「ケアの社会学」を読む・25・死にざま

   1・逃げ隠れするということ
「生きられない弱い猿」であるという与件が人類の文明を生み出した。そのとき人類は、「生きられるもの」になろうとしたのではない。「生きられないもの」であるという与件そのものを生きようとした。
だから、地球上の生きにくい土地生きにくい土地へと拡散してゆき、とうとう地球の隅々まで住み着いてしまった。それは、「生きられないもの」であるという与件を生きる行為だった。
「生きられないもの」であることが人間であることの与件なのだ。
飛行機に乗れば、空を飛ぶことができる。しかし人間自身が空を飛べるようになったわけではない。猿は空を飛べないことを嘆いてなどいないが、人間は飛べないことを嘆いている。その「嘆き」が飛行機を生み出したのであり、その「嘆き」の深さが人間と猿を分けている。
人間は「生きられない弱い猿」だから、つねに敵から逃げ隠れしながら歴史を歩んできた。「かくれんぼ」は世界中の子どもたちの遊びであり、人間の本能である。
「生きられない弱い猿」であることを嘆いて逃げ隠れする。そうして隠れているとき、隠れている「いまここ」で世界が完結している。外の世界は別世界であって、「いまここのこの世界」の延長ではない。
言葉が地域ごとに違うということは、言葉がその地域を「いまここのこの世界」として完結させる役割を果たしている、ということを意味する。
「かくれんぼ」とは、「いまここ」で世界を完結させてしまう行為である。人間は、そういう本能を持っている。
だから、この社会のリーダーたちがどんなに「あるべき未来の社会像」を描いてみせても、その通りにはならないのだ。
この社会も個人も、根源的には未来など勘定に入れていない。そして人と人は、未来など勘定に入れないところでよりダイナミックに連携し結束してゆく。
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   2・死への旅
末期の癌患者の「いまここ」は耐え難い苦痛の連続で、しかもその苦痛はこの先増すばかりで止む見込みはない。
もう死んでしまいたい、死なせてくれ、と思う。
でもまわりは、なんとか生きてくれと願ってけんめいに介護をする。介護をするのが人間の本能だ。
延命治療と安楽死
どちらも自然ではない。人間は「生きられない弱い猿」だから、死を受け入れる。死を受け入れるからこそ、無理に延命する必要はないし、わざわざ死ぬ必要もない。
老人介護とは、その死に向かう旅に随伴することだ。
人が死んでゆくことは、感動的なことだろう。感動を与えて死んでみせる人もいる。それは、生き残ったものたちへの逆の介護であるのかもしれない。
人が死んでゆくことが感動的な社会であればという願いは誰の中にもあるだろう。
人間にとって生きてあることは「生きることの不可能性」を生きることであり、生きることそれ自体に介護が必要なのだ。生きることそれ自体が、介護し介護されている状態なのかもしれない。そうやって人間は、限度を超えて大きく密集した集団をつくっている。
人は、みずからの死が自分にとっても他者にとっても感動的なものであればと願って、ポックリ死んでゆきたい、という気持ちになる。
僕なんか、女房の人生を台無しにしてしまったし、子供をこの世に生まれてこさせてしまった罪を犯したのだし、もしも介護される身になれば、悪あがきしてまわりのものをうんざりさせてもいい権利も資格もない。
僕の死は、僕だけのものではなく、まわりのものたちのものでもある。僕には、自分の死を拒否したり怖がったりする資格がない。
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   3・死は怖いものであるのか
人がなぜ葬式をするかといえば、人の死をみんなのものにするためかもしれない。
現在の葬式仏教がどうのこうのということはどうでもいいが、人はなぜ葬式をするのかということの根源のかたちは知りたい。
死んでゆくものも、生き残るものも、その死をひとりで背負うには重すぎるし悲しすぎる、ということだろうか。
人間は、人の死をみんなのものにしようとする。「嘆き=かなしみ」は人間の性(さが)としてどうしても共有されてしまう、ということだろうか。
そしてそれは、人間とって死は、ほんらい親しいものである、ということを意味する。
