「ケアの社会学」を読む・34・社会意識という制度性、あるいは倒錯

   1・社会意識とは自意識のこと
上野千鶴子氏や内田樹先生は、大人として社会意識を持て、という。
社会意識¬=市民意識を持つことが大人の資格であるかのようにいわれている世の中だ。
公共心、すなわち「世のため人のため」という意識。団塊世代は、そういう意識を持てと、小さいころから社会からも学校からも刷り込まれて育ってきた。
戦後とは、そういう時代だった。その社会意識が、全共闘運動につながっていった。
団塊世代をはじめとする戦後の人間は、社会や時代を語れなければ一人前の知識人や大人ではない、という意識が強い。
彼らは、社会や時代をつねに意識している。それは、社会や時代にとって自分はどういう存在か、ということを意識することでもある。つまり、他人とって自分はどういう存在かと意識する自意識が強い、ということだ。
上野氏や内田先生は、人にちやほやされることを人生最大の目標として生きてきたのだろう。「世のため人のため」という「社会意識」とは、そういう自意識でもある。
彼らは、自分が他人からどう思われているかということをとても気にする。社会意識が肥大化すれば、どうしてもそうなる。
町を歩いていて、道行く人のすべてが自分に対して悪意を抱いている、と思い込む。それは、過剰な社会意識であると同時に,過剰な自意識でもある。そうやって「他人の悪口が聞こえてくる」という病理現象(幻聴)が起きてくる。
上野氏や内田先生はそういう危険をつねに抱えているから、人からちやほやされたがる。ちやほやされているかぎり、幻聴が起きる心配はない。しかしちやほやされることに失敗すれば、たちまちそうした病理現象が起きてくる状態に引きずり込まれてしまう。まあ、社会にとどまっていられるなら、なんとか病理現象は回避できるが、他者の自分に対する悪意を意識して大いに煩悶しなければならない。
彼らは、他人からちやほやされる体験をコレクションしていかないと生きていられない。彼は、他者との距離感を喪失している。他人が自分のことをどう思っているかなんて永久にわからないし、どうでもいいことなのである。しかし彼らは、他人の気持ちがわかったつもりになってしまう心理を色濃く持っている。
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   2・過剰に他者を意識するということ
現代人が歳をとって社会や他人から置き去りにされた身になると、つまり他人からちやほやされる体験を失ってしまうと、頭の中が混乱し、あげくにさまざまな精神の病理が起きてくる。
介護をされる老人が介護の仕方が悪いといって大騒ぎするのは、介護人の悪意を意識するからだろう。ちやほやされていないと生きられない心理をそのまま引きずって終末期に突入してしまったからだろう。
現代人は、ちやほやされていないと生きられない。ちやほやされていないと、他人の悪意が自分の中に流れ込んできてしまう。だから、歳をとるほどに社会的な地位が上がったり収入が増えたりして、ちやほやされることが確保されてゆく仕組みになっている。
しかし歳をとって失職したり病気になったりすれば、もうちやほやされる体験はなく、どんどん他人の悪意におびえるようになってゆく。
現代の年寄りは、他人にかまってもらいたくてうずうずしている。それは、けっして健康な心の動きとはいえないだろう。
上野氏のように根っから他人にかまってもらいたくてしょうがない人は、自分が被介護老人になる前に、どうしても「介護される権利」を確立しておきたいらしい。
社会意識とか「世のため人のため」とかいっても、ようするに人にかまってもらいたくてうずうずしている意識なのである。
そして、すなわちそれは、死に対する親密さを失っている意識なのである。それが、問題だ。
死に対する親密さを持っている人間は、むやみに人にかまわれようとしない。なのに現代社会においては、歳をとって死が近くなればなるほど人にかまってもらいた気持ちが肥大化してくる。たぶんそうやって、介護の現場が混乱している。
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   3・子供にかえることのむずかしさ
他者を過剰に意識してゆく自意識のことを、社会意識という。
歳をとると子供にかえる、というが、大人になったことのない子供と、大人という時期を通過してきた老人が同じだとはいえない。
大人になれば、頭の中が社会意識に浸されてしまう(ことが多い)。内田樹先生のように、社会意識を持った大人こそがほんものの人間だ、と思っている大人は多い。そんな大人たちが歳をとって子供にかえったからといって、頭の中にしみついた社会意識がきれいさっぱりなくなってしまうことはないだろう。子供にかえったからといって、妙なプライドとか嫉妬心とか、そういう心の動きがきれいさっぱり消えるかといえば、そんなものではないだろう。
社会意識とは、自意識のことである。社会の中に自分を置いて自分を確かめている意識である。
それに対してほんものの子供は、自分のことを忘れて体ごと世界に反応している。彼らの自意識は希薄だ。
子供は、自分が他人からどう見られているかということなど気にしていないが、大人はそればかり気にしている。その意識が、社会意識であり自意識である。
大人は、自分を確かめて生きている。子供は、自分を忘れて生きている。
歳をとったら子供にかえるといっても、多くの場合は、自意識過剰の妙な子供になるだけである。
