「ケアの社会学」を読む・5・女は世界の奴隷か?

   1・制度的な視線
悪いけど、自己顕示欲の強いインテリ女がくだらないことをわめいてやがる、という印象がどんどん膨らんでくる。
そりゃあ、僕なんかと違ってこの人は、「世のため人のため」という使命感を背負って書いたのだろう。しかしだからこそ、世の中をいじくり倒してやろうとする、団塊世代の騒々しい自己顕示欲というのか、ブスのがんばりというのか、そんな作為性ばかりが目について、なんかもううんざりだ。
しょせんこの人とは、考えたり感じたりすることの位相が違いすぎるのだろう。
この人(上野千鶴子氏)は、自分が女であることにもたれかかりすぎている。女を武器にして生きてきた人だ。男と戦ってこられたのだろうが、女であることの武器はけっして捨てない。それを捨てて対等の立場で戦ってこられたのではない。
おまえら男には女のなんたるかはわからないだろう、というポーズ……何いってやがる、いちばんわかっていないのはあんたなんだよ。
フェミニズムとは、女であることを武器にできる唯一の学問であるのかもしれない。
介護という仕事に向いたメンタリティは、女の方が生来的に豊かにそなえている。しかし、上野氏が女だからといって、それがそのまま当てはまるとは思えない。女であるというだけで介護を語る資格があるとうぬぼれられたら困る。
僕から見ると、上野氏の視点は、女っぽくないのである。女であることを武器にして語っているだけで、視点そのものは男とたいして変わりない。
社会をどうこうしようとか、自分の運命をどうこうしようとか、そんなふうにがんばるのは男の習性だ。男の心は社会の制度性に染められやすい。避けがたくそういうポジションに置かれて生まれ育ってゆく。そして上野氏もまた、そういうポジションに立ったメンタリティで男と戦っておられる。だったら男になれよ、といいたいところだが、自分では女としての特性を豊かにそなえているつもりでおられるからやっかいなのだ。
女が社会的に疎外された立場に置かれてあるということは、必ずしもネガティブなことだともいえない。そのぶん社会の制度性から離れてこの生の「根源」に届く視線を持っている。介護という仕事はたぶん、そういう視線を持っていないとやっていられない仕事なのだ。
しかし上野氏の語ることには、残念ながらそういう視線が感じられない。男と同じ制度性を抱えたまま語っておられる。だから男にも受けるということもあるのだろうが、それじゃあ介護のメンタリティに触れることはできない。
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   2・理想の介護の条件
この国の「家族介護」という習慣がいいのか悪いのかよくわからない。
もちろんマルクス主義フェミニストであるらしい上野氏は、こんなものはよくない、といっておられる。
その根拠として、たとえばこんなふうにいう。
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(ケアの与え手と受け手の…注)相互行為としてのケアは、ケアの与え手がケアの対象と内容を選択し、ケアの受け手がその与え手のケアを選択したときに双方の行為者にとって「のぞましい」ものになる。
言い換えれば、ケアの与え手にとってケアしたいと思う人をケアすることが選べ、ケアしたくないと思う人のケアを避けることができるという条件とともに、ケアの受け手が、ケアを受けたい人からケアを受け、ケアされたくない人のケアを避けることができるような条件のもとで、ケアが相互行為として成り立ったときにはじめて、ケアという「相互行為」は「のぞましい」と言える。
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これが、「ケア」という現場の理想なんだってさ。
こんな愚劣なことをいけしゃあしゃあと語っているから僕は、この人は薄っぺらで制度的な視線しか持っていない、といいたくなるのだ。
ケアしたくない相手はケアしなくてもいいのか。それはつまり、ケアなんかなくてもいいといっているのと同じなのだ。
ケアしたくない相手でもケアをすることを、ケアというのだ。認知症の患者や体が動かない人のケアなんか、誰もしたくないさ。上野氏のような高慢ちきなババアのケアなんか、誰がしたいものか。
