「ケアの社会学」を読む。28・認知症的思考

   1・生きてあることの華と夢
老人介護とは、介護をする方もされる方も、誰もが死と向き合うほかないことを余儀なくされる場である。何はさておいても、まずそのことが問われなければならない。
人間は、根源において、「生きられないもの」として存在し、他者の前に立つ。介護の場において人は、このことをあらためて思い知らされる。
介護の場には、人が生きることや人と人の関係の根源のかたちがある。
僕は、この二カ月、このテーマを考えてくることによって、そういうことの一端に触れたような気がしている。
人は、「生きることの不可能性」を負って存在している。そして、ここにこそ、生きてあることの華と夢がある。
僕は、内田先生や上野氏のように倫理や道徳や社会正義を追及しているのではない。「人はいかに生きるべきか」とか「社会はいかにあるべきか」とか、そんなことはどうでもいい。ただもう、生きてある今ここの華と夢のかたちを見たいだけだし、そこにこそ「人間とは何か」ということの真実が潜んでいる、と思っている。
ここでいう「華と夢」とは、生きてあることのカタルシスとか快楽というような意味だと思っていただきたい。もしも、「介護社会の充実」を願うのなら、介護をしたりされたりする行為における「華と夢」を問うことだって無駄ではあるまい。
上野氏のように「介護を受けることの権利」を大合唱してゆけばそれでオーケーというわけにもゆくまい。そんなことを大合唱されたら、介護をする側はたまったものではないし、介護を受けている人たちが、実際問題としてそんな気持ちになるはずがない。そんな気持ちの被介護人を相手にしていたら憂鬱になるばかりだし、被介護人自身だってどんどん気持ちがすさんでゆくだけだろう。
それは、「女の権利」とやらを大合唱している上野氏をはじめとするフェミニストたちがちっとも魅力的な存在でなく、世間から鬱陶しがられているのと同じだ。仲間内だけのことならそれでいいのだろうが、世間の多くの人が、上野千鶴子なんてただの田舎っぺのぶすじゃないかと思っている。
僕は、上野氏がどんな顔をしているかということなど、会ったこともないからよく知らない。ただもうその語ることの内容が、騒々しい田舎っぺのブス丸出しじゃないか、といいたいだけだ。
権利の大合唱をすれば社会はよくなるなんて、いかにもぎすぎすした味もそっけもない論理ではないか。この世に人間が存在するということに対する感動もなければかなしみもない。その思考と感受性に、「華と夢」というふくらみと色気がまるでない。
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   2・死ぬのが怖くなる世の中だ
「生きることの不可能性(=生きられないもの)」を負った人間は、つねに死と向き合っている存在だが、成人して共同体の制度や経済社会に参加してゆくことによって、いったんそのことから逃れて「生きられるもの」になる。
この「生きられるもの」の論理が頭の中を占めてしまうことによって、死が怖くなる。現代社会は、「生きられるもの」の論理だけで動いている。
内田樹先生や上野千鶴子氏のように、「生きられるもの」の論理だけで語る人間がオピニオンリーダーになってゆく世の中だ。
人はまず、子供から若者になる時期に、「生きられないもの」としての世界観つくってゆく。
ところが現代人は、そうした人間性の基礎をつくる時期に、すでに「生きられるもの」の論理で生かされてしまう。教育制度はおおむねそういうコンセプトで成り立っているし、家族においてもまた親がそういう論理体系を子供に押し付けてゆく。
「生きられるもの」の論理で動いている世の中なのだ。だから死が怖くなってしまうのだし、老人になって終末期を迎えると、おおいにうろたえてしまう。
現代人は、「生きられないもの」としての「論理体系=世界観」を持っていない。これは、知的なエリートか無知な庶民かという問題ではない。その人の生きてあるかたちであり、心の動きの問題なのだ。
知的なエリートだろうと無知な庶民だろうと、この世には「生きられるもの」として生きている人と「生きられないもの」として生きている人がいるし、誰もがそういう二つの「論理体系=世界観」を抱えているともいえる。
「生きられないもの」は、世界や生きてあることそれ自体に拒否反応があるから生きられないのだ。
