「ケアの社会学」を読む・7・介護の想像力

   1・ポックリ寺
奈良県斑鳩の吉田寺は、「ポックリ寺」として、多くの老人の参詣者を集めている。
この寺に参れば「寝たきり」にならずに「ポックリ」死んでゆける、という信仰がある。
で、この寺にくる老人の声の聞き取り調査なども発表されていて、それについて上野千鶴子氏は次のようにコメントしておられる。
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「他者への迷惑」要因を取り除いてもなお「寝たきり老人」になることを拒否する参詣者の気持ちには、他人の世話になる「無力な自己」を積極的に拒否するプライドや、その裏返しの攻撃性がある……
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この人は、人間に対してどうしてこんなにも下品な見方をするのだろう。
「プライド」とか「攻撃性」とか、あんたじゃないんだよ。
参詣者たちは、ひとまず「まわりに迷惑かけたくない」と答えつつも、さらに聞けば「たとえ手厚い介護が受けられるとしても、それよりはポックリ死んでゆきたい」といっているのである。
寝たきりになる前にぽっくり死んでゆくなんて、もっと「無力」ではないか。彼らは、上野氏ほどには、寝たきりになった自分を人に介護させて平気でいられるような攻撃的で高慢ちきなプライドも、現世に対する執着心も持っていない。
ポックリ死んでゆくほど無力な死に方もないだろう。
上野氏と違って普通の年寄りは、自分がもし寝たきりになったら手厚い介護をされたいともされる権利があるとも思っていない。戦前生まれの世代ならなおのこと、そんないやらしい「市民意識」など持っていない。そういう意識は、この国の伝統としての「あはれ」や「はかなし」の美意識となじまない。
だから彼らは、ポックリ死んでゆきたいと願う。それは、人間の普遍的な願いである。「プライド」とか「攻撃性」の問題などではない。人間にとって死んでゆくことがどんなに困難で切実な体験かということを、この人はなんにもわかっていない。東大名誉教授という肩書を見せびらかしながらいつまでもこの世にとどまっていたい人にとっては、そりゃあ快適な介護が必要だろう。しかし普通の老人にとっては、快適な介護とともに生き延びようとするスケベ根性をまさぐるよりも、どうやって死んでゆくかということの方がずっと切実な問題なのだ。
いつまでも生き延びたいというスケベ根性をまさぐりながら「私には快適な介護を受ける権利がある」と主張するのが、そんなに立派なことか。そっちの方がずっと高慢ちきで攻撃的だろう。
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   2・ミーム=自己複製
もうこれ以上生きたいとは思わなくても、体が生きるはたらきをしてしまうし、まわりのものたちがその手助けをしようとしてしまう。こういうことを、『利己的な遺伝子』を書いたリチャード・ドーキンスは「人間および人間社会の<自己複製=ミーム>の衝動」というようなことを語っている。
どこかの国の総理大臣ではないが、ドジョウはキンギョになりたいとは思わないのである。みずからがドジョウであることを受け入れている。
生き物の身体は、たとえ体中の細胞がぜんぶ入れ替わっても、同じ身体であり続けるように組織されている。そういう遺伝子のはたらきに由来した本能として、ドジョウはドジョウ以外の何ものにもなろうとしない。
寝たきり老人だって、本能的無意識的には、寝たきり老人以上の存在にはなろうとしない。生き物は、みずからの身体の現実を受け入れる心のはたらきを本能として持っている。
生きられない体になれば、心はやがて生きられない体である運命を受け入れてゆく。それを、介護を受けながら生きられる体になろうとするためには、それなりに不自然な観念のはたらきを必要とする。
根源的には、生きられない体になってしまった主体は、介護を求めない。まわりが介護しようとはたらきかけてゆくだけである。
ウンチを垂れ流しながら朽ち果ててゆくとしても、嘆きつつもその現実を受け入れてゆくのが生き物としての本能であり、そのみずからの現実を運命として受け入れてゆくことこそ、われわれの心の基礎的なかたちなのである。
ミーム=自己複製」とは、人の心や行動習性には自分の現実を受け入れるというか現実に憑依して反復していってしまう傾向がある、というようなことだ。何はともあれこの生は、そういう条件の上に成り立っている。
人が自分の「寝たきり」になる姿を想像するとき、まずウンチを垂れ流しながら朽ち果ててゆくことを覚悟する。そういう自分と向き合うことの生き物としてのかなしみが、上野氏にはわからないのだ。それは、プライドの問題じゃない。
老人予備軍のあいだは「アンチ・エイジング」でがんばっていられるが、正真正銘の老人になってしまったら、もうそんなことは通用しない。朽ち果ててゆく自分を受け入れ、さっさと死んでゆきたいと願うしかない。
何はともあれ人間は、さっさと死んでゆきたい存在なのである。さっさと死んでゆきたいのにそれができなくて途方に暮れている存在なのだ。それが、人間であることの根源であり普遍である。上野氏のいうような「プライド」とか「攻撃性」の問題じゃない。人間性の普遍として、ポックリ死んでゆきたいのだ。
運命を受け入れるとは、「覚悟をする」ということだ。人は、本能としてそういう心の動きを持っている。
