「ケアの社会学」を読む・33・死んでゆく作法

   1・「さよなら」を告げて死んでゆく
身体は「生きられない」存在であり、観念は永遠に「生きられる」。人は、身体を置き去りにした観念的な存在になることによって、どこかしらで永遠に「生きられる」存在であるつもりになってしまっている。そうして、天国や極楽浄土のイメージを生み出した。人は、共同体の制度とともにそういう「生きられるもの」の論理を持ったことによって、死の恐怖を抱えて生きねばならない存在になった。
べつに、死を知ってしまったから死の恐怖を覚えるようになったのではない。死のことなど、たぶん100万年前の原始人だって知っていた。しかし彼らは、「生きられないもの」の論理で、死を親密なものとして生きていた。
死を知ってしまったから死が怖くなったのではなく、死が親密なものではなくなったから死が怖くなってしまったのだ。
そして人類史において死が親密なものではなくなってしまったのは、つい最近のことなのだ。それはたぶん、人々の思考や感受性が、貨幣経済や共同体の制度にすっかり浸食されるようになってきたからだろう。
もともと人類は、そうした貨幣や共同体の制度からの避難場所として、家族をつくり、恋をすることや学問や芸術などの文化領域を発達させてきた。それは、「生きられないもの」の論理で死を親密なものとして生きる文化領域であった。
しかし今や。もともと避難場所であった家族も恋も友情も学問や芸術も、大きくそうした「生きられるもの」の論理で生きる制度性に浸食されて、死が親密なものではなくなってしまった。
プライベートな人と人の関係すらも、制度性に浸食されてしまっている。
「生きられるもの」の「生命の尊厳」などというおためごかしの言説が幅をきかせている世の中であるかぎり、おそらく介護社会の充実はない。
介護するものとされるものとの関係は、ほんらい、死に対する親密さで寄り添い合ってゆく関係ではないのか。
介護するものは、誰もが死んでゆく人に対する敬意や祈りのような感慨を抱いている。
介護されるものは、介護するものに見送られて死んでゆく。たとえさびしい孤独死であっても、人は、この世の生き残ったものたちとの関係を意識しながら死んでゆく。この世に「さよなら」を告げて死んでゆくのだ。
ひとりで生まれてひとりで死んでゆく……といっても、誰もが「さよなら」を告げて死んでゆくのだ。つまり人間は、他者との関係の中で死んでゆくのだ。
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   2・死は社会との別れか?
人は、別れの儀式をする。旅立つ人を見送り見送られるということは、人生のあいだで何度でも体験する。旅立つ人に対しては見送りに行かずにいられなくなるし、見送られることのせつなさや幸せがある。
介護をすることも、まあこのような行為にちがいない。
たとえひとりで旅立つときでも、誰かに「さよなら」を告げているし、「さよなら」の声が返ってくるのを感じている。
しかし「社会」に対して「さよなら」を告げても、「さよなら」の声は返ってこない。社会は、「人」ではないのだ。人は誰もが死ぬが、社会は永遠に生き続ける。自分が死んだ後も、永遠に生き続ける。人は、社会から置き去りにされて死んでゆく。
だから孤独死は悲惨だというのだが、そんな言い方をすること自体が、死を社会との関係でしかイメージできていない証拠である。そうして、手あつい介護を受けてもまだ、みずからの死を社会から置き去りにされることというかたちでしかイメージできない。そんな老人が、「介護を受ける権利」を振り回して悪あがきをするのだ。
彼らは、死が人との別れだということをイメージできない。社会との別れだとイメージし、悪あがきしている。
死が社会との別れになってしまっている世の中だ。
「生きられるもの」として社会との関係でしか生きていない人間がたくさんいる。彼らは、生きることは第一義的には社会との関係を生きることだと思っている。人との関係を生きるということに対するイマジネーションがとても希薄である。
だから、死もまた社会との関係を死んでゆくことだというふうにしかイメージできない。
介護の現場がそんなイメージに覆われたところで、さまざまな介護の悲劇が起きている。
介護が、上野千鶴子氏のいうような社会的な行為になってしまったら、ろくなことにはならない。
死の恐怖のほとんどは、社会との別れの恐怖である。そして体が動かなくなって生きていること自体が社会との別れであるのなら、その恐怖は死ぬことによって解決される。そうやって終末期患者の自殺幇助ということが行われているのだろう。
介護の現場は、たとえ社会的な行為であっても、社会から離れて純粋な人と人の関係が結ばれるところなのだ。まあそこに、現場の人と上野氏をはじめとするまわりの人間との意識の乖離がある。
死んでゆくことは、人との別れであって、社会との別れではない。人は、介護の現場に置かれた時点で、すでに社会から離れてより切実な人と人の関係を生きている。
より切実な人と人の関係を生きているはずなのに、現代人はそれをちゃんと自覚できなくなってしまっているらしい。そうやって終末期における無意味な延命措置や自殺幇助があたりまえのようになってきているのだろうが、それはたぶん、介護思想の衰弱であり退廃であるのだろう。
現代人は、ちゃんと死んでゆくということが下手になっている。われわれは、「生きられるもの」としての「いかに生きるべきか」とか「社会はいかにあるべきか」という議論ばかりして、ちゃんと死んでゆくことのできる思想も感受性も失っている。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
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