「ケアの社会学」を読む・26・観念的な思想

   1・「受け入れる」ということ
吉本隆明氏は「昔の人は宗教心に篤く極楽浄土を深く信じ切っていたから死が怖くなかったのだ」といっておられる。
こんな人をなめきったような言い方があるだろうか。ようするに「死が怖くないなんて迷信深いやつの態度だ」といっているのである。傲慢である以前に、考えることが薄っぺらで図式的すぎるのだ。
そんなこと以前に、死が怖くならないでもすむ生きざまを持っていたからだろう。日本列島の住民は、歴史的な無意識として、誰も本気で極楽浄土など信じていない。信じたつもりでいても、心の底ではただのおとぎ話だと思っている。おとぎ話として受け入れてきただけなのだ。
親鸞法然などの浄土教の開祖たちだって、しんそこ信じていたのではない。ただ、そういうことであるのならそういうことを受け入れようではないか、といっていただけだ。極楽浄土がある、とはいっていない。もちろん、ないとも言っていないが。
その「受け入れる」という心の動きだけは人間の本性だと信じていただけだ。
「受け入れる」ことができたら怖がらなくてもすむと信じていたし、人間はもともと怖がらないでもすむ存在なのだということを信じていただけだ。
むかしの人は、死んでも極楽浄土に行けるから安心だと本気で信じていたのではない。それ以前に死を受け入れることのできる心を持っていた。それができなければ極楽浄土を信じることもできない、というのが開祖たちの論理だった。
ひたすら死を「受け入れる」境地に向かって「なむあみだぶつ」と唱えよ、と説いたのだ。
まず「受け入れる」という境地があった。そこが、現代に暮らして死を怖がっているわれわれとむかしのおばあさんとの違いなのだ。極楽浄土を信じているかいないかの違いではない。
まあ、「信じる」とは「受け入れる」ことだ、ともいえるのだろうが。
そしてこれは、どこかの田舎っぺのブスの「介護される権利を主張せよ」というアジテーションと、「介護される身であることを嘆きつつ受け入れる」という普通のおばあさんの態度との違いでもある。
上野千鶴子氏は、そういう態度を家父長制の迷妄だというのだが、そういうことじゃないんだな、上野さん、あんた頭悪すぎるよ、歴史意識がなさすぎるんだよ。
まったく、この国の社会学なんて、この程度のもんかねえ。
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   2・終末期の長い時間をどう過ごすか
誰にだって、死にたくない気持ちと、死が親しみ深いものである気持ちの両方があるだろう。そしてほとんどの人が、最後の最後にはそれを受け入れる。
たとえば吉本氏は、50歳を過ぎたころに海で溺れて死にかけたとき、それほど怖いという気持ちも起きてこなかった、といっておられる。そりゃあそうだろう、人間は最後の最後には死を受け入れる。「受け入れる」のが生き物の本能だ。
だから、「死が怖くてもいいんだよ」という。しかし問題は、そういうところにあるのではない。たとえば癌を告知されたとき、大騒ぎしてうろたえまくることは、本人にとっても周囲にとっても不幸なことだろう。最後の最後はおとなしく受け入れて死んでいった、といってすむわけでもないだろう。
医療の発達のおかげもあって現代人は、そういう「最後の終末期の時間」がとても長いのだ。その時間どう過ごすかが、現代の老人介護の問題だろう。
吉本氏は「死の位相学」という本で、死の瞬間のことをあれこれ力を込めて論じているのだが、そうした「長い最後の時間」をどう過ごすかという問題にはほとんど触れていない。最後の最後はそれほど怖くもないもんだよ、といってすむ問題ではないのだ。怖くないのなら、最後の最後のことなんかたいした問題ではない。
最後の最後は怖くないといっても、癌を告知されたら「どうして自分が死ななければならないのか」と大騒ぎしてうろたえてしまうのが現代人なのだ。吉本氏のようなことをいったところで、何も問題は解決していない。
