「ケアの社会学」を読む・8・鉄輪(かなわ)

   1・人間存在の無力性
介護される老人は、みずからの「無力性」をかみしめて生きている。それはもう、きっとそうだろう。
そこから介護者に対する甘えやわがままや怒りが生まれてくる契機はいろんなことが考えられるが、その人の人生や人格によってさまざまな表現になる。しかし何はともあれ、みずからの「無力性」を骨身にしみて思い知るからだろう。
体が動かなくなってしまった老人は、その事実を受け入れようとする無意識を持っている。しかし介護するものは、動かしてやろうとする。そうしないと生きられない。それはありがたいことではあるが、同時に本人にとっては、自分が自分でなくなることでもある。その自己矛盾に混乱したり苛立ったりしてわがままになったり怒りっぽくなったりするという面もある。
こんな体になってしまったら、もう生きていたいとも思わない。誰だって、できることなら上手に死を受け入れてゆきたいと思うだろう。でも、介護されていたら、そんな気持ちにはなかなかなれない。いったい私は、どうすればいいのか……介護される老人の「ニーズ」とか「権利」とか、そうかんたんにはいえない。
介護される老人の「ニーズ=願い」は、ほんとうに介護されることにあるのか?
介護する人がネグレクトしたって、僕は罪ではないと思う。ある意味では、上手にほどよくネグレクトしてやることも必要かもしれない。
というわけで、介護される老人がわがままになるのは仕方がない面もある。とくに意識が「介護される権利」にばかり傾いていけば、ますますわがままになってしまう。そのときその老人は、みずからの生き物としての自然を喪失している。喪失していることそれ自体に苛立っている。それは、自分に対する苛立ちでもある。自分が自分の思うようにならない苛立ちと、思うようにならないことを受け入れられない苛立ちを、介護者にぶつけてゆく。
上野氏のようにもともとクレーマーの傾向がある人は、ひといちばいそうなりやすいだろう。今は余裕しゃくしゃくで生きているのだろうが、さらに歳をとって体がいうことをきかなくなってきたら、若いころのぎすぎすした感じが一挙によみがえってこないとも限らない。彼女はもう、ひとまずそういう本性をさらしてしまったのだ。
上野氏は随筆で「いつもケンカ腰だった私の若いころを知っている人とは恥ずかしいから会いたくない」というようなことを書いているのだとか。何さまになったつもりか知らないが、あのころは今よりもひたむきだった、とどうしていえないのか。あのケンカ腰は、ただのポーズのかっこつけだったのか。ただのブス女のヒステリーだったのか。余裕しゃくしゃくで美味しいフレンチの店がどうのと語っている今のあなたが、そんなに立派か。内田樹先生と一緒の感性じゃないか。若者よりも大人の方がえらい、という調子で、今の自分を正当化することばかり考えている。
まさに暖衣飽食の豚の論理。
こんな女が語る老人介護の問題に、どれほどの切実な真実があるというのか。
彼女はきっと、最後の最後でジタバタしてしまうかもしれないという不安があるのだろう。しかしその問題は、手厚い介護を確保すれば解決するというわけにはいかない。それは、人間としてのセンスの問題であり本性の問題である。頭も体も自由がきかなくなってくる最後の最後は、どうしても生の自分がさらけ出されてしまう。
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   2・じたばたしないで無事に死んでゆけるか
老人とは、もうすぐ死んでしまう人たちである。
人は、基本的には自分が死んでゆくときを選ぶことはできないし、うまく死んでゆくことができる自信もない。誰も死んだことがないのだから、死んでゆくことがどういうことかよくわからない。
それでもわれわれは、死んでゆかねばならない。いつかかならず死ぬ。
どうすればうまく死ぬことができるのか。
少なくとも、今の自分を肯定し今の自分に執着しているかぎり、うまく死んでゆくことはおぼつかない。死んでゆくとは、今の自分が消えてゆくことだ。
そして、生きることは、今の自分が消えて次の瞬間(=未来)の自分があらわれることであり、今の自分を消し続けてゆくことである。
生き物の意識は、今の自分を消そうとする衝動を持っている。それが生きることであり、死んでゆくことでもある。
われわれにとって、「今の自分」はそんなに素晴らしいか。
普通は誰だって、「このままじゃいられない」という思いにせかされて生きているのではないだろうか。そういう思いが、人間を生かしているのではないだろうか。
人間は、根源的には、生きてあることにも自分にも「このままじゃいられない」といういたたまれなさを持っている。だから生きてあることができるし、死んでゆくこともできる。
