「ケアの社会学」を読む・14・割礼というサディズム

   1・サディズムの起源
人間は、介護もすれば、虐待もする。戦争は虐待の最たるものだが、広義に解釈すれば、教育だってひとつの虐待だし、人を支配することも、「未来の社会を構想する」ことにも、ある虐待の衝動(サディズム)がはたらいている。
未来の社会やわれわれの考えることが、なぜこの社会をリードする人間たちに決められ誘導されてゆかねばならないのか。「啓蒙」という名の虐待。しかしわれわれもまた「啓蒙=支配」されたがっているからやっかいだ。
人間は、生きにくさを生きようとする存在である。だから人に生きにくさを生きさせようとするサディズムの衝動が生まれ、生きにくさをを受け入れるマゾヒズムの衝動が生まれてくる。
この関係をどう克服してゆくかは人類社会につねに付きまとっている課題であり、まずはこのことを自覚するところからはじめるほかない、
人類社会は「割礼」という衝動を持っている。それは、子供のうちにペニスの表皮を切り取っておく風習のことをいうのだが、かつてのアフリカや中近東には、女がむやみに性感や性欲を持たないように子供のうちからクリトリスを切り取っておくという風習もあり、こちらの割礼はもう、ひとつの虐待にちがいない。
いや、大人たちが寄ってたかって子供のペニスの表皮を切り取ることだってひとつの虐待のサディズムかもしれないのであり、ここから「教育」という制度が生まれてきた。
教育とはサディズムである。それはもう、そうなのだ。教育したらいけないというのではない。ただ、サディズムの強い教育者ほど、そのことを自覚していない。
まあ、人と人の関係は、親子であれ夫婦であれ恋人どうしであれ、食うか食われるかの関係でもある。そのことはまず自覚するほかない。自覚しないで誰もがいい子ぶっているからややこしくなるのだ。それが、「市民社会の民主主義」というものだろう。
内田樹先生も上野千鶴子氏も、正義ぶって偉そうなことばかりほざいている。それは、彼らのサディズムなのだ。
人間は、生きにくさを生きようとする存在だからこそ、サディズムをたぎらせてしまうし、マゾヒスティックにもなる。
中国人の纏足とか、首輪を重ねて首を長くするとか、刺青とか、人間社会にはさまざまな「割礼」の習俗がある。
共同体の制度性は、人に生きにくさを生きさせようとするサディズムである。
しかし、自然で自発的な生きにくさを生きようとする衝動と、制度から強制された生きにくさは違う。
人は、自然で自発的な生きにくさを生きはじめ、どんなに制度から強制されようとつねに自然で自発的なかたちに立ち帰ろうとし、最後にはそういうかたちで死んでゆく。つまり、小学生が転んでも転んでも一輪車の練習に熱中するように、やっかいな恋に熱中したり難しい学問を志したり冒険に挑んだりしたりするように、人は、自然で自発的な生きにくさを持っていないと生きられない。
誰もがどこかしらに自然で自発的な生きにくさを生きようとする衝動を持っており、じつはそここにおいてよりダイナミックな結束が生まれてくる。じつは、そこにおいて人と人が結束している。
人間が際限もなく大きな群れをつくってしまう生き物であるということは、ほかの動物以上に生きにくさを生きようとする衝動が強い生き物だということを意味する。
何はともあれ、人間社会の「割礼」という習俗はけっして過去のものではない。近ごろの思い上がった知識人がいい気になって扇動しまくっていることにせよ、たとえば臓器移植だって、ひとつの「割礼」なのだ。
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   2・弱いものとして生きる
人類の歴史は「猿よりも弱い猿」として6〜7百万年前にはじまった。そのとき彼らが二本の足で立ち上がることは、俊敏に動くこともままならず、胸・腹・性器等の急所(弱点)を相手の前にさらし続けることだったのであり、人間であることの根源的なコンセプトは、「弱いものとして生きる」ということにある。
これだって、まぎれもなくひとつの「割礼」という行為である。
人類は「弱いもの」として生きたから、やがて人間的な文化や文明を発達させてきた。早く走れない生き物だから、早く走ろうと自動車や機関車を生み出してきた。
弱い生き物だから、大きな集団を形成できるようになってきた。
人間であるかぎり、じつは誰もが「弱いもの」として生きているのだ。「弱いもの」として生きているから、介護をせずにいられないのだ。
つまり、「弱いもの」として生きにくさを生きること、そこに生きることの醍醐味(カタルシス)を見出してゆくのが人間の本性であるらしい。誰の心の底にも、そういう生きにくさを生きようとする衝動が息づいている。
人間の心の中には、不可避的にサディズムマゾヒズムもはたらいている。だから、「割礼」という習俗が生まれ、避けがたく共同体の習俗になっていった。
介護者は、被介護者を子供扱いしたりして、つい支配者のように振舞ってしまう。そういうサディズムが抑えられない。
被介護者は、つい「介護される権利」を主張して、相手にきめ細かい介護を要求したくなる。これもまた、サディズムである。
こんな関係を続けていても、いいことはないだろう。誰もきめ細かい介護など要求する権利はないのであり、介護される側がそういうたしなみを持つことによって、介護する側のきめ細かい介護をしようとするモチベーションも上がるのだろう。
また介護する側だって、介護してやっているなどという気持ちは捨てて、介護せずにいられない気持ちになれるものならなりたいだろう。人間は、根源的にはそういう気持ちを持っている。
介護してやっているとか、介護をされる権利があるなんて、割礼の衝動であり、サディズムなのだ。
人類の歴史で「割礼」が発生し習俗化し、やがて消えていったことは、そうした「割礼=サディズム」を克服してゆくことが人類の背負っている課題であることを意味している。そうしてその衝動が今なおかたちを変えて存続しているということは、われわれは永遠にその課題を背負い続けてゆく生き物だということかもしれない。
