「ケアの社会学」を読む・13・生きにくさを生きる

   1・「民主主義の市民社会」の限界
上野千鶴子氏にとっての「新しい社会を構想する」ことは、「民主主義の市民社会」を構想することらしい。まあ、現在のこの国のほとんどの知識人がそんなスローガンで考えているのだろう。
僕は、「新しい社会を構想する」ことにも「民主主義の市民社会」にも興味はない。「いまここ」のこの世界がどうなっているのかということが知りたいだけだ。未来のあるべき社会のかたちなど知りたいとも思わないし、その通りの社会がやってくるとも思わない。
新しい社会は、人々の無意識的な結束とともに、なるようになってゆくだけだろうと思っている。
知識人が構想するかたちになってゆくのではない。
人々は今、どのようなかたちの無意識で結束しているのだろうか、知りたいのはこのことだ。
上野氏は、あの阪神淡路大震災東日本大震災で人々のダイナミックな結束が生まれてきたのは「民主主義の市民社会」が成熟してきたからだ、といっておられる。
たぶん、そういうことではない。
自衛隊の救援活動にしろ市民のボランティア参加にしろ、それは「民主主義の市民社会」から離れた「非日常」の事態として結束されていったのだ。「民主主義の市民社会」によって確立された「権利」や「義務」の合意から離れて、ただもう人と人の心のつながり(共感)の上に立って結束していったのだ。そこには、どんな「権利」も「義務」も存在しなかった。
根源的には、人と人は「権利」や「義務」の合意の上に立って結束してゆくのではない。
ただもう心と心が響き合って結束してゆくのであり、人と人は先験的に結束して存在している。
つまり人は、先験的に他者の群れの中に投げ込まれて存在している、ということだ。
「民主主義と市民社会」が成熟した市民たちのたがいの「権利と義務」を尊重し合おうとする合意の上に成り立っているとすれば、あの大震災で人々を結束させたのは、「民主主義の市民社会」ではなかった。
どちらかと言えば、そうした「権利」だの「義務」だのという西洋的な公共性に無頓着な、いかにも日本人的な「幼児性」が結束させたのだ。
あと先のことをかまわない行き当たりばったりの幼児性で、救援活動に駆けつけずにいられなかっただけだし、そのとき人々は未来の希望を語り合って結束していたのではなく、ただもう「いまここ」の「嘆き」を共感し合っていただけだ。
そしてこれは、介護の問題でもある。介護という行為もまた、どんな「権利」も「義務」も存在しない。基本的にはただもう、介護されるほかない状態の老人がいて、介護せずにいられない人間社会の自然な衝動があるだけである。
それを、上野氏のように「民主主義の市民社会」の論理で「権利」だの「義務」だのと並べ立てても、問題の本質が見えてくるはずがないし、現在の介護の思想がそのような方向に誘導されていっていいはずがない。
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   2・弱い生き物として生きる
介護の問題だって、人と人の結束(関係性)の問題である。介護の関係は、人と人が結束するかたちの上に成り立っている。ほおっておけば死んでしまう存在を生きさせるということ、これほど深い結束のかたちもないにちがいない。
鳥だって雛を育てる。これはもう、生き物の本能といえるかもしれない。
ただ人間は、この本能=衝動が、ことのほか強い。だって人間の赤ん坊は、ほかのどんな動物の赤ん坊より脆弱である。だったら、ほかの動物以上にこの本能=衝動をたぎらせなければ、人間の群れは成り立たない。巷では「人間は本能が壊れた生き物である」などと合唱しているらしいが、人間ほど本能的な生き物もないのである。
生き物は「死ぬ」ということに対して無力である。どんな生き物もこの運命から逃れられない。生きてあるということは、それ自体死ぬことに対して無力だということを意味する。
すべての生き物は、死に対して無力な弱い存在である。
生き物は、弱い存在であるという与件を受け入れて生きている。
弱い存在であることを受け入れるのが、生き物の本能である。
チンパンジーのような猿であった原初の人類が二本の足で立ち上がったことは、俊敏に動く能力を喪失し、胸・腹・性器との急所(弱点)をさらして戦う能力すらも喪失する姿勢だった。そういう猿よりも弱い猿になることだった。
現代人の価値観からすると、そんなことをあえてするものかと考えるのだろうだが、弱い生き物になることこそ生き物の本能なのだ。
