「ケアの社会学」を読む・27・介護することは労働か

   1・せずにいられないこと
上野千鶴子氏が扇動するように、日本中の老人が「介護を受ける権利」を叫んで立ち上がるようになるだろうか。これが、上野氏の「新しい社会を構想する」ことであり、これによってよりよき介護社会が実現するのだとか。
老人は、「介護を受ける権利」を自覚しなければならないのだろうか。自覚することがこの国の老人の解放された姿であり、自覚できないのは伝統的な制度性である「家父長制」に抑圧されているからだ、と上野氏はいう。
そうだろうか。
老人が「介護される権利」を声高に叫ばないのは、そういう問題じゃないだろう。
介護されるなんて申し訳ないことだし、できることなら介護なんか受けないまま生きて死んでゆきたいと思っているからだろう。それが、あたりまえの人情だろう。
老人は介護を受けることなんか望んでいないし、根源的に介護される権利など存在しない。
ただ、老人の体が動かなくなってしまったら、まわりが介護せずにいられなくなるだけのこと。その介護者が介護施設介護士か家族の一員かはさておき、ともあれ人類社会は、何十万年も前から動けなくなった老人を介護するということをしてきたのだ。
老人自身だって、前々からずっと、死にそうな人を前にすれば生きていてくれと願い介護せずにいられない気持ちになって生きてきたのだから、自分が動けなくなったら誰かに介護されることになるだろうということは容易に想像がつく。人間社会はそういうものだろうと思っているから、わざわざ「介護される権利」など自覚しないし、自覚するなんて厚かましいことだと思っている。
老人は、「介護される権利」を主張しなければ介護してもらえないのか。上野氏の論理にしたがえば、そういうことになる。
もしかしたら上野氏は、自分が女であることをプレゼンテーションしてゆかないと男から相手にしてもらえないから、そういう関係があたりまえの人と人の関係だと思っているのだろうか。
いい子にしていないと親からやさしくしてもらえないとか、学校ではいい生徒にしていないと内申書でいい点をもらえないとか、上野氏だけでなく戦後の日本社会全体の風潮であるのかもしれない。
しかし、社会の経済活動や共同体の制度性はそういう関係で動いているのだろうが、純粋に人間性としての介護し介護されるという関係は、そのような権利と義務の関係で語れるものではないだろう。
人情の機微の問題がある。そういうことは、上野氏のような騒々しいだけの田舎っぺのブスにはわからない。そして戦後社会は、こういう人種を多量に生み出した。
人間社会は、もともと老人を介護しようとする衝動を持っているのだ。だから、「介護される権利」は存在しない。人間にとってそれは「せずにいられない」ことであって、「しなければならない」ことではない。
上野氏は、人間の「せずにいられないこと」に対する想像力がない。そしてこの社会のリーダーたちがどんなに「しなければならないこと」を説いても、けっきょく歴史は、人々の「せずにいられないこと」によって動いてゆくのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   2・介護することは労働か
人間社会における介護は、上野氏が説くような権利と義務の関係の上に成り立っているのではない。
商品を買うためには、お金を払うという義務があり、お金を払えば商品を買う権利が生じる。貨幣経済は、権利と義務の関係の上に成り立っている。
権利と義務の関係で成り立っている民主主義とか市民社会という概念は、貨幣経済から生まれてきた。「民主主義の市民社会」は、貨幣経済社会の必然的な帰結である。つまり、上野氏が「民主主義と市民社会」をさかんに止揚したがるのは、それだけ貨幣経済の世界観に毒されている、ということである。というかこの人は、人間社会を貨幣経済の世界観でしか語れない。
人間社会は、貨幣経済だけで語れるほど単純なものでも味気ないものでもない。
浮世の人情の機微なんか、このブスにはどうでもいいことらしい。まあ、そんなことを味わうことのできるような生き方をしてこなかったのだろう。そんなことを味わうことのできるような人と人の関係を持つことができなかったのだろう。そりゃあそうだ。権利と義務で生きていれば、人情の機微なんかあらわれる余地がない。
だからこの人は、この世の老人たちの介護をされる身であることの無念さやもうしわけなさを否定して「介護をされる権利を自覚し主張せよ」といって平気な顔をしていられる。
しかし、この世の老人たちがそんなことをいっせいに自覚し主張しはじめる時代なんか来るはずがないのだ。
老人とは、「民主主義の市民社会貨幣経済」からこぼれおちていった人たちである。赤ん坊や子供もまたしかり、彼らの心は、そういう権利だの義務だのという世界観では動いていない。
つまり、人間社会における介護という領域は、貨幣経済にはなじまない性質を持っている。
上野氏は、こんなことをいっておられる。
_______________
最後に、ありとあらゆる変数を問わず、労働の編成に内在する格差の問題が残る―それは、なぜ人間の生命を産み育て、その死をみとるという労働(再生産労働)が、その他すべての労働の下位に置かれるのか、という根源的な問題である。この問いが解かれるまでは、フェミニズムの課題は永遠に残るだろう。
_______________
そんなことをいっても「人間の生命を産み育て、その死をみとる」という行為は、「労働」ではないのである。それは、どんな権利も義務も介在しない行為であって、本質的に金を稼ぐための「労働」ではないのだ。
だから、どうしても賃金が安くなってしまう。
そういう行為を「労働」だといっているかぎり、「根源的な問題」に触れることができていないのである。
なんのかのといってもこの人は、金を稼ぐ「労働」が最上位の行為だと思っている。しかしそれは、人間の「せずにいられない」行為であって、金を稼ぐための「しなければならない」労働ではないのだ。
この世の中には、賃金が安いことの尊厳というのもあるわけで、人はそれを「無償の行為」という。
才能とは、「せずにいられない」ことに夢中になれる能力である。どんなに「しなければならない」というコンセプトで努力しても、けっきょくは「せずにいられない」ことに夢中になれる能力の豊かさにはかなわない。誰も「しなければならない」労働として恋をしているわけではないだろう。
子育てや老人介護だって同じだ。それは人間の「せずにいられない」行為であって、「しなければならない」労働ではない。
なんのかのといっても人は、最後には「せずにいられない」ことを優先してしまう。金を稼ぐ仕事を捨てても、「せずにいられない」介護を優先してしまう。
介護は、本質的に「しなければならない」労働ではない。そして賃金は、「しなければならない」行為の権利と義務の上に支払われる。
介護は、本質的に賃労働になじまない。それは、介護という行為の宿命なのだ。フェミニズムの問題ではない。
介護だろうと恋だろうとトランプゲームだろうと、人間の「せずにいられない」という思いがこもった「遊び」という行為なのだ。
自分の権利を主張しながら他人に義務を押し付けてばかりして生きてきた人間に介護の問題を語られても困るわけですよ。
人情の機微がわからない脳みその薄っぺらな田舎っぺのブスがかっこつけて「権利と義務」だの「需要と供給」だのというタームで介護を語っても、現実の歴史はけっしてその通りには動いてゆかないだろう。
歴史はつねに、人間の「せずにいられない」こととともに動いてゆく。つまり人の心の動きを無視して「しなければならない」ことばかり押し付けても、そうそう誰もが説得されるというわけにはいかないのだ。
_________________________________
_________________________________
しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

幻冬舎書籍詳細
http://www.gentosha-r.com/products/9784779060205/
Amazon商品詳細
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779060206/