「ケアの社会学を読む」・24・社会集団の連携と結束

   1・民衆の無意識の集積が新しい時代をつくる
「新しい社会を構想する」などといいながら、この社会のリーダーたちは、自分たちが新しい社会をつくれるつもりでいる。
しかし、リーダーが構想した通りの社会(=時代)がやってきたためしなどないのである。
よかろうと悪かろうと、新しい社会(=時代)は、なるようにしかならない。あえていえば、リーダーの構想によってではなく、民衆の無意識の集積が新しい社会(=時代)をつくってゆく。
リーダーは「生きられるもの」として生きている。
しかし民衆は、「生きられないもの」としての心の動きを響かせ合っているのであり、じつは社会(=時代)もまた、そのように動いてゆく。
言いかえれば、「生きられるもの」としての生き延びようとする論理で語っても民衆は動かせない。
われわれ民衆が求めているのは、未来に向かって生き延びることではなく、「生きられないもの」として「いまここ」で心が響き合う体験なのだ。
新しい社会はかくあるべきだ、というようなご託宣などどうでもいい。新しい社会は、「いまここ」で心が響き合っている民衆の無意識の集積によって実現される。その位相を問うことこそ、現在の社会学の課題であるのではないだろうか。
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   2・言葉の起源はただの唸り声だったということ
これは、言葉の起源も同じである。
言葉の起源を考えてゆくと、この社会(=時代)はリーダーによってつくられているのではない、ということがわかってくる。
言葉は、現代の学者やテレビタレントが新しい造語や流行語をつくってみんなに広めてゆくというようなかたちで生まれてきたのではない。
言葉は、誰かひとりが生み出したのではない。それは、歴史の長い時間をかけた民衆の無意識の集積として現在のようなかたちになってきたのだ。
最初から、「リンゴ」といっていたのではない。
200万年前300万年前の人類がまだ猿のような存在だったころは、「あー」とか「うー」というただの唸り声だったに決まっている。しかしそのときすでに、誰もが「これはリンゴである」という認識は持っていた。そうして、歴史の長い時間をかけて、その赤くてまるい果実にふさわしいニュアンスの音声として「りんご」と呼ぶ習わしになってきた。
誰かがいきなり「りんご」といったのではない。
人間の発する音声にさまざまなニュアンスが生まれてきて、そのニュアンスを誰もが無意識のうちに感じるようになってくるという長い歴史の時間があって、いろんな言葉が自然発生的にかたちをあらわしてきたのだ。
言葉は、ひとりの天才やリーダーが生み出してきたのではない。その集団の無意識の集合が、長い歴史の時間とともに今のような言葉としてかたちをあらわしてきたのだ。
すなわち新しい社会(=時代)は、集団の無意識の集合によって構想されている、ということだ。
自分勝手に新しい社会を構想するばかりで、そうした集団の無意識の集合をきちんと問うていない社会学者なんか、ぜんぶアウトなのだ。おまえらの語る「あるべき社会像」なんかどうでもいいんだよ。騒々しいブスやブ男がリーダーづらしてそんなことをわめき散らしても、われわれの知ったことではない。
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   3・言葉は、コミュニケーションの道具として生まれてきたのではない
人間は、どうしてさまざまなニュアンスの音声を発するようになってきたのだろうか。
もちろん、喉の構造が進化したからではない。さまざまなニュアンスの音声を発するようになったから、喉の構造が進化してきたのだ。
ようするに、さまざまな人間的な思いが生まれてきたから、さまざまな音声を発するようになってきたのだろう。
思わず声が出るのがいちばんよくあるのは、驚いたときだろうか。「きゃあ」とか「あっ」とか「おおっ」とか、そして「ああ」という嘆きとか、痛みで「ひいっ」とか「ううっ」という声が洩れたりもする。
つまり、生きることの危機的な状態に遭遇したとき、思わず声が洩れる。
人間は、そういう生きにくい存在になっていったから、さまざまな音声を洩らすようになってきたのだ。
原初の人類が二本の足で立ち上がることは生きることの危機に飛び込む体験であったし、それ以後人類はつねに「生きられない弱い猿」としての歴史を歩んできた。
そしてだからこそ、集団の連携や結束を発達させてきた。
もちろん音声を発し合うことはやがて集団の連携や結束を生み出す原動力にもなっていったのだが、起源においては、そういうことが目的になっていたのではなく、あくまで「生きられない弱い猿」であることの「嘆き」がさまざまな音声を発するようになってゆく契機だったのだろう。
音声(言葉)が連携や結束を生むということは、そうなってみてはじめてわかることで、そういう体験を持たない段階でそれがイメージされることはない。
人間は、まず集団をつくってみんなして「目的」に向かって努力してゆくとか、そういう生き物だったのではない。あくまで「生きられない弱い猿」として、たがいに他者に対して「生きてくれ」願い合いながらいつのまにか大きな集団になっていったのだ。
大きな集団にならなければ言葉は生まれてこないし、大きな集団の中に置かれてあることの「嘆き」が、さらに集団の言葉を発達させていった。
人間は、大きな集団をつくろうとする「目的」を持っているのではない。避けがたく大きな集団になってしまうのだ。目的があったら、ちょうどいいところでやめる。しかし人間は、際限もなく集団を大きくしてしまうのだ。集団をつくろうとする衝動などないから、そういうことになってしまう。
言葉は、集団の連携や結束をつくるために生まれてきたのではない。言葉が生まれてきた「結果」として集団の連携や結束が高度になってきた。
言葉が生まれてきた契機は、「生きられない弱い猿」としての「嘆き」の深さや多様さにある。