そんなことを解説してみせても、本人はその長い時間をとても苦しまねばならないし、周囲も、そりゃあもう大変なのだ。
だったら、上野千鶴子氏の「おひとりさまの老後」はその問題に明快な答えが提出できているかといえば、ぜんぜんだめだ。その問題に取り組むことすらできていない。だってこの世の「生きられるもの」である上野氏に、その問題に対する想像力などあるはずがないのだ。
まあ、観念が独り歩きしているということにおいて、上野氏も吉本氏も同じ人種らしい。
「おひとりさまの老後」なんて、老後をどのように楽しく生きるかというおちゃらけたおとぎ話が書いてあるだけで、そのとき人はどのようにして死と向き合うか、という問題などなんにも書かれていない。それは、老後予備軍の人たちにはいい気休めの読み物になるのだろうが、実際に終末期を迎えて死と向き合っている人たちにとってはなんの役にも立たない。
なのに、こんな田舎っぺのブスのいい加減なたわごとが一時的にせよ大いに受けたということは問題だろう。それは、終末期になってうろたえ大騒ぎする人間がたくさんいる世の中だ、ということを意味している。みなさん、お気楽な老後を空想するばかりで、死と向き合うという問題は考えるまいとしているらしい。というか、考える能力がない。
現代人は、死に対する親密さとともに死と向き合うということができなくなってしまっている。上野氏も、「家父長制」がどうのと騒いで自分の「生きられる」領分を確保することばかりに執着しているだけなのだ。
人はどのようにして死と向き合いながら最後の長い時間を過ごせばいいのだろう。この問いに、「ケアの社会学」は何も答えていない。
まあ、あなたの脳みそでは無理なんだろうね。
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   3・観念だけで生きる
上野氏も内田樹先生も吉本氏も、「生きられるもの」の論理で考えている。それは、生きてあることを観念の世界だけで処理している、ということだ。観念だけの存在になったら、人間は永遠に生きられる。観念は、死なない。死ぬのは、身体である。
彼らは、最後の最後にならないと死を受け入れられない人たちなのだ。それまでは「生きられるもの」の論理で生きてゆけばいいという。
そうじゃないだろう。人間は存在そのものにおいて「生きられないもの」であり、生まれたときからすでに「生きられないもの」なのだ。そして「生きられないもの」として生きることころにこそ生きてあることの醍醐味がある。
彼らにはそういう思考がないから、鈍くさいインポおやじになってしまうし、騒々しい田舎っぺのブスとして生きねばならない。
彼らは、自分をたのみとして、自分に執着して生きている。つまり、自分の観念をたのみとして生きているから、身体論の底が浅い。身体論の底が浅いということは、死と向き合う態度の底が浅い、ということだ。
自分の観念をたのみとして生きている彼らには、「この世のもっとも弱いもの」から学ぶという思考態度がない。だから「生きられないもの」として生きることの「快楽」を知らない。「生きられるもの」である彼らは、死と向き合うことを深く語ることができない。なぜなら「生きられないもの」から学ぶ態度を持っていないからだ。内田先生にいたっては、そういうものたちは生きられるように教育してやらねばならないという。
生き物の身体は、根源において「生きられない」存在である。彼らはそういうことがわかっていないから、身体論の底が浅く、鈍くさい快楽オンチになってしまうしかないのだ。
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   4・観念の死と身体の死
死と向き合うとは、身体と向き合うということである。観念が身体に随伴する、ということだ。しかし彼らは、観念によって身体をコントロールしようとする。それができるのなら、人間は観念だけの存在になれる。そうやって彼らは「生きられるもの」の論理を紡いでいる。
