「ケアの社会学を読む」・23・家父長制は健在か?

   1・フェミニズムは社会の正義か
上野千鶴子氏がウーマン・リブというかフェミニズムに目覚めたのは、いばり散らすだけが能のろくでもない父親とそんな父親のいいなりになっているダメな母親に育てられたからであるのだとか。
日本の家族には「家父長制」の悪弊がいまだに根強く残っており、これを打倒しなければならない、というのが上野氏の主張で、「ケアの社会学」にも「家父長制」という言葉は何度も出てくる。この悪弊を打倒し崩壊させることによって理想的な介護社会が実現する、といいたいのだろう。
日本の父親はそんなにも威張り散らしているだろうか。母親はただいいなりになっているだけだろうか。まあこれが、上野が率いるそういう運動をする女性たちにとっての日本の家族像のスタンダードであるらしいのだが、むしろ例外的なケースではないだろうか。
歌舞伎では、武士の世界だってこんな極端な家庭は出てこないという人もいる。そしてべつの人によれば、明治になって薩摩のそうした風習が中央に持ち込まれて制度としてつくられていっただけなのだとか。
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   2・両親だって、生身の男と女なのだ
しかしそんな制度も、戦後は大きく修正された。
両親がただそんな関係だけで夫婦をやっていると見るのはちょっと浅薄すぎる。人間を知らなすぎる。まあ、よほど極端な家でなければそんな封建的な主従関係だけですんでいることはあり得ない。
見合い結婚だろうと恋愛結婚だろうと、男と女が一緒になって夫婦をやっているのである。たとえ夫婦であろうと、男と女の関係がそれだけではすまないだろう。
たしかに、大学とか政界とかの権力社会の一部には、そんな絵にかいたような「家父長制」のイメージに執着している男もいることだろう。
それでも、家族として内輪の子供の目から見れば、父親が母親や子供に対して、強がったりひるんだり気を使ったりする場面に遭遇することはあるにちがいない。
生身の男と女が夫婦をやっているのである。そんなステレオタイプな図式だけで両親の関係を決めつけることはできないだろう。
そんな制度性だけで人間の生きるいとなみがすむはずないだろう。
上野氏の父親は、骨の髄まで家父長制という制度に浸されて、人間的な心の動きがまったくない人だったのだろうか。
そんなことはあるまい。
どんなひどい母子家庭で育っても、結婚することに絶望せずに自分も結婚する娘だっているのだ。
上野氏だって、結婚してみればよかったのだ。そしたら、現在の結婚の形態が「家父長制」なんか大した問題ではないことがわかるだろう。夫や父親という存在が、傲慢な悪者として生きているだけの生き物ではないだろう。男が気の毒だともかわいいとも思うことはあるだろう。
女がいばりくさって男がすがりついている関係だってあるだろう。
家族のなんたるかは、「家父長制」だけではすまないのだ。
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   3・男のコンプレックス
「家父長制」なんか大した問題じゃない。
これは従軍慰安婦の問題と関係するのかどうか知らないが、女が不特定多数の男と関係することに耐えられるのは縄文時代以来のこの国の伝統であり、そんな女をむやみに物扱いしないのもこの国の伝統で、だから裸で抱き合っても最後の一線だけは越えさせないという奇妙なフーゾク産業も成り立っている。
「家父長制」とは関係なく、この国では、女が不特定多数の男とセックスすることをそんなに重大なことだと考えない傾向があり、そんな女に対してむしろ引け目を持ったりする伝統的な無意識もある。だから、あのような奇妙なフーゾク産業が成り立つのだ。
この国の伝統としては、男はむしろ女に対して引け目を持っている。
いや、世界中の男が、自分よりも異性体験が豊富な女に対して、どこかしらに引け目を抱いている。
なぜか。
そういう女は、たくさんのペニスを知っているからだ。男は、女と違って自分のペニスにアイデンティティを託そうとする傾向が強い。女にとっては自分の性器など鬱陶しいだけのもので、子を産むことは性器の自傷行為だともいえる。