吉本隆明氏は「死は怖いものでいいんだよ」といっておられた。いかにも優しい人柄のにじみ出た言葉である、と評価している人がたくさんいる。
しかしこれは、まやかしの言葉だと思う。
やっぱりわれわれは、怖くなくてもいいはずなのに怖がっているのだろう。死はほんらい親しいものなのだ。
たぶん、希望や喜びを共有してゆくことが人間の理想だと短絡的に決めつけて、「嘆き=悲しみ」を共有する関係が希薄になっている社会だから、必要以上に死が怖いものになってしまっているのではないだろうか。
「死は怖くてもいいんだよ」だなんて、何をおためごかしなことをほざいていやがる。吉本氏は、人間の根源に向かって錘を下してゆく思考がなさすぎる。表層的図式的すぎるのだ。生きてあることに深くかなしんだり苦しんだりしている人にとっては、きっと死は救いであり解放であるにちがいない。そういう人々に対する敬意がないのだ。「大衆の原像」などといって、おちゃらけて庶民生活に耽溺することがいちばんだと思っているから、そこまで頭が回らないのだろう。
人間はもともと「生きられないもの」として生きてあるのだから、死は親しいものであり解放であるはずだ。
しかしわれわれ現代人には、「生きられないもの」としての「嘆き=悲しみ」が足りない。だから、死が怖くなる。現在の高度資本主義は、人間を「生きられるもの」にする。「生きられるもの」の論理で社会が動いている。それが、問題だ。
「生きられるもの」は、すでに死に対する親密な感慨を喪失している。そしたら死ぬことが怖くなるに決まっている。
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   4・極楽浄土はあるのか。
吉本氏によれば、昔の人は極楽浄土を本気で信じこむことができたから死が怖くなかった、しかし宗教が衰退した現在においては怖くなってしまうのは仕方のないことであり、宗教が衰退したことは人類にとってめでたいことなのだ、といっておられる。
そういう問題だろうか。そうじゃないだろう。
むかしの人が無邪気に本気で極楽浄土を信じていただろうか。僕は、そんなことはないと思う。無邪気に本気で信じていたのは、一部の狂信的な宗教者だけだろう。
庶民がいつもそうした宗教者の説教を聞きたがっていたということは、それ自体信じていなかった証拠である。聞いたときだけは、なんだかそんな気になれた、というだけの話である。無邪気に本気で信じていたら、聞く必要なんかない。
また、そんな浄土思想が広まる前の古代社会では、「死んだら何もない黄泉(よみ)の国に行く」という合意が定着していた。そのころは、死ぬのが怖かったのだろうか。吉本氏の理屈では、おおいに怖がっていたことになる。
しかしそんなことはあるまい。死ぬのが怖くなったから浄土思想が広まっていったのだろう。それ以前は、もっと死ぬのが怖くなかったのだ。なにしろ「死んだら何もない黄泉の国に行く」という、現代人の物差しからしたらとんでもなく残酷なイメージと和解できたのだから。
古代人は、「生きられないもの」としての「嘆き」とともに生きていた。彼らにとって「死んだら何もない黄泉の国に行く」ということそれ自体が救いだった。そして日本列島の住民の死に対すれ歴史的な無意識は、このイメージにある。だから、死んだら極楽浄土に行けるといわれても、いつもお寺にいって坊主からその話を聞いていないと信じられなかったし安らげなかった。
むかしのおばあさんは信心深かった、といっても、それ自体極楽浄土を信じきれていなかった証拠なのである。そしてそれでもわれわれ現代人ほど死を怖がっていなかったとすれば、それは、日本列島の伝統的な無意識である「生きられないもの」としての「嘆き」を深く味わいつくして生きていたからだ。
戦前までは、生きてあることの「あはれ」とか「はかなし」の伝統的な美意識=無意識がまだ残っていた。これは、「生きられないもの」の世界観・生命観である。
むかしの人々は極楽浄土を信じていたのではない。日本列島の住民は、歴史的に極楽浄土を信じきれない民族なのだ。それでも現代人ほど死を怖がらなかったのは「生きられないもの」の「嘆き」を携えて生きていたからであり、それはたぶん、武士であろうと農民であろうと、みんなそうだったのだ。