原初の人類は、そうやってびくびくおどおどして生きている存在だったのであり、そのためにつねに敵から逃げ隠れしようとする意識が強いから、集団が完結してしまいやすい傾向がある。だから言葉は、地域の集団ごとに違ってしまっている。
人間が「生きられない弱い猿」としての「嘆き」を持っている存在でなければ言葉は生まれ育ってこなかったし、地域の集団ごとに違うということにもなっていない。
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   4・音声の意味ではなくニュアンス
原初の人類は「生きられない弱い猿」だった。その「嘆き」からさまざまなニュアンスの音声が生まれてきた。これが、言葉の起源なのだ。
原初の唸り声が「りんご」という言葉になるまでには、いったいどれほどの長い歴史の時間が経過していることか。
誰かの突然の思いつきで生まれてきたわけではないのだ。
それがリンゴを意味することは、最初からみんなわかっている。リンゴにふさわしいニュアンスの音声として定着するまでに、長い長い時間がかかったのだ。
意味を伝えるために言葉=音声が発せられたのではない。意味にふさわしい音声の響きを共有するよろこびとともに、生まれ育っていったのだ。
言葉は、意味の衣装であって、意味そのものではない。
意味として確立するためなら、そんなに長い時間はかからないし、歴史とともにさまざまに変遷して育ってゆくこともない。
ともあれ、集団のみんなで言葉を育ててきたのだ。
そしてそれが「りんご」という音声として定着してきたことには、それなりの必然性があり、ある法則がはたらいるにちがいない。
ひとつの音声は、どのような心の動きから生まれてくるのか……そういう法則があるにちがいない。そしてそういう法則に則った必然性によって集団に定着していった。
いずれにせよ、生きてあることの「嘆き」、すなわち「生きられない」という「嘆き」から言葉のもとになる音声が生まれてきた。
そして、そういう言葉を交わすことは、その「嘆き」を共有してゆくことである。たとえよろこびや感動をあらわす言葉でも、その底にはそうした心の動きが生まれてくる契機となる「嘆き」が潜んでいるのであり、そういう心の仕組みが共有されてそれが言葉として定着してゆく。
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   5・生きられない弱い猿の嘆き
「空を飛ぶ」という言葉には、空を飛べない人間の「嘆き」が共有されている。
「とぶ」の「と」は、「止まる」の「と」、「取る」の「と」、「完了」「終結」の語義。
「とぶ」の「ぶ=ふ」は、「震える」の「ふ」、この場合は、心が動く(感動する)体験からこぼれ出てくる音声として使われている。
人間にとって空を飛ぶことは、日常から逸脱した別世界の出来事である。日常をはぎ取る行為である。時間が止まったような別世界の出来事。そういう「取る」であり「止まる」であるところの「と」なのだ。
だから、浮世離れしている人間のことを、「飛んでいる」とか「ぶっ飛んでいる」などという。
人間が「飛ぶ」ということに対する感動を共有しているということは、飛べないことの「嘆き」を共有している、ということでもある。
感動して心が立ち止まること、すなわち息がつまるような緊張感から「と」という音声がこぼれ出る。そうして「飛ぶ」という言葉が生まれてきた。人間にとって「飛ぶ」ことは、とても「どきどき」して緊張する行為である。
江戸時代の火消しは危機に飛び込んでゆく職業だったから、「とび」といった。
つまり、人間が息がつまるような緊張感を体験しなければ、人間の口から「と」という音声がこぼれ出てくることはなかったのである。
人間は、そういう心の動きをしてしまう「生きられない弱い猿」だったから言葉を生み出したのだ。
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   6・セックスアピール
「生きられる強い猿」であるリーダーが言葉を生み出したのではない。
同様に、新しい社会(=時代)は、「生きられるもの」であることを誇示するリーダーという存在が生み出すのではない。少なくとも新しい社会(=時代)の人々の心の動きは、「生きられない弱い猿」であるという人間であることの与件から生まれてくるのだ。
人間は、「生きられるもの」になってしまったらおしまいなのだ。そういう人間には他者と共感できる能力がないし、ちっとも魅力的じゃない。だから、新しい社会(=時代)は彼らのいう通りにはなるはずがないし、だいいちあなたたちは、内田樹先生や上野千鶴子氏にセックスアピールを感じますか?
彼らは同じ穴のムジナたちとつるんでゆくことができるし、そういうことにはじつに勤勉だが、彼らに社会(=時代)を動かす能力(=セックスアピール)はない。
セックスアピールとは、「生きられないもの」の気配のことだ。人は、「生きられないもの」をけんめいに生かそうとする本能を持っている。そういう本能を揺さぶられる気配のことを、セックスアピールという。
美しいものは、「存在することの不可能性」を負っている。そこに人は感動する。それが、セックスアピールだ。
世阿弥は、「存在することの不可能性」が持つセックスアピールのことを、「萎れたるこそ花(¬=美)なり」といった。
垢抜けないブスやブ男が「生きられるもの」であることを自慢しながら「生き延びる」などということをわめき散らしているかぎり、美も花もセックスアピールもあるはずがない。
社会(=時代)は、人々の「生きられないもの」としての心の動きが響き合って変わってゆく。
つまり、人と人の関係における連携と結束のダイナミズムは、そういう「生きられないもの」であることの「嘆き」が共有されているところから起きてくるのだ。そこから言葉が生まれ育ってきたように。
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【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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