手厚い介護をされながら長生きすることが幸せなのか。そんなことは、上野氏以外誰も願っていないし、誰もそんな権利があるとも思っていない。
それでも人は、死にそうな人の介護をしようとする。それは、その人が生きてある現実を反復させようとする行為であるのだが、それはもう、いわば、コマーシャルのキャッチフレーズが耳について離れなくなってつい何度でも口ずさんでしまうのと同じ本能的な無意識の衝動であり、それを「ミーム=自己複製」という。
介護という仕事は、被介護者の「ニーズ」の上に成り立っているのではない。介護しようとする人間の本能的な衝動の上に成り立っているのだ。それは、人間が人間として人間を「ミーム=自己複製」しようとする衝動である。
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   3・覚悟=コミットメント
どんな高慢ちきで甘ったれた被介護老人だろうと、人間という生き物であるかぎり、心の底には、ウンチを垂れ流しながら朽ち果ててゆく自分のイメージをひとつの「覚悟」として持っている。
だからおばあさんたちは、「ポックリ寺」に馳せ参じる。
老人介護に、先験的な「ニーズ」など存在しない。
運命を受け入れる、すなわち「覚悟する」という心の動き、これを英語では「コミットメント」というらしい。
一方、介護なしには生きられない自分の姿を客観的に把握・分析してゆくことを「デタッチメント」というらしい。
人は、そうかんたんに自分が介護される姿をイメージできない。なぜならそれは、自分の身体の現実を逸脱している状態だからだ。まずは、自分がウンチを垂れ流す事態しか思い浮かばない。
実際に介護をされ、介護をされることが身体化してゆくことによって、はじめてその「ニーズ」を自覚してゆく。
「ニーズ」は、先験的に存在するのではなく。介護によって「ニーズ」が生み出されてゆくのだ。
自分の身体との直接的なかかわり(ミーム=コミットメント)においては、介護されるというイメージは存在しない。
実際に自分が介護をされるという体験を持つことによって、はじめて介護されるという社会性=客観性の視点(デタッチメント)を持つことができる。
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   4・市民正義というまやかし
内田樹先生が、村上春樹を真似て「デタッチメント」と「コミットメント」という言葉を並べながら、近ごろ「メディアの劣化」を批判しておられる。
かいつまんでいえば、客観的な事実だけを報道するのが「デタッチメント」で、背景や因果関係を報道するのが「コミットメント」、ほんらいはこの両方を報道してゆくのがメディアの役割のはずだが、たとえば新聞やNHKは事実だけの「デタッチメント」の報道に偏り、週刊誌や民放テレビはどうでもいい裏情報をつつくだけの「コミットメント」に終始するというように「分業化」して、どのメディアもこの両方を備えた身体性(=生身)というものが欠落している、ということなのだとか。
嘘ばっかり。たとえば例の大阪のネグレクト事件が起きたとき、新聞は、ただ事実の報道だけでなく、その意味やら背景を社説や特集の連載などでそれなりにきめ細かく報道していた。週刊誌やテレビだって、背景や裏話をつつくだけでなく、客観的な事実も新聞やNHKに負けないくらいきめ細かく報道していた。
内田先生は、こんないい方をすれば受けるだろうと、ただ思いつきで書いただけなのだろう。近ごろは、こんなふうに物事をチャート化するいい方が受ける。わかりやすいから。こんな他愛ない床屋談義でもすっかり感心して聞きいってしまう人がたくさんいるのだ。それが困ったもので、だから内田先生もこんな人をなめたようなことを平気で繰り返している。
チャート化する語り手も読者も、本気で考えていないし、考える能力もないのだろう。
「分業化」しているなら結構だが、どのメディアもそれなりに包括的に取材し報道しようとしているさ。むしろ、この両方を盛り込もうとして、お子様ランチ的な底が浅いものになってしまっていることにこそ問題がある。
「身体性」とは、この両方を兼ねそなえることにあるのではない。
「身体性」は、あくまで「ミーム=コミットメント」にある。
内田先生も村上春樹も新聞も週刊誌もテレビも、包括的網羅的であろうとするあまり、きちんと背景や因果関係に「コミットメント」できていないことこそが問題なのだ。
包括的であろうとするような上から目線の正義ぶった態度で背景や因果関係に肉薄できるはずがないじゃないか。
内田先生の言説のどこに「身体性」や「生身」の声があるというのか。
何はともあれ「市民正義」というものをひとまず捨てなければ肉薄できない。現代の「市民正義」は「身体性」を失っている。それが問題だ。
村上春樹は、オウム事件や神戸の震災のことを語れば「コミットメント」になるつもりでいるが、けっきょく「市民正義」で空々しく語っているだけで、村上春樹自身が人類の運命や歴史を背負っているような「生身」の声にはなっていない。人類の歴史を背負って生贄になるような「覚悟=コミットメント」の思考はしていない。「身体性」は、そういう「覚悟=コミットメント」のもとにある。
ポックリ死んでゆきたいというおばあちゃんの方が、村上春樹内田樹上野千鶴子よりずっと「覚悟=コミットメント」を持っている。この二人も新聞も週刊誌もテレビも、「市民正義」を捨てることができていないから「身体性」の底が浅いのだ。