今の自分を消すこと、すなわちいまここに存在することの「無力性」が生きてゆくことを可能にし、死んでゆくことができる契機になるのだ。
体の重心を前に倒していけば、立っていられなくなる。しかしだからこそ足が一歩前に出る。まあ、そのようなことだ。それは、いまここから消えることである。
いまここの自分に充足しているなんて、人間として不自然なことだ。
人間の自然は、いまここの「無力性」を生きることにある。
介護される老人は、みずからの「無力性」を深くかみしめている。そして人間は「無力性」を生きる存在なのだから、根源的には、介護されて今ここに充足してゆこうとする望み(=ニーズ)を持たない。彼らから介護を要請されている(ニーズ)されていると思うべきではない。われわれが介護せずにいられないだけなのだ。
生まれたばかりの赤ん坊が泣いているからといって、おっぱいをくれとせがまれていると思うべきではない。彼らはただ、空腹のいたたまれなさ(無力性)を嘆いて泣いているだけなのだ。
人間の起源であり究極は、「無力性」を生きることにある。
そして老人の「無力性」は、「死」を間近に見ている。
彼らを生きさせてやったからといって、救済にはならない。彼らは、死を間近に見ながらもうまく死んでゆくことができないで途方に暮れている人たちなのである。
彼らを生きさせることが介護ではなく、彼らが死と和解してゆくことを手助けし、彼らのあとをつき従ってゆくことを「介護」という。
内田樹先生のように、いまここの自分に充足して「弱者を教育する」などといっていたら間違う。人が死んでゆくということについて、教えることのできる知見を持っている人間などこの世にひとりもいない。
われわれはそれを、死んでゆく人から学ぶしかない。だから、介護をするのだ。
彼らが無事に死んでゆくことができるのなら、それはわれわれの希望になる。
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   3・鉄輪(かなわ)
「鉄輪(かなわ)」という能の演目がある。
女が嫉妬に狂って鬼になる、という話だ。
これは、伝説というか民話がもとになっている話で、中世にはそんな女がたくさんいたのかといえば、それはよくわからない。
乱世であった。
命のはかなさがこれほど深く実感されていた時代もないにちがいない。武士は戦争ばかりしていたし、庶民のあいだでも盗みや人殺しは日常茶飯事だったし、産んだ子を間引きするということもいくらでもあった。
誰も清く正しい人生なんか生きられなかった。
女房が密通したり、亭主がほかの女に手を出すということも、いくらでもあったにちがいない。
そんな時代に、亭主がほかの女に走ったからといって、鬼になるほど嫉妬に狂うだろうか。
誰もが、明日も生きてあることを当てにしないで暮らしていた。
とはいえ女としては、無常の乱世だからこそ、いまここの相手と添い遂げる覚悟がどうしてできない、という気持ちにもなるのかもしれない。
中世の「無常観」は、女の方が深く自覚していた。
男は、どこか覚悟があいまいだった。
武士たちは、戦争という命のやり取りでそれを自覚してゆく手段を持っていたが、そういうことをしていない男たちはどうしても「無常」から逃げようとしてしまう。
無常を生きるほかない世の中なのに、無常を生きられない。無常を生きるためには、大人のための教訓として、どうしても「地獄草紙」や「餓鬼草紙」のような朽ち果ててゆく人間のリアルな絵巻物や、鬼や妖怪の話は必要だったのではないだろうか、
無常を生きることは、修行して悟ることではない。女子供は「いまここ」でたちまちそれを「覚悟=コミットメント」してゆくことができる。これを、親鸞は「横超」といった。必死に修行してたどり着くのではなく、「いまここ」で横に滑り込んでゆく。
中世においては、男だけが「無常を生きる」ことから取り残されていた。そういう男たちのために「鉄輪」という能が生まれてきたのだ。親鸞が「横超」を説いたように。
男だけがつまらない煩悶を生きていた。「鉄輪」は、追いつめられる男の恐怖やみっともなさを浮き上がらせる物語であって、べつに子供だましのような鬼そのもののの恐ろしさを説いているのではない。
中世の女たちは、ほかの女に走る男を「バカなやつめ」と見ていたから、現実の世界においてはそんなバカな男が報いを受けることはなかった。だから、「鬼」を登場させなければならなかったのだし、そんなやつは鬼に苦しめられて当然だという思いをみんなして共有していったのだ。
まあ普通は、男も女も、明日も生きてあることがわからない世の中だから、「いまここ」で真剣勝負をしていた。