すなわち、生き物は、ぎりぎりの条件で「生きにくさを生きようとする」本能を持っている。だから、「生物多様性」が成り立つ。
たがいの「権利」だの「義務」だのを尊重し合って快適に生き延びようとしているのではない。
明日はないと思い定めて生きにくさを生きるのが生き物の生存のかたちであり、その生きにくさを生きることの「嘆き」を共有しながら結束してゆくのだ。そこにおいてこそ、もっともダイナミックな結束が生まれる。
人間が結束して大きな集団をいとなむ生き物であるということは、それだけ弱い生き物として生きにくさを生きようとする本能=衝動が強い生き物であることを意味する。
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   3・「絆」とは何か
介護をすることも、おそらくこのかたちを生きる行為なのだ。
弱い生き物として生きにくさを生きているものこそ、もっとも人間的な存在である。人は、「この世のもっとも弱いもの」を前にして、人間であることの根源的なかたちに気づかされる。そのようにして、老人や赤ん坊や身体障害者や病人の介護をしている。
大震災の被災者に手を差し伸べたことだって、ひとつの介護の衝動にちがいない。そのときわれわれは、「弱いものとして生きにくさを生きる」という、人間であることの根源のかたちに気づかされた。そうして、そのようなものと共に生きることに、何はともあれ「絆」という言葉を発見した。
人は、「この世のもっとも弱いもの」とのあいだに「絆」を発見する。そのようにして、障害児を神の使いとするこの国の伝統的な習俗が生まれてきた。
赤ん坊の母親は、それなりに「絆」を意識していることだろう。それは、赤ん坊にたよられていることを実感するからではない。生後数か月までの赤ん坊は、母親なんかたよっていない。ひたすらみずからの無力と生きることのしんどさを嘆いて泣いているだけだ。その姿に、母親の心が揺り動かされている。「この世のもっとも弱いもの」が生きてあるという事実を前にして、人間であることの真実に触れているような心地がしている。「この世のもっとも弱いもの」が生きてあることこそ、生きにくさを生きている人間の希望である。母親自身が生きにくさを生きている存在だからこそ、赤ん坊が生きてあることに、人間の希望と真実を見出す。
「絆」とは、相互関係ではなく、一方的な感動であり希望であり献身である。
赤ん坊と心が通じ合ったといってよろこんでいることを「絆」というのではない。この世に相手が存在することに感動し希望を見出し、一方的に献身してゆくことを「絆」という。
やまとことばの「絆=きづな」の語源は、ほかにもう何もいらないという完結した親愛の情のことをいった。
日本列島の人と人の関係の文化は、一方通行の文化である。だから、深くお辞儀をして相手を見ない。相手の心を斟酌しない。ただもう一方的に愛して献身してゆく文化である。たがいに献身し合っても、たがいに一方通行なのだ。相手が愛してくれているかどうかということは問わない。西洋のように、抱きしめ合って確かめ合う相互関係ではない。
母親の赤ん坊に対するような一方的な献身の関係を「絆」という。愛されているかどうかということは、ひとまずどうでもいい。「いまここ」でもう死んでもいいというくらいときめいている、その完結性を「絆」という。
相互関係は、たがいに確かめ合ったのちの「未来」において成立する。しかしやまとことばの「きづな」は、確かめ合う以前にすでに関係が完結している。
「き」は「世界の完結」をあらわす。
「づ=つ」は「完了」「達成」の語義。
「な」は、「なつく」の「な」、「親愛の情」をあらわす。
それは、関係を説明する言葉ではない、関係に対する「感慨」をあらわす言葉なのだ。
「きづ」はこれでもう死んでもいいという完結性に到達すること、「な」は親愛の情。完結している親愛の情のことを「きづな」という。とにかく、日本列島の関係の文化は、未来において完成する関係ではない、「いまここ」でたがいに一方通行の親愛の情を抱き合う関係であり、「いまここ」において完結している。
すなわち、未来における権利を主張することも義務を負うこともない「いまここ」の関係の文化なのだ。
介護には、権利も義務も存在しない。そしてあの大震災においてわれわれは、一方的に介護せずにいられなくなる衝動を覚えてボランティアに馳せ参じた。
俗な言葉でいえば「無償の愛」というのだろうか。そういう感慨が発生する関係のことを「絆=きづな」という。