しかし人は、終末期になれば、もう観念だけの存在ではいられない。いやおうなく、観念は身体につき従ってゆくしかないことを思い知らされる。彼らは、そういうことに対する想像力がなさすぎるのだ。
吉本氏は、「歳を取ることは観念だけの存在になってしまうことだ」といっておられる。冗談じゃない。終末期の癌患者が、体がもみくちゃになるような断末魔の痛みの中で、どうして観念だけの存在でいられるというのか。あなたは、そのようにして観念だけで身体をコントロールしようとし、身体を置き去りにして生きてきたから、そのような腰の曲がった歩けないじいさんになってしまったのだ。
腰が曲がって歩けなくなったことを、「観念だけの存在になってしまった」と言い訳けしてやがる。あなたは、観念によって生きていたのではない。腰の曲った歩けないその身体が生きていたのだ。そんな身体でもまだ生きているということに対する感動はなかったのか。そんな身体につき従って生きていこうという思いはなかったのか。
けっきょくあなたは、人の終末期について、何も語れなかった。あなたなんぞに語れるはずがないのだ。
「死の位相学」でも、「観念の死」だけで、「身体の死」については何も語っていない。
同様に、上野氏の「ケアの社会学」においても、現代社会の人々がどのような死生観とともに介護をし介護されているかということについては何も語っていない。この人もまた、ただの観念だけの思考しかできないから、語れるはずがないのだ。
死んでゆくものの普遍的な感慨とか現代的な感慨とか、周囲のものの死んでゆくものに対する普遍的な感慨とか現代的な感慨とか、そういうところまで検証して、はじめて「ケアの社会学」といえるのではないか。
つまりそれは、人間にとっての普遍的な身体と現代的な身体を問うことだ。
身体を介護する行為を、身体を置き去りにした思考で語れるはずがないだろう。
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   5・歩くことの原点
ただ身体論を語ればいいというものではない。内田樹先生のように、身体を置き去りにして生きているものほど、自信満々に身体論を語りたがる。彼らには、生きてあることの「嘆き」がない。みずからの無意識の「嘆き」に耳を澄ます思考ができない。
人間は、存在そのものにおいて「生きられない」という「嘆き」を抱えている。
体を上手に動かす方法を語れば身体論になるのではない。体は、「生きることの不可能性」を抱えて存在している。体を上手に動かすことばかり考えていると、そういうことに気づかない。言いかえれば、体は、「生きることの不可能性」において上手に動くのだ。
二本の足で立って歩くことは、立っていることの不可能性の上に成り立っている。立っていることができなくて体が前に倒れてゆくことによって、歩くという行為が生まれる。体のそういうタッチを持っている人は、歳をとっても歩ける。
それに対して散歩が何よりも好きだった吉本氏は、けんめいに足を動かそうとしていった。歩くことが足を動かすだけの行為なら、上半身は必要ない。足だけを動かそうとすれば、どうしても前かがみになってしまう。たぶん、そうやってしだいに腰が曲がっていったのだろう。
観念で身体を支配しようとしすぎたからだ。
足のことなんか忘れて、ただ、立っていられない、というかたちで前に倒れてゆけばいいだけなのに。そうすれば、体が勝手に歩いてゆける。
上手に歩ける老人ほど、姿勢がまっすぐしている。
吉本氏は、体が動かなくなったときのリハビリに、散歩をしたい一心で無理やり足を動かそうとしていったのだろう。そうではなく、まっすぐ立つことに専念するべきだったのだ。そういう最初のボタンの掛け違いがあって、そのまま突き進んでますます腰が曲がっていった。何十年も腰をかがめて百姓仕事をしてきたおばあさんでもないのに。
まあ、「観念だけの存在」になっている吉本氏に、体を前に倒すだけでいいんだよ、といっても無理な話かもしれない。
日光猿軍団の猿だって、きちんとした直立姿勢をつくれなければ歩き続けることはできないのである。原初の人類は、まず「歩く」ことを獲得したのではなく「立つ」ことを獲得したのだ。