「市民正義」は、どこまでいっても制度的非身体的な「デタッチメント」の視線にすぎない。
新聞や週刊誌やテレビはしょうがないとしても、内田先生や村上春樹上野千鶴子はほんらい「市民正義」など捨てられる立場のはずなのだが、逆に不思議なくらいそれにしがみついている。そういう世代なのだろうが、そんな態度や視線は「コミットメント」や「身体性」でもなんでもなく、逆にそれを喪失している態度であり視線なのだ。
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   5・滅びの文化
それはまあいい。僕は今、老人介護の問題を考えているのだ。
この問題には、どうしても「市民正義」が付きまとう。それで語れば多くの人に受けるのだろうが、それで語ればこの問題の「身体性=コミットメント」を見失う。
老人とは、根源的無意識的には。ウンチを垂れ流して野垂れ死にすることを「覚悟=コミットメント」している存在なのだ。彼らに助けを求められているとなど思うべきではない。われわれの側に、介護せずにいられない本能的な衝動(=ミーム)があるだけなのだ。
上野氏は、ポックリ寺に通う老人たちには介護を拒否する「プライド」と「攻撃性」があるというが、そうじゃない、彼らは、上野氏のように、自分には介護される権利があるとは思っていない。
自分には介護される権利があると思うということは、老いて朽ち果ててゆくことに対する想像力、すなわち「覚悟=コミットメント」がないということだ。
日本列島の中世には、「地獄草紙」とか「飢餓草紙」のように、朽ち果ててゆく人間の身体や形相をじつにリアルに描いた絵巻物がある。そうして、古事記イザナミノミコトの死んで腐ってゆく体にウジ虫が湧いてきたと記述されているのは、古代には死体がすっかり朽ち果てて骨だけになってから埋葬するという「もがり」の風習があったことに由来する。また、生まれてから間引きした赤ん坊の死体を甕の中に入れて床下に置いておくという農民習俗は、江戸時代まで続いていた。
日本列島の住民は、歴史的に、人間の体が朽ち果ててゆくことと向き合い和解しようとしてきた。そういう「滅び」の文化の伝統がある。
そんな民族が、70歳80歳まで生きていれば、自分の体が朽ち果てていっているということを実感しないはずがない。手厚く介護されたからといって、もしボケないで正気なら、その朽ち果てるということと向き合い続けねばならないのである。だったら、誰だって、ポックリ死んでゆきたいだろう。
これは、日本列島の伝統的な美意識の問題である。
90歳を過ぎてもまだ正気を保ってこの世に存在していることがどんなに不幸でかなしいことか、上野さん、あなたにはわからないのか。
根源的には、介護されることの権利も介護することの正義も存在しないのだ。
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   6・介護される老人からの「ニーズ」などないと思え
この国の老人が「自分には介護される権利はない」と思う無意識=美意識は、どこかのイメージ貧困なインテリ女が語る「家父長制」とか「ジェンダー」などという安直な言葉で説明がつく問題ではないのである。
上野氏がいきがって語る「老人のニーズ」などないのだ。ポックリ寺にくる老人たちが「介護の迷惑をかけるのはもうしわけない」と思うのは、「家父長制」とか「ジェンダー」の問題ではない。この国の美意識の伝統の問題であり、人間性の普遍の問題なのだ。
人間性の普遍として介護される権利はないのであり、同様に人間性の普遍としてまわりの介護せずにいられない衝動があるだけなのだ。
べつに、権利とか義務の問題ではない。介護するものもされるものも、滅びてゆく存在としての「覚悟=コミットメント」の問題として関係が成り立っているのだ。
老人はさっさと死んでゆきたいと願いながらそれができないで途方に暮れている存在であり、じつは人間はみなそのようにして存在しているのだ。そこのところを「共感」できないで何が「ケアの社会学」か。
上野氏は、将来自分が安心して快適な介護を金で買うための布石としてこの本を書いておられるらしい。この国の老人ならほんらい誰もが持っているはずの、自分の体が朽ち果ててゆくことと向き合える「覚悟=コミットメント」がないから、何がなんでも快適な介護が保証される将来を確保しておきたいのだ。
基本的には、介護される人にとっての快適な介護などというものはない。わけのわからない戦後の「市民正義」が、自己満足のために勝手にそんなことを合唱しているだけなのだ。
介護されたって、「朽ち果ててゆく=滅びる」ということとは向き合わねばならないのである。そこのところの「想像力」すなわち「覚悟=コミットメント」が、上野氏にはなあんもない。
この国の老人たちは、誰も内田先生や上野氏ほどには、生き延びようとするスケベ根性をたぎらせているわけではない。ほんとにいやなブ男とブス女だ。ブ男やブスが押し付けてくる正義ほど鬱陶しいものはない。
被介護老人の「ニーズ」、などと傲慢なことはいうな。
介護される老人の、自分の体が朽ち果て死んでゆくことに対する「覚悟=コミットメント」を尊重・尊敬できないで、どうして「介護=ケア」と呼ぶことができよう。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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