しかし男は、自分のペニスを自分のアイデンティティにしたがっている。だから、たくさんのペニスを知っている女を前にすると、そんな自意識が通用しないことに気づき、アイデンティティの喪失の危機を感じてしまうのだ。
だから日本の男は、フーゾク嬢の前であんがい従順になる。「あんたのちんちんなんてつまらない」といわれることを怖がっているのだ。日本の男はとくにそういう傾向が強い。
この社会に「家父長制」がしっかり機能していたら、そんなフーゾク産業はぜったい成り立たない。
内田樹先生みたいに「家父長制」の意識が強い男は、絶対にフーゾクには行けない。
そのように、明治の薩長政府が押し付けた「家父長制」の遺風が多少は一部の男に残っているのだろうが、全体的には、日本の男ほど女に対して引け目を抱いている民族もそうそうないともいえる。
上野さん、あなたには父親のそういう人間性が見えなかったのか。それは、父親の責任ではなく、あなたが鈍感だっただけの話なのですよ。父親がどんなにかっこつけても、身内のものにはその人間性が見えてしまう。
上野氏の言い方からしたら、彼女の父親も母親も、骨の髄まで制度の奴隷みたいじゃないか。
その家で生まれ育って10数年という時間を共にしたのなら、それなりにそこはかとない連帯感はあるだろう。ない方が不自然である。
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   4・何はともあれ一緒に暮らした親子じゃないか
人間は、みずからの運命を受け入れる。自分がブスやブ男で頭が悪くても、多くの人間が、ひとまずその運命を受け入れている。受け入れなければ生きられない。それはきっと、両親との関係を受け入れることでもあるにちがいない。
どんなに憎んでも、関係そのものは受け入れている。憎むというかたちで受け入れている。
上野氏だってたぶん、両親との関係を受け入れている。
彼女は、「家族」という形態に腹の底から絶望し否定しているのではない。男に対して、一緒に暮らしたくなるほどの想いを抱いたことも抱かれたこともないだけだろう。
家族の中で育ってしまったものが、そうかんたんに家族を否定できるはずがない。どんなひどい親だって、どんなに論理的に否定できようと、「一緒に暮らした」という事実の重みはあるのだ。
子供はみないずれ家族を出てゆくのだから、家族を否定すること自体が、家族を肯定していることになる。家族はもともと、成長してゆく子供に否定される対象として存在している。
「家父長制」として否定することは、根源的に否定していないということである。それは、理想の家族像があるといっているのと同じである。「家父長制」を脱ぎ捨てた「理想の家族像」それ自体を否定してみせなければ、説得力はない。
「家父長制」をまとっているからいけないというのなら、まとっていなければいい、といっているのと同じである。そして実際の家族は、上野氏が考えるほどには家父長制などまとっていない。日本の男たちは、女たちが想像する以上に女に対して負い目を抱いている。
ミソジニー(女嫌い)」などといっても、騒々しいブスが嫌いなだけだったり、女に対する負い目の裏返しだったりする。
そりゃあ、ウーマン・リブで大騒ぎするブスなんか、嫌いに決まっている。そういう世の中の気配を、彼女らは感じているらしい。
べつに上野氏お得意の「家父長制」の問題なんかじゃない。
この社会は、彼女らがいうように男の傲慢の上に成り立っているのか。僕は社会のことはよく知らないが、少なくとも現在の家族制度が男の傲慢だけで成り立っているとは思わない。
両親だって、生身の男と女なのである。ろくでもない親だった、といっても上野さん、あなただってそのことに対するなんらかの思いはあるだろう。親が憎いといったって、それは愛していることと同義であったりする。
僕だって学生のころに友達からこう言われた。「おまえは親の悪口ばかりいっているけど、おまえがいちばん親を慕っているんだろうな。俺たちは半分親を見限っているから、親と仲良くできるんだ」、と。