それでも誰かが引き受けてくれるからケアの現場が成り立っているのだろう。上野氏がいうような理想など、永久に実現しない。認知症の患者の「あの介護人はいやだ」というわがままなど聞いていたら、介護人が100人いてもまだ足りないだろう。
どんなに社会制度が整備されようと、つまるところ介護人の相手を選ばない献身の心意気と、被介護人の運命を受け入れるという態度の上にしかケアは成り立たないのだ。
介護人が相手を選ばないことだって、まあ「運命を受け入れる」という態度かもしれない。
上野氏は、家庭の主婦が姑や夫を介護するときの「運命を受け入れる」という態度はあってはならない不幸のようにいうが、その態度なしに生き物の生は成り立たない。
誰だって、生まれてきてしまった運命は受け入れているじゃないか。
青い空を「青い」と認識することは、運命を受け入れる心のはたらきなのだ。ピンクの方がいいからといって、ピンクだと思うことは普通はしない。
上野さん、あなただって、ブスの田舎っぺだという運命を受け入れて生きてきたんじゃないか。なのに今ごろになって、美人ぶったり都会人ぶったりして、おいしいフレンチがどうのといったようなお里が知れる自慢をする。その作為的ながんばりを人間性の真実であるかのようにいうのは、社会の制度性に飼いならされた男の論理なのですよ。
家庭の主婦が運命を受け入れて何が悪いのか。社会の制度性から離れたところにいるものほど、運命を受け入れてしまう。そういう心に支えられて、この社会の「介護=ケア」という行為が成り立っているのだ。施設の介護士だろうと、この社会の介護に携わるものはみんな、運命を受け入れる心の動きを持っている。
介護してもらいたくなるいい介護士ほど、介護する相手を選ぶというようなことをせず、運命を受け入れて仕事をしている。
人間は、根源的には運命を受け入れる「弱者」として存在しているのであり、介護とは、する方もされる方も「弱者」であることの上に成り立っている。
「強者」然として「選択する」などという厚かましい態度が通用するような世界ではないのだ。
なんのかのといっても、この生は「運命を受け入れる」ことの上に成り立っているのであり、それが人の心のはじまりであると同時に究極でもあるのだ。そこにこそ、人間であることの最後の尊厳がある。
社会学者の語る介護の理想なんて、こんなにも程度が低いのか。そうやって相手を選択するだの何だのといいたがること自体が、ブスのがんばりの論理なんだよ。
というか、制度に飼いならされた男と一緒の論理でしかない。自分じゃあ女であることを売り物にしているつもりだろうが、その精神と思考において、とっくに女であることを放棄してしまっているよ。色っぽさのかけらもない。
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   3・介護の現場では人を選ばない
介護をするほかない立場に置かれた主婦の「運命を受け入れる」という態度によって介護にまつわるさまざまな悲劇が起きていることは、僕だって承知している。
たしかに、いよいよ手に負えなくなったら介護施設に預けるのが最善の策だろう。預けるのが恥ずかしいことだという意識も、だんだんなくなってきている。
しかし、だからといって家で穏やかに介護してやれるのなら、それが悪いということもなかろうし、介護施設で送る老後がより幸せだともいえない。
人それぞれのなりゆきというものがある。
人間は幸せにならないといけないというものでもない。
不幸を描いた物語は、人を感動させる。それは、不幸に感動するのではない。不幸を生きる「人間」に感動するのだ。そこにこそ人間本来のかたちを発見するからだろう。
不幸を生きることこそこの生の基礎である。二本の足で立って歩くこと自体が、人間に負わされた逃れられない不幸にほかならない。不幸を負っているから、幸せを願ってしまう。
どんなに幸せを願っても、人間は、不幸を引き受けてしまう性癖を持っている。死に魅入られてしまう性癖を持っている。そういう人間性の上に、介護という仕事が成り立っている。
優秀で魅力的な介護人は、被介護者を選ばない。そして介護人を感動させる魅力的な被介護老人は、みずからの運命を受け入れて介護人を選ぶということはしない。選ばなくても親密にかまってもらえる資質をすでにそなえている。