吉本氏のいうような、宗教心が薄くなったからとか、そういう問題じゃないし、宗教心が薄くなれば怖がらねばならないというわけでもないはずだ。そう決めつけるのは、思考停止だろう。
宗教心が薄くてもむやみに死を怖がらない人はいくらでもいる。
けっきょく、「生きられないもの」として生きるか、「生きられるもの」として生きるかの違いなのだ。
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   5・「生きられるもの」の流儀
現在のわれわれは、「生きられるもの」の論理で生きようとしている。
お金を持てば「生きられるもの」になる。現代人は、貨幣経済に馴染んでしまっているぶんだけ、死が身近なものではなくなってしまっている。
「生きられるもの」の論理がこの社会をリードしている。であれば、死は怖いものであるに決まっている。
そういう社会であるなら、それはもうしょうがないこととして受け入れるしかない。
しかし、それだけでは人は死んでゆけないし、生きてあること自体のセックスアピールが希薄になる。
労働だけでなく、そういう遊びも必要だし、遊びの中にこそ人間性の基礎がある。
遊びとは、「生きられないもの」として生きる行為である。だから男たちは、盛り場に金を捨てにゆく。
「生きられないもの」として生きる体験がなければ、快楽という生きてあることの醍醐味は汲みあげられないし、死が騒々しくみすぼらしいだけのものなってしまう。
葬式が豪華であればその人の死が感動的だったということになるわけでもないだろう。
やっぱり、人に感動を残さずにおかない死に方というのはあるだろうし、生き残ったわれわれ自身のその死に感動できる心も試されている。
実際に介護の現場にいる人たちは、「人の死に、同じ死に方というのはひとつもない」という。彼らはたしかに、人が死んでゆくということに感動している。
しかし部外者のわれわれは、そんな視線を持つことができているだろうか。それは、葬式がどうであったかという問題ではない。
死者のおかげでふだんは会うこともない知人友人と再会することができたとよろこび、通夜の席では死者の思い出などそこそこにすませて旧交を温め合うことで盛り上がってゆく。そうして、感動的ないい葬式だった、という。これが、「生きられるもの」たちの死者を送る平均的な流儀である。僕は、こんな葬式を何度も見てきた。自分たちの「生きられる」ことを守り合うだけで、死に対する親密な心などどこにもない。
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   6・「生きられないもの」の流儀
葬式なんかどうでもいい。その人がどのように死んでいったかというところにこそ、感動がある。ぶざまな死に方だっていい。人が死んでゆくということそれ自体に感動がある。
「生きられるもの」たちは、そこを見ることができない。そこを見ることができるだけの心の深さも愛もかなしみもない。
「生きられないもの」だけが、そこを見ることができる。「生きられないもの」だけが、その旅に随伴できる。人間は「嘆き」共有する存在であり、そこにおいてこそもっとも深く豊かに心が響き合う。
そんな体験は、「生きられるもの」にできるはずがない。
介護をすることは、みずからが「生きられないもの」になることである。死に対する親密さをトレーニングすることである。だから、身内を介護してその死を見送ったあと、さらに「生きられない」状態になってしまうことがある。そういう人は、まわりが支えてやらないといけない。そのためにこそ葬式というものがある。
おまえらが旧交を温め合うためにあるんじゃない。
葬式そのものに感動があるんじゃない。葬式なんかしてもしなくてもどっちでもいい。
人が死んでゆくことに感動があるのだ。
僕個人としては、延命治療や安楽死のことは、あまり考えたくない。ひとりの人間としてきちんと死んでゆきたいと願っている。たとえ野垂れ死にであろうと。
だから、「生きられるもの」による、いかにも現代的な自己撞着に居直った「死は怖いものでいいんだよ」などという空々しいお説教にうなずいている余裕なんかない。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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