人は、制度として結婚するんじゃない、生身の男と女の関係として一緒に暮らすということをはじめるのだ。どんなに制度的形式的に夫婦をいとなんでも、身内のもの(子供)にはそういう生の関係性が見えてしまう。
人間と人間の関係、と言い換えてもいい。家族の関係が、制度だけの関係ですむわけないだろう。
親を憎もうと仲よくしようと、親とのあいだに人間と人間としての関係を結べば、それなりに一緒に暮らしたという連帯感は残るし、自分もまた家族を持ってみようかという気にもなる。
「家父長制」がだめだといっても、それが「家族」を全否定することにはならないのですよ、上野さん。
もちろん僕だって家族が普遍的なものだと思っているわけではないが、現在の社会で家族という空間が生まれてくる必然性はないわけではないだろうとは思っている。
世の中には結婚せずにいられない男女がたしかにいるのだし、彼らがおまえらみたいな低脳にバカにされなければならないいわれはない。
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   5・せずにいられないこと
ともあれ生身の男と女が、人間と人間として男と女として関係を結ぶ行為として結婚を選択しているのだ。結婚が正しいかとか間違っているかということなど、どうでもよい。この社会で結婚せずにいられない男女がいるのなら、それに対して傍がとやかくいえる筋合いではない。
現在の社会は、男と女が結婚せずにいられなくなるような構造になっているのだろう。
人間の「せずにいられない」ことは、誰も止められないし、止めるべきでもない。
人は、「しなければならないこと」を選択して誤るのだし、この社会は「あるべきかたち」を選択しながら推移してきたのではない。よかろうと悪かろうと、人々の「せずにいられないこと」の集積がエネルギーになって社会(時代)が変わってゆくのだ。
「新しい社会を構想する」などといいながら上野氏は、社会はこうあるべきだ、というようなことばかりいっている。上野氏に率いられているフェミニズムの女性たちもみんなそうだし、宮台真司氏らの上野氏と共闘している男たちも、内田樹先生や茂木健一郎氏や東浩紀氏だってまったくもって同じ穴のムジナだ。
おまえらが、「社会はこうあるべきだ」というようなことをいくらわめきたてたって無駄だし、うるさいばかりなんだよ。どうしてこの社会の表面には、こんな脳みその程度の低い連中ばかりがうじゃうじゃとうごめいているのだろう。
新しい社会(時代)は、なるべきようになるのではなく、ただもうなるようになってゆくだけだ。
人々の「せずにいられない」衝動がなぜ、おまえらの「社会や人間はこうあるべきだ」という騒々しいだけの陳腐な言説に封じ込められねばならないのか。
この社会は、おまえらのいう通りにはならない。
われわれは、人間が根源において「せずにいられない」こととは何か、と問う。何が正しいか否かということなど、どうでもよい。
われわれは、正義など信じていないが、人間は信じている。信じないと生きられないのだもの。
おまえらは、人間の生の姿や根源のかたちを探求する能力がなくて、正義ばかりいい立てている。知識や正義ばかりに執着して、人間に対して鈍感過ぎるんだよ。愛が薄い、というのか。
けっきょく、人間の「暗さ=生きることの不可能性」に対する視線がなさすぎる、ということだろうか。人間の「せずにいられないこと」は、そういう生の根源に潜む「嘆き」から生まれてくる。
人間が、美しいものや快楽に心を奪われ、「何?なぜ?」と問い、集団の連携や結束をつくってゆくことは、「せずにいられないこと」であって、「するべきこと」ではない。そしてそれは、「生きることの不可能性」を嘆いている存在だからだ。そういう人間であることの「暗さ」に目をこらさなければ、人間のせずにいられないことも美しいものも快楽も、そして歴史の真実も見えてこない。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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