死者を弔う気持ちは、一方的なこちらからだけの愛である。どんなに深く愛しても見返りがないし、見返りがないから想いはより深くなる。「この世のもっとも弱いもの」に対する感慨も、死者との関係に近い。
「絆=きづな」とは、愛し合うとか愛されていることを勘定に入れるというようなことではなく、愛を「捧げる」ことだ。
何はともあれあの大震災によってわれわれは、人間はそういう感慨を抱くということに気づかされ、「絆」という言葉を合唱していった。
べつに上野氏のいうような「権利」とか「義務」といった「市民意識」に目覚めたのではない。
「この世のもっとも弱いもの」は神に近い存在である、というこの国の伝統がよみがえったのだ。
人間は生きにくさを生きている存在だからそういう感慨を抱く。そしてひとりひとりのそういう感慨がどこかで響き合って集団がいとなまれ、時代が変わってゆく。
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   4・生きにくさを生きる
人間を動かしているのは、生きにくさを生きようとする衝動である。
ただ快適であればそれでいいのなら、とっくにそういう世の中になっている。しかしそれだけではすまないから、時代はぎくしゃく動いて、戦争をしてしまったりもするし、個人が苦しい恋に身を焦がしたりもする。
しんどい生き方をしているからといって、おまえらに憐れられねばならないいわれはないし、「介護をされる権利」だの「女の権利」だのを声高に主張することに賛同しないといけないわけでもなかろう。
この国の老人がむやみに介護される権利を主張しないのは、「家父長制」や「ジェンダー」の問題ではなく、「弱いもの」として生きにくさを生きようとするという人間性の根源の問題なのだ。そしてそういう心の動きが響き合って人間集団の結束が生まれ、時代が動いてゆく。
3度の大震災を立て続けに体験したわれわれははたぶん、たとえ生きにくくても介護されないですむ生き方を模索している。
たとえば、作家の佐藤愛子氏は、自分の家を建て替えるとき、床暖房とか冬でもいつも便座を暖かくしておく装置の設置を建築家からすすめられ、「そんなものはいらない、冬の床や便座はひんやりしているに決まっている、その方が冬らしくていい」といって断ったのだが、勝手に取り付けられていることがあとでわかり、いたく憤慨しているのだとか。
それはつまり、できるだけ介護なしで生ききろうとする心意気であり、その心意気を持っているかどうかで、老後の生き方の違いが出てくる。
その装置を取り付けることは老人の「介護される権利」に対する建築家としての義務感や使命感もあったのだろうが、世の中のそういう風潮がかえって老人の体を脆弱にしているという面もある。というか、そうやってむやみに長生きさせられるから、スムーズに死んでゆけなくなる。自分の死期を予感できなくなる。文明によって生き物としてのみずからの死期を奪われてしまっている。
津波にさらわれて死んでいった人たちや、体育館で避難生活を送っていた人たちのことを思えば、あまり「介護される権利」などとも騒いでいられない。日本中がそういう気分になってきている時代なのだ。「介護される権利」を合唱して人々が結束してゆくことは、論理的になり得ない。そういう「市民意識」が横行している時代かもしれないが、人間の本性はそのようにできていない。そんなことばかり言っていると人と人の関係はますます空疎でぎくしゃくしたものになり、介護する人たちのモチベーションだって下がってしまう。
「権利」だの「義務」だのを叫ぶ「市民意識」が人々を結束させるのではない。それは、この国の風土になじまない。この国の伝統においては、生きにくさを生きようとする人間性の根源が響き合って結束してゆく。
生きにくさを生きようとすれば、結束しなければ生きられない。
人間は、生きる権利があるのではない。人間性の根源として、人間は人間を生かそうとするのだ。だから、生きにくさを生きることができる。そういう根源のかたちを、われわれはあの大震災から学んだ。
ここまで書いてきて、上野氏に率いられるフェミニズムなんて、ほんとに底の浅い薄っぺらなものだなあ、と思う。おまえら少しはものを考えろよ、人間としての覚悟も誇りもない下品なブスが集まってやいのやいのと騒いでいるだけじゃないか、といいたくなってしまう。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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