直立二足歩行の起源を語ることは、二本の足で「立つ」ことの起源を語ることなのだ。
そうして、じっと立っていることの不可能性を抱えているものこそが、上手に歩くことができる。
つまり、「生きることの不可能性」の中に生きることの醍醐味がある、ということだ。
直立二足歩行の起源は、みんなして「生きることの不可能性」に飛び込んでゆくムーブメントだった。それは、とても不安定で、しかも胸・腹・性器等の急所を外にさらし続けるとても危険な姿勢でもあった。しかしそうやってたがいに弱みをさらして向き合って立てば、おたがいの姿勢が安定し、かばい合いときめき合う関係が生まれた。この関係から、人類は直立姿勢を獲得し、やがてそのまま歩いてゆけるようになっていった。
猿は、人間のような歩き続けることのできる直立姿勢をつくれないのである。
原初の人類は、二本の足で立って向き合うことによって、「生きることの不可能性」を生きることの醍醐味を発見した。ここから、人類の歴史がはじまった。
けっきょく吉本氏は、「生きることの不可能性」を生きるというコンセプトを持っていなかったから、歩けなくなってしまったのだろう。
そして人間の「介護」という習性も、たがいに「生きることの不可能性」抱えて向き合って立っているという、この起源のかたちの上に成り立っている。人間は、根源において、介護し介護される関係として存在している。
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   6・「生きられるもの」の論理
彼らの、「生きられるもの」であることを前提にした思考というか世界観は、貨幣経済の論理である。そしてそれは、共同体の制度性のかたちでもある。
一方「生きられないもの」として世界や他者と向き合うことは、直立二足歩行の起源以来の人間性の基礎であり、「遊び」として成り立った思考=世界観である。
現代人の暮らしはこの二つの思考の兼ね合いの上に成り立っているのだろうが、現代社会においては、前者の思考を突出させたものがリーダーになっていく傾向にある。
現代社会は、「生きられるもの」の論理で動いている。政治や経済だけでなく、哲学や社会学歴史学の分野においても、この論理にリードされている。
いや、介護の思想においても、この「生きられるもの」として観念が身体を支配してゆく思想が優勢になってしまっている。
「生きられるもの」は、「生きられるもの」と「生きられないもの」に選別し、「生きられないもの」を排除する。これが優生保護法であり、また、重度の障害児を介護しやすいように成長抑制の手術を施して人工的に子供のままにしてしまうことは、その障害児を「生きられるもの」につくり変えることであり、それ自体「生きられないもの」を排除する行為だともいえる。
「生きられるもの」の論理においては、どんな不自然な延命治療も正当化される。そして末期の癌患者や障害を持って生まれた赤ん坊を人工的に安楽死させることもまた、「生きられないもの」を排除するということにおいて正当化される。
現代の介護思想がこのような状況を呈しているのは、社会全体が、観念によって身体を支配する「生きられるもの」の論理で覆われてしまっているからだろう。だから人々は死が怖くなってしまったのだろう。
そして、元気に生きている人間が「俺は死なんかこわくない」といっても、僕は信用しない。「生きられるもの」として頭の中から死を排除して生きているのだから、怖くないに決まっている。観念によって身体を置き去りにし、死を親密なものとして死と向き合っていないのだから、じつはそれ自体死を怖がっていることの証拠なのだ。だから、そういう人間にかぎって、いざ癌を告知されたりしたときなどにひといちばいうろたえ暴れまくることになるのだ。
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   7・「介護される権利」は正当か?
