「ケアの社会学」を読む・29・介護するものとされるもの

   1・人間は歳をとるとぶざまになるのか
誰もがみずからに与えられた有り合わせの命をけんめいに生きているだけじゃないか……と思えば、誰も悪者にすることはできない。
でも、自分も含めて人間というのはどうしてこうもぶざまな存在なのか、という思いにもさせられる。
歳をとると、だんだんかっこつけていられなくなって、本性があらわれてくる。
おまえはそんなにも嫉妬深い人間だったのか……とか。
また、社会的地位があり金を稼いでいるころはそれだけで人が一目置いてくれたし自分に自信もあったが、歳をとってそんな立場から離れた身になると、えらく自分を見せびらかしたがるようになってくる。
なんだかもう自分のことばかり気になって、他人に対する関心や反応がなくなってくる。
他人なんか、自分を見せびらかす満足のために存在するのか。それは、歳をとってそうなったというのではなく、もともとそういう傾向を持っていたのだけれどむかしはそれをあからさまにあらわさなくてもすむ余裕があった、というだけのことだろう。
しかしまあ、いまどきの老人は、自分のことばかり語りたがる。自分のことを聞いてほしくてたまらないらしいのだが、しまりのない牛のよだれみたいな老人の自分語りなんかはた迷惑なだけだ。
なのに、それでも介護人は、そういう老人の話を聞いてやるしかない。老人が客(=消費者)のつもりでいれば、おまえには私の話を聞く義務があるという意識で、いい気になってしゃべりまくる。
悪いけど僕は、老人の自分語りや知識・知恵など、何の興味もない。いまどきの若者がこの世界や他者にどのように反応しているかということの方がずっと気になる。
いずれにせよ、世界や他者に対する反応を失った存在はぶざまだ。
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   2・介護しがいのある老人であることができているか
けっきょく上野千鶴子氏がこの本でいちばん言いたいこととして力説しておられるのは、「老人は介護を受ける権利を自覚し主張せよ」ということであり、僕がいちばん気に入らなかったのもまさにこのことにほかならない。
介護を受ける権利を主張するなんて、相手の「介護をせずにいられない気持ち」を侮辱しているのも同じである。自分には介護を受ける権利があるのだからおまえには介護をする義務がある、と命令していってもいいということか。
介護の現場が、こんな殺伐とした人と人の関係になってしまってもいいのか。
「権利」などといってもしょうがない。老人は、できることなら自分の体は自分で動かしたいと思っているし、動かせないという体験によって、はじめて死を受け入れる気持ちになることができる。
介護を受ける権利など忘れて自分がもうすぐ死ぬ身だということを思い知るのは、介護を受ける権利を主張することよりもっと大切なことだ。
自分がもうすぐ死ぬことを思い知っていない年寄りを介護するなんて、ほんとにしんどいだろう。そういう年寄りの体を縛るなどの邪険なことをしたりするのも、年寄りの側にまったく問題がないともいえないだろう。介護するものとされるものは、そういうせっぱつまった関係だということ。
ただそんなことはしちゃいけないという規則をつくるだけですむ問題ではない。どうして介護をすることがストレスになってしまうのだろう、という人と人の関係の問題がある。
規則だけで住み心地のよい世の中がつくれるわけではない。
なのに「介護される権利を自覚せよ」と扇動するこの田舎っぺのブスは、規則を整備するだけで世の中がよくなると思っていやがる。
人間に対して鈍感で人情の機微がわからないものは、規則だけで事態が改善されると思いたがる。人と人の関係が、規則の上に成り立っていると思っている。
そりゃあまあ、騒々し田舎っぺのブスが魅力的な都会の女として振舞うためには、それなりの規則やレッテルが必要だったのだろう。裸一貫の人間として振舞ってそれを認めてもらえた体験などないし、そういう自信もないのだろう。
しかし、介護の現場においては、介護するものもされるものも、裸一貫の人間として向き合うのだ。権利も義務も介在しない裸一貫の人間どうしとして向き合うのだ。
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   3・介護される権利など主張しても大事に扱ってもらえるとはかぎらない
被介護者が権利を主張すれば介護者との良好な関係を結べるというわけではあるまい。最後はもう、おたがい人間として魅力的かどうか、という問題になる。その笑顔が魅力的かどうか、という問題になる。
「自分には介護を受ける権利があっておまえを金で雇っているのだ」という思いを胸に隠しながら作り笑いしたって、その胸の中はなんとなく見透かされてしまう。
上野氏が、介護の問題を「権利と義務」だの「需要と供給」というタームで語りたがるのは、彼女自身がけっきょく「規則」の上でしか生きられない人間だからだろうか。
介護するものとされるものとの関係は、そういう「規則」の範疇では語れないのだ。
人生の終末期になれば、どうしたってその人の本性がむき出しになる。もう、いやおうなくそこで介護人との関係をつくってゆくしかないのである。
なんのかのといっても、魅力的な老人が大事に介護してもらえるのだ。それが、人間社会の残酷な現実である。そこではもう「権利と義務」だの「需要と供給」などというごまかし(=規則)は通用しないのだ。
これから終末期を迎えるものは、よほど覚悟しておかなければならない。そういう「畏れ」は持っていた方がよい。
「生きられるもの」として生きてきた現代人の本性がそれほど清らかでも魅力的でもないのは当然なのだから。
介護の現場は、おまえみたいにかっこつけて生きてきただけの騒々し田舎っぺのブスがみんなから愛してもらえるような甘いところではない。何もかも世の中や他人(男)を悪者にして生きてきたのであれば、その自分を可愛がるばかりで反省したり嘆いたりすることのない本性はきっとあらわれる。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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