明氏とか内田樹先生とか多くの仏教関係者とかはもうそんなことをもったいつけて語っているのだが、そんなことをいうこと自体が現在の高度資本主義や近代合理主義に骨の髄まで毒されている証拠だ。
この国の原始的な神道は、「霊魂」という概念では語れない。
われわれが、観念が身体を置き去りにするような西洋的な生命観=思想にしたがってそうした社会の構造や人と人の関係をどんなにつくろうとしても、日本語そのものに裏切られてしまう。そうして、年間3万人以上の自殺者を生み、いつまでたっても介護する人たちの苦悩は消えない。
_________________________________
_________________________________
しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

幻冬舎書籍詳細
http://www.gentosha-r.com/products/9784779060205/
Amazon商品詳細
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779060206/