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   3・完結のしるし
われわれは、この制度的な「割礼」というサディズムを、できるだけ広義に解釈する必要がある。
そしてこのサディズムは、必ず歴史の時間によって濾過されてゆく。
そういう法則を考えるなら、「介護される権利」を主張する現代社会の風潮も、いずれは減衰してゆくにちがいない。
介護される権利を主張するよりも、介護されなくても生ききる人生が模索されている。だからわれわれは、すぐに介護施設に入るのではなく、介護士を家に呼んでひとまずの不自由を補ってもらうことからはじめ、できることなら家で死んでゆきたいと願っている。
上野氏は、「家族介護」は自然でも必然でもないといわれるが、介護士を家に呼ぶことだって「家族介護」なのだ。誰もが、できることなら「家族介護」ですませたがっている。施設に入るのは、最後の手段だろう。
家族が素晴らしいからではない。人間は、生きにくい生を生きるための「しるし=割礼」を必要としている。われわれが家族という制度から生きはじめるのは、ひとつの「割礼」である。まずそこに閉じ込められ、鬱陶しい人間関係をやりくりして成長してゆかねばならない。
人間は、鬱陶しい人間関係をやりくりして生きていたいのだ。
家族とは、そういう閉じ込められた「完結」した空間である。その完結性を実感して、はじめて人は死んでゆける。
「いまここ」でこの生もこの世界も完結している……「THE END」……そう実感して人は死んでゆくのだろうし、もうすぐ死んでゆく老人なら誰だってそういう境地になりたいだろう。
天国や極楽浄土をイメージしている大陸の人たちと違って、死んだら何もない「黄泉の国」に行くという歴史的無意識を抱えている日本列島の住民は、この生やこの世界の「完結性」に対する意識がことのほか切実である。
上野氏は、<世の介護施設や介護サービスの宣伝文句に「家族的」という言葉を使うのは間違っている>といっておられるが、そのときの「家族的」とはつまり、「そこではこの生もこの世界も完結しているという実感が得られる」ということであり、家族よりももっと家族的だといっているのである。
日本人が「家族的」という言葉を使いたがるのは、日本人の死生観の問題なのだ。べつに家族がいちばん素晴らしいといっているのではない。現実の自分の家族よりももっと家族らしい介護施設に逃げてくる老人だってたくさんいる。
人間は、この生やこの世界が完結していることの「割礼=しるし」を持とうとする。西洋人はそれを「天国のような」というし、日本人は「家族的」という。それだけのことさ。
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   4・割礼は現代社会でもなされている
「介護される権利」というなら、その人間を介護しやすいように手術してつくり替えてしまってもいい、という理屈だって生まれてくる。
アメリカでは、ある6歳の先天的な障害児の少女が、大人になれば本人は今以上に生きるためのさまざまな困難を抱え込まねばならなくなり介護もしきれなくなるという理由で、子供のままでいるための手術を徹底的に施された。それが彼女の「介護される権利」を十全に保障する最良の方法だ、と医師はいう。
まさに「割礼」というサディスティックな行為である。こういう話を聞くと、アメリカ人というのはほんとにただの野蛮人だな、と思ってしまう。いやもちろん、アメリカ国内でも賛否両論らしいのだが、それにしてもアメリカ人の正義は怖い。
アメリカ人は、とてもサディスティックな民族である。ここからアメリカ社会のダイナミズムが生まれてくるのだろうが、だから殺人やレイプなどの犯罪も後を絶たない。
そしてこの手術にはビル・ゲイツの財団も一枚かんでいるのだとか。なるほどアメリカ社会は、サディスティックな人間ほど出世して金持ちになる仕組みになっているらしい。いやまあ、世界中のどこの社会でもそうかもしれないが、アメリカはとくにダイナミックだ。
一部のアメリカ人は、正義の名のもとにそういうことを平気でする。それは、果たして正義か。イスラム教徒は戦争してやっつけてしまわないといけない、というのと同じ論理だ。
しかし人間が生きにくさを生きる生き物なら、その6歳の障害児の少女が、大人になってさまざまな困難を抱え込まなくてはならなくなることも、うまく介護をしきれなくなることも、それはもうしょうがないことであり、それこそが生きにくさを生きようとする人間の自然であろう。
だいたい、人間がそんなことをしてもいいのか。正義であれば、何をしてもいいのか。何をしてもいい、と答えるんだろうね。
徘徊老人は、徘徊しないように脳手術をしてしまってもよいのか。それはたぶん、現在の医療の水準からいって、決して不可能なことではないだろう。そうして、いったんそれが正義になれば、いろんな「割礼」の手術や虐待や戦争が正当化されてゆくことになるだろう。
人間が「割礼」の本能を持っていることはそれほどやっかいなことであり、アメリカでそんな手術がなされたように、それは介護の問題と決して無縁ではない。この国でも、介護のために縄で縛っておいたり、狭い部屋に閉じ込めておいたりということが今でもまったくないというわけではない。
しかし、歴史のなりゆきとして、割礼はいつかかならず解消される。すぐまたべつの割礼=サディズムが生まれてくるとしても。
僕はその6歳の障害児の少女に施した手術がアメリカ中で賛同されることはないだろうと思うし、アメリカ人が本気でそんなサディスティックなことばかりやっていたら、いつかきっと世界から孤立してしまうにちがいない。
世界はもう、その手の割礼は卒業しつつある。介護をされる権利も介護をする義務も存在しないことにわれわれは気づきはじめている。
ただもう、人間の本能として介護せずにいられない衝動が存在するだけなのだ。それ以外にこの世に介護という行為が存在する根拠など何もない。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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