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   3・生きてあることに対する拒否反応
たとえば介護を受けているおばあさんが、「私なんかさっさと死んでしまえばいいだけの人間なのにみなさんの手をわずらわせてもうしわけない」というとき、生きてあることに対する「拒否反応」がはたらいている。
赤ん坊は、「生きられない」存在である。生物学者は、生き物は生きようとする衝動(本能)を持っているというが、生きることのできない赤ん坊は生きようと思ったらその瞬間に絶望の淵に突き落とされるしかない存在なのである。
赤ん坊は、生きようとする衝動(本能)を持つことの不可能性を負っている。
彼がその不可能性を克服するすべは、生きてあることを忘れてしまうことにしかない。おっぱいにむしゃぶりつくことは、空腹の鬱陶しさを抱えて生きてあるみずからの身体の存在を忘れてしまうことである。忘れようとしてむしゃぶりついているのであって、生きようとしているのではない。だいいち赤ん坊に「生きてある」という観念的な自覚などあるはずがないではないか。
生きてあることはただ身体の苦痛として自覚されているだけである。
われわれ生き物を生かしているのは、生きようとする衝動(本能)ではなく、生きてあること(=身体の苦痛)を忘れようとする、生きてあることに対する拒否反応なのだ。
だからおばあさんは「みなさんの手をわずらわせてもうしわけない」という。上野氏がいうように「家父長制」の抑圧を受けているからではない。上野氏には、人情の機微はわからない。
人間は、みずからの生きてあることに対する拒否反応を持っているから、意識が他者に向かう。意識が他者に向いていれば、みずからの生きてあることを忘れていられる。そうやって意識が他者に向かうところで、人情の機微が生まれてくる。人情の機微とは、「生きられないもの」どうしがその「嘆き」を共有してゆくことである。すなわち生きてあることに対する「拒否反応」を共有してゆくことにある。
人間は、生きてあることに対する拒否反応を持っているから、「生きられないもの」としての「論理体系(世界観)」を持っている。だから、「介護される権利を自覚せよ」といわれても忘れてしまう。そうして「私のようなものが介護していただいて申し訳ない」という。この言葉は、生きてあることに対する拒否反応がなければ出てこない。このおばあさんは、「生きられないもの」としての「論理体系(世界観)」を持っている。
人間は、「生きる権利」を自覚することの不可能性を負って存在している。しかしだからこそ、他者が手を差し伸べずにいられなくなる。そのようにして「介護」という行為が生まれてくる。
「生きられるもの」として「生きる権利」を自覚しているのなら、「勝手に生きていってくれ」ということになる。そういう人間には他者の関心が向かない。つまりセックスアピールがないし、そんな相手の介護をすることなんかいやになる。つまりそこには、人間的な集団性が生まれてくる契機がない。
人間集団の連携と結束は、誰もが「生きられないもの」として、誰もが「生きる権利」を自覚していないことの上に成り立っている。
セックスアピールとは、「生きられない気配」のことだ。このことを世阿弥は「萎れたるこそ花なり」といった。
人間集団は、根源的には「生きられない気配」を共有しつつ連携し結束している。
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   4・死と向き合うことがうまくできない
「生きられないもの」は、生きてあることに対する拒否反応があるから、みずからの論理体系(世界観)にしたがって、無意識のうちに情報を取捨選択している。だから、上野氏がどんなに「介護される権利を自覚せよ」といっても、その通りにはならない。
人間は、根源において「介護される権利」を自覚する存在ではない。
上野氏にとってそれは、家父長制に抑圧された無知な大衆に対する啓蒙のつもりなのだろうが、いざ「生きられない」身になって死と向き合えばもう、その言葉に説得力はない。
「生きられないもの」は、生きようとするのではなく、生きてあることを忘れようとする。忘れることが生きるいとなみであり、これが人間の本能だ。