とはいえ「鉄輪」のような話が生まれてくるということは、男たちはそれほどに「女はおそろしい」という思いを共有しており、そういう「鬼になった」という噂話が飛び交っていたのだろう。中世とは、男たちが女の「覚悟=コミットメント」のすごみを思い知らされた時代だった。
男にとって女のおそろしさは、事件などなくても、日常の会話や一挙手一投足にもあらわれている。僕なんか、家に帰って「手を洗ってね」と言われただけで、女というのはファシストだなあと背筋が寒くなる。
無常の世の中であれば、その「覚悟=コミットメント」の違いがよりラディカルにあらわれる。
死んだ人間が化けて出てくるのも怖いが、女は生きながら鬼になってしまう。それは、もっと恐ろしいことだろう。無常を生きていれば、自然にそういう話は生まれてくるし、そういう話を必要としたのだろう。
女の中の鬼が見えていた時代、ということだろうか。嫉妬に狂ったとか、そういうことは話をおもしろくするための装飾で、中世の男たちはもう、女の存在そのものにおびえていたのだ。
この世に生きてあることの「覚悟=コミットメント」の差として、男たちは女におびえていた。
女が鬼だからといって、殺されることが怖かったのではない、生きたまま「追いつめられる」ことが怖かったのだ。「鉄輪」は、そういう話である。べつに女に殺されるわけではない。主人公の男は、陰陽師をたのんでいったん鬼を退散させるのだが、その鬼から「いずれまた戻ってくるから」といわれてしまう。
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   4・「完結性」と「覚悟」
女が強いからではない。弱い存在だからこそ、その「覚悟」もラディカルなのだ。
明日も生きてあることを当てにせず、「いまここ」でこの生を完結させてしまう心の動きは、女の方がずっとラディカルだ。
そういうこの生の「完結性」を持てるところに、女の「覚悟」の深さと強さがある。
いいかえれば、この生やこの世界をかんたんに完結させてしまうところに、女の視野の狭さがある。
その点男は、良くも悪くもこの生をうまく完結させることができないでいつまでもふらふらしている。だから「鉄輪」の男のように追いつめられねばならない。
しかし誰だって、死んでゆくためには、この生とこの世界を「もうこれでいい」と完結させなければならない。
「無常」とは、「いまここ」でこの生を完結させることである。
なんのかのといっても人類は、そのようにして「死んでゆく」という問題を解決しようとしてきた。
仏教の「金輪(きんりん・こんりん)」という言葉は、世界の「完結性」をあらわす言葉であるのだとか。もっとも完全な如来のかたちとして「金輪大日如来」というようないい方をした。
この宇宙は「金輪」の円筒形として完結している、という。銀河系がそのようなものかどうか知らないが、まあそういうことだ。
「金輪際(こんりんざい)」とは、もともと「徹底的に」というような「完結性」を意味する言葉だった。「金輪際知りつくす」とか、そういうふうに使われていた。
その「金輪(きんりん・こんりん)」が、日本列島の庶民のあいだでは、いつの間にかやまとことば的な「かなわ」という言い方もするようになっていった。
「かなわ」とは「かなわん」の「かなわ」、「もうどうにもならない¬=身動きできない」と追いつめられた状態、ネガティブな「完結性」をあらわす。
「鉄輪」の鬼は、火鉢や炉端の灰の上に置く「五徳」をさかさまにして頭の上に乗せ、その三本の脚にろうそくを立てて登場してくる。この「五徳」が「鉄輪(かなわ)」であり、それなりに円筒形になっていて、「金輪」を象徴するものとして「かなわ」と呼ばれていたのだが、同時に、この演目では「かなわ=追いつめる」ということも象徴している。
その鬼は、この生やこの世界を完結させている存在として、「鉄輪」を頭にのせている。そのタイトルは、そういう女の「覚悟」と、「追いつめられる」男の恐怖を象徴しているのだ。
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   5・円筒形の世界
この宇宙は円筒形になっている……この世界観がどうしても気になる。
ほんとうにそうなっているかどうかということは、ひとまずどうでもいい。人間はこの生やこの世界をそのように感じている、ということが気になるのだ。
自由とは何だろう。どうして人間は自由を欲しがるのだろう。そしてどうしてわざわざ自由を放棄するように会社に入ったり結婚したりするのだろう。自由でいたければ、群れをつくらないで。トラのように単独で行動していた方がよい。
われわれは、少しも自由ではない。
べつに、自分が望んでこの世に生まれてきたのではない。これは、自由とはもっとも遠い運命ではないか。