無邪気に世界や他者にときめくことのできる資質は、介護人にとっても被介護老人にとっても大切である。その心の動きの上に、親密な介護の関係が成り立っている。
そういうときめきをすでに失っている人間が相手を選ぶのであり、それで介護の仕事が長続きするわけがないし、親密な介護が受けられるはずもない。
家族内介護においても、おたがいにそういう心の動きを持てないのなら、あるいは持てなくなってしまったのなら、さっさと施設に預けた方がいい。そしてそういう心がもてないのなら、施設に入っても親密な介護を受けられる機会はおぼつかない。
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   4・介護の現場を荒らすもの
相手を「選ぶ」ことによって問題が解決するなんて、何をくだらない低次元の議論をしているのだろう。
これだから、自意識過剰のブスのいうことは信じられないのだ。
人と人の関係の基本は、相手を「選別する」ことにあるのか。まあ今どきの「婚活」も、そういう流儀でなされているのだろう。「出会いのときめき」を失った人間は、そういうかたちで人と人の関係をつくってゆくしかないのだろう。ときめいてしまった人たちは、すでにさっさと結婚してしまっている。
上野千鶴子氏がどういういきさつで今日まで独身を通してこられたのかは知る由もないが、選別・選択することが人と人の関係の根源のかたちだと思っておられるのだとしたら、もともと人にときめくこともときめかれることもあまり豊かには体験してこなかった人なのだろうと推察するほかない。そういうところからしかそういう思考は生まれてこない。
われわれは親を選んで生まれてくるわけではない。それでもその運命を受け入れてゆくのは、乳児期のどこかで決定的な親との「出会いのときめき」を体験しているからだろう。なんといっても、親は、乳児が最初に出会う人間なのだ。
意識にとって時間とは、一瞬一瞬のあらわれては消える「いまここ」の連なりである。われわれは、一瞬一瞬「いまここ」と出会い続けている。人と人の関係だって、「いまここ」の「出会いのときめき」を体験し続けることである。
「ときめき」とは、「出会いのときめき」のことなのだ。だから人は、妙な婚活なんかしないで、「いまここ」の出会いにときめいて、目の前のその相手と結婚してしまう。
ややこしいことを書いてしまったが、介護の現場は、この生の基礎的なかたちとしての人に対する「ときめき」がなければ成り立たない。
それに対して上野氏らが「人と人の関係は選別することの上に成り立っている」という言説を世間にふりまき蔓延させてゆくことによって、介護の現場にいる人たちも、この相手は「よき介護人か」あるいは「よき被介護人か」と選別する視線をどんどん肥大化させてゆき、あげくの果てに「いまここ」の人に対する「ときめき」を失ってゆく。
一般的な社会生活ならそれですむし、その方が社会的な勝者になる道かもしれないが、介護の現場では、たがいに貴重で切実な「いまここ」の一瞬一瞬を生きているのである。選別なんかしていられないのである。「よき介護人(被介護人)か」と問うてなどいられないし、問うことによって「よき介護人(被介護人)」であることができなくなってゆくのだ。
「選別せよ」だなんて、よくそんな下品なことがいえるものだ。上野さん、あなたのその下品で倒錯した言説が介護の現場を追いつめ混乱させているのですよ。少しは理解しろよ。
「ケアの社会学」というこの本は、現在の介護の教科書としてけっこう売れているらしく、ネットの世界にも数多くの賛同する記事が寄せられているのだとか。
そろいもそろって……現代社会のそういう作為的で垢抜けないがんばり根性の蔓延が、弱いものたちを生きにくくさせている。
それにしても、この生や人間をなめたような「選別する」などというスローガンの人生観・人間観には、ほんとにうんざりさせられる。
こんな下品で程度の低い言説に介護の現場が荒らされていいのか。
まったく僕はいま、ゴミ溜めを漁っているような無残な思いでこの本を読んでいる。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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