「ケアの社会学」を読む・31・介護は経済行為か?

いま、老人介護の現場で、介護士離職率が高いとか、介護をする家族のものが精神的に追いつめられるとか、さまざまな混乱が起きている原因のひとつに、介護をされる老人が死を受け入れることができなくて大いに騒々しい存在になってしまっていることもあるにちがいない。つまり、介護される老人が、まわりが介護せずにいられない存在になり得ていない、という現実がある。そりゃあ、そうだ。被介護老人に、「自分には介護をされる権利がある」だの「自分は介護商品の消費者だ」などと大きな顔をされたら、そりゃあ介護する側の介護をしたいという気持ちも萎えてしまう。げんなりしてしまうだろう。
人間の最後がこんなにも見苦しいものであるなら、誰だってげんなりして逃げ出したくなる。自分もあんな年寄りになるのかと思うと、生きているのがいやになってしまう。そうやって離職していったり、家族のものが介護に疲れて自殺してしまったりということも起きているのだろう。
介護をするということは、介護者自身も普段以上に死と向き合わされるということなのである。部外者が、どうしてそんなにかんたんに自殺してしまうのかといってもはじまらない。部外者には、そのせっぱつまった気持ちはわからない。
また、被介護老人は、介護するもののそんなせっぱつまった気持ちを置き去りにするようにさっさと認知症という世界に逃げ込んでゆき、ますます傍若無人になったりする。
上野千鶴子氏は、いかにもクレーマー然として「介護をされる権利を自覚し主張せよ」と煽る。うんざりだ。しかしこんな言説がまかり通るほどに、今や人と人の関係がいびつになってしまっている世の中なのだろうか。
多くの介護に携わる人たちの心が傷ついている。なんのかのといっても人と人の関係は「おたがいさま」の世界だから、介護される老人の側にだって問題がないわけでもあるまい。
「介護をされる権利」を煽るなんて、介護をされるもののファシズムではないか。
ソープランドの客は、金を払ったのだからセックスをしてもらう権利があるのか。そう思っている客は少なくない。そしてそんな客はもてない。女の態度も事務的になる。その料金は、基本的に「場所(ショバ)代」なのである。セックスができるかどうかは、あくまで女の善意の上に成り立っている。お客には、そういう気分もある。まあそこで葛藤しているお客もいれば、自分が金を払ったことなどすっかり忘れている客もいる。
世の中は、圧倒的大多数の女がセックスをただでやらせている。減るもんじゃあるまいし、当然だ。だから男は、セックスはほんらいただでやるものだと思っている。だから、ソープランドにいっても、その料金は場所代だと納得し、やらせてもらえるかどうかは女の善意にすがるしかない、という気持ちがどこかにある。
ソープランドの客は、どこかしらで、金を払ったのだから自分にはセックスをさせてもらえる権利がある、とは思っていない。
介護の現場だって、これと同じだろう。金を払おうと払うまいと、それは相手の善意にすがるしかない行為なのだ。基本的根源的に、相手の善意の上に成り立っている行為なのだ。
世の中には、ただで介護をしている人はいくらでもいるし、人類は大昔からずっとそうしてきたのだ。
頭の中が、たかだか数百年の歴史しかない資本主義経済にすっかり毒されてしまっている人間だけが「介護をされる権利がある」と思い込むことができる。そんな老人ばかりの世の中になってしまったら、介護の現場なんか地獄以外のなにものでもないだろう。
かつて「姥捨て」の風習があったということは、この国の老人は歴史的な無意識として「介護をされる権利」を自覚していない、ということを意味する。縄文時代らいの歴史を通じて、「介護をされる権利」など自覚してこなかったのだ。ずっと、老人が「介護をされる権利」を自覚しない社会だった。
この国の歴史には、そうした権利だの義務だのという「契約」という関係意識は根付いていない。
なのに、1億総クレーマーともいわれるいまどきは、「介護される権利」を振り回してむやみに騒々しくなってしまっている老人が雲霞のように大量発生してきている。そしてその態度は、彼らの「死の恐怖」とセットになっている。むやみに権利を主張しても、むやみに義務を押し付けても、ろくなことはないのである。
そういう現在の資本主義経済制度に毒されている老人たちが、介護士の離職や家族の鬱・自殺に追いつめているという側面がないわけではないだろう。
体の疲れは、風呂に入って一晩寝たらとれる。でも、心の傷や疲れは、いつまでも引きずってしまうことが多い。そうやって離職したり疲れ果ててしまったりするのだろう。
介護するものとされるものとの関係の問題だって、決して小さくはない社会学的な問題であるにちがいない。そしてそれは、この国のオピニオンリーダーである上野氏をはじめとする多くの知識人たちがその問題を「権利と義務」や「需要と供給」の問題にしてしまって平気な顔をしている風潮にも一因がある。そういう短絡的な思考では、この問題には届かない。
それは、「人情の機微」の問題なのだ。
人と人の関係がぎすぎすしたものになってしまっている世の中だから、介護士は被介護老人との関係に失敗して辞めてゆくのだろう。たぶん、賃金が安いとか体がきついということが第一の原因ではあるまい。人間は、そういうことには耐えられても、人と人の関係の失敗には耐えられない。そういう「人情の機微」の問題がある。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
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