子供は親の愛なんか当てにしていない。自分が親を愛しているだけである。子供は、親から愛されるよろこびなんか知らない。
大人は、愛されるよろこびで生きようとする。だからこそ、「嫌われている」ということにも意識過剰になる。
だから大人は、嫌われていることに耐えられなくて、自分のことを嫌っている人間を排除しようとする。そうして仲間だけの集団をつくろうとする。おたがいに「嫌う」ということを許さないから、かたちだけの仲良し集団になってゆく。そういう形式が優先される集団をつくってゆく。内田先生が「家族は家族であるということが大事なのであって愛し合っていることを問うべきではない」といわれるのは、まさにこうした形式主義にほかならない。家族の存在意義は冠婚葬祭等の「儀礼」にあって、みんながそれにしたがうことによって家族がなりっているのだとか。心と心が響き合う体験なんかどうでもいいんだってさ。
しかしそういいながら、つねに愛されたがっているのである。嫌われることを怖がっているのである。嫌われることを怖がっているから、愛されているという「たてまえ=形式」としての「儀礼」に執着するのだ。
子供が、かまわれたがるようになるのは、社会意識の芽生えである。基本的に子供は、かまいたがりであって、かまわれたがりではない。友達や小動物やおもちゃをかまいたがるが、人にちやほやされことなんか望んでいない。
しかし上野千鶴子氏が「老人は介護される権利を自覚し主張せよ」というとき、彼女自身の人からかまわれたがりちやほやされたがる社会意識が投影されている。
人にときめくことのできない人間は、人からかまわれちやほやされることによってしか生きてゆけない。やっかいな介護老人は、歳をとって子供にかえっても、すでにそういう意識や態度の習性がしみついてしまっている。
社会意識=市民意識が肥大化した社会になると、なんだかもう、かまわれたがりの大人や老人ばかりになってゆく。知識人のツイッターなんかを眺めてみても、右も左も、社会意識=市民意識を扇動する言葉ばかりだし、多くの人たちがその流れに乗ってゆこうとしている。人が、過剰に他人=社会を意識しすぎる社会になってしまっている。必要以上に他人から嫌われることを怖がり、ちやほやされたがっている。
社会意識が強いものたちは、ちやほやし合って仲間をつくってゆき、社会意識の希薄な人間を見下し、社会意識を持てと扇動したり、排除したりする。
この世の中は、社会意識=市民意識が旺盛な人間ばかりで構成されなければならないのか。
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   4・「私ならこうする」という言い方のいやらしさ
高橋源一郎氏は、みずからのツイッターで、「何が正しいか」ではなく「私ならこうする」という言い方しかできない、といっておられる。
こういうのを「欺瞞」というのだ。「私ならこうする」といった時点で、すでに「何が正しいか」という判断をしている。
そんなことは、そのときになってみなければ、当事者になってみなければわからない。
政権を取ったら「私ならこうする」、と民主党がいって、その通りにやっているか。
政治家でもないものが「私ならこうする」といっても、いざ政治家になったらどんな言動や行動をとるかは、政治家になってみないとわからないのだ。
悪者と戦う、といっても、実際に悪者と向き合ってみないとわからない。逃げ出すかもしれない。
「私ならこうする」という言い方は、ほんとにいやらしい。
いまどきの知識人はみな、「私ならこうする」という口ぶりで、政治のことや社会のことをあれこれ言い立てる。内田先生もまさにこの典型的なタイプであり、上野氏の「ケアの社会学」もけっきょくはそういう書きざまである。まあ庶民だって、同じ穴のムジナかもしれない。そういういやらしい社会意識=市民意識が蔓延している。
人と人がたがいの立場を尊重し合うなら、ほんらい「私ならこうする」という言い方は成り立たない。それは、その道の先人が未熟なものに向かっていうせりふである。
誰もが自意識過剰になってしまっている。それが、社会意識=市民意識の成熟の正体だ。
大人たちは、誰もがちやほやされたがって、つまり他人の意識を自分に振り向けようとして、正義ぶってしゃらくさいことばかりいっている。おたがいがこの社会の「生きられるもの」として、しゃらくさいことを言い合いちやほやし合って第三者を排除しながら仲間という集団をつくってゆくのだろうか。
それが、人と人の関係のほんらいの姿なのか。
友情とは、そんなものなのか。少なくともそんなかたちで介護するものとされるものとの友情なんか成り立たないだろう。
おまえらの自慢げな「私ならこうする」という与太話などどうでもいいんだよ。
人間は、「弱み」をさらして向き合っている存在である。そこから、直立二足歩行がはじまっている。今どきの若者たちが、「生きられるもの」の論理で生きている内田先生から「だめになってしまった」といわれねばならないのは、彼らはつまり「生きられないもの」としての「弱み」を見せ合いながら友情をはぐくむという流儀で生きようとしているからだ。
介護をするものとされるものの関係だって、たがいに「別れ」を告げねばならないことのかなしみが共有されたときにはじめて、友情が生まれてくるのではないだろうか。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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