そして、自分なんか鬱陶しいだけなのに、自分以外のいかなる存在にもなれない。さらには、望みもしないのにやがては死んでゆかねばならない。
この生に自由なんかどこにもない。ひたすらみずからの運命にしたがって生き、死んでゆかねばならない。
この世に生まれてきてしまったことの、このなんともいえない閉塞感。
われわれはもう、狭いチューブの中をくぐりぬけるようにして生かされてある。
世界は、生まれる前や死んだあとの方がずっと広々としているのではないか。意識がないということは、自由で世界が広々としているということかもしれない。
意識があるということには、狭いチューブの中をくぐりぬけているような不自由な心地がどうして付きまとう。われわれのこの生は、この意識に限定されている。
だから人は、避けがたくこの世界や宇宙を「チューブ=円筒形」としてイメージしてしまうのではないだろうか。
仏教を生み出した古代インド人は円筒形の銀河世界を直感していたとか、そんな話ではない。
この世に生まれてきてしまった運命に対する「無力感」がそういうこの生やこの世界のかたちをイメージさせてしまうのではないだろうか。
どうして無限の果てしない広がりをイメージできないのか。
この世に生きてあるものは、誰もこの閉塞感と無力感からは逃れられない。
「完結した世界」をイメージするということ自体が、ひとつの閉塞感のなせることだ。
ほんとに自由であるのなら、「完結した世界」などいらない。しかしわれわれは、「この生はいまここで完結している」という心地のときにもっとも深く生きてあることのカタルシスを体験している。
この身体が無限に膨張してゆくのではなく、「消えてゆく」というかたちでカタルシス=快楽を体験している。
「完結する」とは「消えてゆくこと」だ。
この生がチューブの中に閉じ込められてあるからこそ、消えてゆくことがカタルシス=快楽になる。われわれは、そういうかたちでカタルシス=快楽を体験するような存在の仕方をしている。
勝手に観念で「自由」だの「無限」だのを想像しても、意識の根源においては、チューブの中をくぐりぬけるような心地で生きている。だから、どうしても「円筒形」の宇宙をイメージしてしまうし、この生やこの世界の「完結性」をよりどころとして生きようとしてしまう。
われわれの意識は、根源において、この生やこの世界を「いまここ」で完結させようとするはたらきを持っている。
意識のはたらきは、この世に生きてあることの「無力性」の上に成り立っている。
この生の与件としての「無力性」が、円筒形の宇宙のイメージを手繰り寄せる。
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   6・「無力性」の共有・共感
原初の人類は、猿よりももっと弱い猿だった。その「無力性」を生きることの代償として、文化や文明を獲得してきた。
死んでゆくことは、限りなく無力になってゆくことだ。そうして、消えてゆく。意識が発達した人間存在は、避けがたくそうした「無力性」を深くかみしめながら死んでゆく。
人は、「無力性」を深く自覚していったところで、この生や死に対する「覚悟=コミットメント」を獲得する。
意識は、避けがたく「無力性=この世のもっとも弱いもの」に魅入られてゆく。そうやってわれわれは、生まれたばかりの赤ん坊を育て、死んでゆく老人を介護している。
介護するものとされるものは、生きてあることの「無力性」を共有してゆく。介護とは、どちらにとってもそういう体験なのだ。
強いものが弱いものを助けてやるとか、与えるものに対する受け取るものとか、そういう非対称の関係ではない。
根源的には「無力性」の共有・共感の上に成り立った対称の関係なのだ。
だから根源的には、介護されるものは何も望んでいないし、介護するものもまたそのとき「無力性」に魅入られているのだから、いかなる義務も負っていない。義務を遂行する能力を持たない「無力」なものとして介護をしているのだ。
介護しなければならないという義務感だけでしていると、必ず挫折する。義務感は、けっして介護に励む原動力にはならない。何はともあれ、相手に対する「ときめき」の上にその行為が成り立っている。
生きてあることの「無力性=嘆き」を共有・共感してゆくことの「ときめき」の上にその行為が成り立っている。そこでしか介護という行為は成り立たない。
根源的には、介護されるものの「ニーズ」も、介護するものの「義務」も存在しない。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
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