しかし「介護される権利」を自覚することは生きてあることを自覚することだから、そんな啓蒙には説得されないか、説得されたら、ますます介護される時間の過ごし方が困難なものになってしまう。
もうすぐ死ぬものが、死と向き合う能力を喪失したまま生きることに執着し続けて「幸せな老後」といえるだろうか。
まあ世の中には、こういうアジテーションに乗せられてしまう人と乗せられない人がいるのだろう。
「生きられるもの」の論理で動いている世の中なのだ。死にそうになってもまだ死が受け入れられなくて悪あがきしている人がたくさんいる。そうして「介護される権利」を振り回して、まわりがうんざりしたり困り果てたりしている。
それは、本人にとっても、まわりのものにとっても地獄の日々であるにちがいない。
誰だって最後はもう、「生きられないもの」になって死を受け入れてゆくしかない。
人間は、生まれたときからしばらくのあいだ「生きられないもの」として生きてきたはずである。
現代人が死ぬ間際になっておおいにうろたえてしまうのは、この幼児体験に失敗しているからだろうか。この体験をちゃんと通過してきていれば、死ぬ間際になってあわてなくてもいいはずである。
むかしの人だって、もうすぐ死にそうだ、という終末期の時間はあったはずである。しかも、われわれよりずっと早く、40代50代でその時間を迎えていた。それでも、現代人ほどにはうろたえなかった。
それは、「生きられないもの」の「嘆き」が共有されている社会だったからであり、日本列島は伝統的にそういう文化があったのだ。
戦前までは、日本人はどうしてあんなにも死を怖がらないだろう、と外国人から思われていた。それが神風特攻隊や腹切りの習俗にもなっていたにせよ、ひとまずわれわれは、死を親密なものとする文化をはぐくんで歴史を歩んできたのだ。
だから、「生きられるもの」の論理を紡いでゆくことに挫折しやすく、あげくにかんたんに死を選んだり鬱病になったりボケてしまったりもする。
この国には。「生きられるもの」の論理で生きてゆく文化の伝統がない。だから「介護される権利を主張せよ」と扇動されてもいまひとつ盛り上がらず、相変わらず多くのおばあさんが「私なんかが生きていてもうしわけない」という。
おばあさんがそんなふうにいうのは、打算でもなんでもなく、死を受け入れようとする気持ちと、この社会には死にそうな老人を介護しようとする衝動があるということに対する信憑があるからだ。だからおばあさんは、私を介護してくれ、とはいわない。そのことをわれわれは、どう評すればいいのだろうか。
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   5・悪あがきする年寄り
上野氏がいうように、すべての老人が「介護される権利」を自覚し主張すれば、充実した介護社会が実現するだろうか。
すべての老人が寝たきりになってしまっていっせいに「私には介護される権利がある」と叫び出す社会なんて、なんだかむごたらしいだけだ。
もし理想というのなら、すべての老人が介護を受けることなく生き切ってつつがなく死んでいけたら、それに越したことはないだろう。
「介護をされる権利」を自覚し主張する声は、まだ死にたくないと悪あがきしている年寄りほど大きいことだろう。
誰もがそんなふうに悪あがきするのが、そんなにいい社会か。
つまり上野氏は、みんなそうやって悪あがきする年寄りになってしまえ、といっているのである。悪あがきする嫌われもののフェミニストのように。
彼女らは、自分たちが嫌われものであることに対する反省なんか何もない。正義のために戦っている、というつもりで、嫌われることが正義であることの証しだと思っているらしい。
まあいい、「介護される権利」を自覚し主張するということは、死と向き合っている存在であることの自覚がない、ということを意味する。
「生きられるもの」の論理でしか考えられないものは、死を親密なものとして死と向き合うことができない。それは、人間の自然から逸脱している。
人間はもともと「生きられないもの」として死と向き合って存在している。われわれの生は、「生きられないもの」としてはじまっている。赤ん坊はみな、「生きられないもの」として生きている。われわれは意識の根源において、「生きられないもの」としての論理体系(世界観)を持っている。