そして上野さん、「ケアの社会学」というのなら、自分の将来の老人介護の問題だけではすまないでしょう。ほんとにあなたは、この本でこの社会の介護の思想をちゃんと問うてみせたといえるのですか。
家父長制がどうのとばかり言っている場合じゃないでしょう。女だけがしんどいんじゃないし、女だってどうかしている世の中なのだ。この社会に家父長制の遺風が残っていようといまいと、あなたみたいな田舎っぺのブスが大騒ぎしてのさばりかえっている世の中の風潮だってどうにかしてもらいたいよ。
介護社会の充実は、上野氏のいわれるように、「すべての老人が介護される権利を主張する」ことにあるのではなく、人間の「介護せずにいられない衝動」はどこから起きてくるのかと問うことからはじまる。
介護しなければならない義務なんか誰にもない。それでも人は、介護せずにいられなくなるのだ。
介護される権利を声高に主張する田舎っぺのブスの介護なんか、誰がしたいものか。
老人だって、自分の体は自分で始末をつけたいだろう。できることなら、最後の最後まで、自分でトイレまで歩いて行って自分でおしっこをしたいし、それができなくなればさっぱりと死んでゆきたいだろう。自分の命は自分で始末をつけたいじゃないか。そういう切実な思いというか生き物としてのぎりぎりの本能を無視して「介護される権利を主張せよ」などと外部のものがいっていいのか。
なんとか自分の命は自分で始末をつけようと踏ん張っている人たちに向かって、介護老人予備軍の上野氏がしゃしゃり出てきて「介護をされる権利を主張せよ」と扇動しまくっている。おまえらがぐずぐずしていると私が被介護老人になったときに困るじゃないか、とでもいいたいのか。
この無神経でくそ厚かましい思考はなんなのだ。ほんとにむかつく。これだから騒々しいブスはいやなんだ。
被介護老人を大量に生み出していっせいに「介護される権利」を合唱させれば介護制度が充実するとか、もうそんな時代ではないだろう。できるだけ多くの老人が介護されなくても生きて死んでゆけるようになるためにはどうすればいいのか、ということも考える必要があるだろう。
乱暴な言い方だが、好むと好まざるとにかかわらず、介護制度の充実は、介護を受けられない老人の悲惨な死の上に実現するのであって、「介護を受ける権利」の大合唱によって実現するのではない。「介護を受ける権利」を主張するくそ厚かましい老人なんか、誰が介護したくなるものか。
社会全体の介護したくなる思いが盛り上がらなければ、それは実現しない。
上野さん、普通の介護予備軍の人たちは、できることなら最後の最後まで自分の体は自分で始末をつけたいと思っているのですよ。どんなに不自由で苦しくても、できることならそうしたいと願っているのですよ。そういう人たちと、あなたのように快適な被介護老人生活を送りたいと思っている人間と、いったいどちらが人間的なのでしょう。どちらに、人としての自然があるのでしょう。
体の弱っている老人が必死に踏ん張り、まわりが「そんなにがんばらなくてもいいんだよ」と手を差し伸べてゆく。そういう「おたがいさま」の関係がつくれなければ、事態は改善されないのではないだろうか。
「介護される権利を主張する」ということは、「俺のことを介護せよ」と命令しているのと同じではないか。世の中の人と人の関係がそれでいいというわけにもいかないだろう。
できることなら、誰だって自分が介護するものでありたいのだ。それこそが、人間の本能だろう。介護されるだけの身になってしまうなんて、ほんとに無念だろう。そのときわれわれに必要なのは、その現実を受け入れることであって、権利を主張することではない。自分の死と向き合うことであって、生きる権利を主張することではない。
介護される身になってしまったら、もうのんきに死ぬことを忘れて生きていることなんかできない。そういう人に向かって、死ぬことを忘れて「生きる権利=介護される権利」を主張せよとどうしていえるのか。実際問題として、それはまるで現実的ではないのだ。
人は、介護される身であることを嘆いても、介護される権利など主張しない。これが、当たり前の人情というものだろう。
人間の自然において死は親密なものであり、人は死を受け入れる。このことと「介護される権利」という主張はなじまない。まあ、上野氏や吉本氏のように、身体なんて観念のやっかいものにすぎないと思っている人たちにはそういう理屈も成り立つのだろうが。
そりゃあまあ、ブスにとっては身体なんかただのやっかいものだろうが、それでも生きてあるという事実は、観念にではなく、身体のもとにある。
それは、身体を賛美するということではない、身体を「受け入れる」ということだ。生命を賛美するということではない、生き物としての根源において生命は「生きられないもの」であるという事実を「受け入れる」ことだ。
「生きられないもの」であるという事実を「受け入れる」なら、「介護される権利」は主張できない。
「萎れたるこそ花なり(世阿弥)」……人間は、「生きられない」生を生きることの醍醐味を見つけてしまったのだ。ここにこそ人間であることの証しがある。ここにこそ人間であることの最後の尊厳がある。ここにこそ人間であることの華と夢がある。おまえらみたいな鈍くさいブスやブ男にはわかるまいが。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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