しかし現代人の観念は、この「生きられないもの」としての論理体系(世界観)を意識の奥に封じ込めてしまっている。誰もが封じ込めて生きるような社会の構造になっている。だから、死が怖くなる。だから、「介護をされる権利を自覚し主張せよ」という倒錯した意見が生まれてくる。それは、現代社会を生きる人間の病理なのだ。
現代人は、この生の基礎に「生きられないもの」の論理体系(世界観)を持つという幼児体験に失敗している。失敗してしまうような社会の構造になっている。
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   6・「介護される権利」なんて、認知症老人のセリフなのだ
認知症にもいろいろあるのだろうが、今やわれわれの誰もが、認知症の老人を身近に見ている。認知症といっても、境界があいまいである。歳をとれば、ほとんどの老人がボケてゆく。
そのボケ方が、問題なのだろう。はた迷惑なボケ方も多い。
なぜボケるかといえば、死ぬのが怖いからだろう。死と向き合うほかない状況になったのに、「生きられるもの」の論理だけで生きてきたから、今さらそんなことはできない。頭の中で、「生きられるもの」の論理と「生きられないもの」の論理が衝突して、「生きられないもの」の論理で思考する頭の配線をどんどん駆逐してゆく。
たとえば、「生きられないもの」は、空腹の鬱陶しさを嘆く。それに対して「生きられるもの」は、空腹とは無縁に食べようとする欲望や義務感を持っている。現代人は、昼の12時になったら、空腹であることとは関係なく、食べようとする欲望や義務感をはたらかせる。そうやって、観念が身体を支配して生きている。
空腹を感じることは、死と向き合うことである。歳をとると、そのことをあからさまに知らされてしまう。若いうちはまだ死ぬ心配がないから空腹を感じることに耐えられるが、歳をとると、そのことに恐怖を覚える。その恐怖のせいで、空腹を感じる頭の配線がショートしてしまう。そうして、食べようとする欲望と義務感だけで生きている存在になってしまう。
彼は、さっきいつご飯を食べたかということを記憶できないのではなく、記憶したくないのだ。認知症の老人は、「生きられないもの」として生きるタッチを喪失している。いや、現代人は、というべきだろうか。若いときはそれですんでいても、歳とったらそうはいかなくなる。
認知症とは、死と向き合う頭の配線がすべてショートして機能しなくなっている状態だともいえる。つまり、身体の状態に気づく脳のはたらきがどんどん死滅してゆくのだ。
そりゃあ、そうなったら楽だろう。ボケたやつが勝ちだ。その代わり、生きてあることの醍醐味を味わう感性もすべて放棄しなければならない。そこには、生きてあることの「華」も「夢」もない。
「生きられるもの」の論理で生きてきたことの必然的な帰結として認知症になってしまう場合も多い。
「介護をされる権利」を自覚し主張することは、終末期の老人になってもなお「生きられれるもの」であろうとする思考態度である。
それでもなお「生きられるもの」であろうとして、人は認知症になってゆく。そういう老人が「介護を受ける権利」を自覚し主張する。つまり上野氏の語ることは、そういう認知症老人の論理なのだ。
彼女自身、そろそろそういう緊張感のない顔つきになってきているんじゃないの?よく知らないけどさ。
「介護を受ける権利」を自覚し主張するなんて、生きてあることに対する緊張感がなさすぎるのだ。
介護は。上野氏のいうような「権利と義務」とか「需要と供給」などというタームで語れるような問題ではない。頭の悪いやつにかぎって、かっこつけてそういうタームを使いたがる。そういうタームで介護を語ること自体、社会学の議論として低次元すぎるのだ。
介護は「人情の機微」の問題であり、だからこそやっかいなのだ。それは、上野氏程度の脳みそと志で語れるほどかんたんな問題ではない。
この人には、人間であることの自然や普遍性に届く思考がない。
「ケアの社会学」における提言に、現在の介護社会の希望などどこにもない。ただ、上野千鶴子という田舎っぺのブスの騒々しい語り口を通してこの社会の病理が見えてくるということにおいて、この著作がわれわれのテキストになり得ているだけだ。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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