「ケアの社会学」を読む・15・この世のもっとも弱いもの

   1・上野千鶴子氏のフェミニズムと障害児(者)介護
これは介護の現場の部外者によるたんなる読書感想文であって、著者に対抗して社会学的なアプローチをしているつもりはさらさらないし、そんな能力も僕にはない。
ただ単純に、人間に対する興味で書いている。
だからこそ、実際に介護の当事者として生きている人たちの傷つきやすい神経を逆なでするようなことは書くまいと心しているつもりだが、何しろ大雑把で感情的に行きあたりばったりに書いているだけだから、いろいろ癇に障る人もいるかもしれない。それもまた、ひとまず勘定に入れている。そういう人たちから見捨てられたり軽蔑されたりすることはもう、しょうがない。
少なくとも、上野氏に追随している人たちからは、きっとごみくず扱いされているのだろう。
しかし上野氏のふだんの言説が、たとえば障害児を抱えた女性たちの神経をどれほど逆なでしていることかという現実もあるのだ。氏は、介護をされる権利を声高に主張する障害者と結託することには熱心だが、介護をする義務を必要以上に強いられ追いつめられている障害児(者)の母親たちには、じつに冷淡だ。上野氏たちが「市民社会」の正義を振り回して「介護をされる権利」ばかり主張していれば、そりゃあ障害児(者)の家族のものたちは追いつめられるに決まっている。
上野氏に率いられたフェミニストたちは、徹底的に「女の権利」を主張してゆく。しかし障害児を抱えた母親たちは、そうした「権利」を主張することを社会から封殺され、ひたすら障害児をを生んでしまったことの「罪」と「義務」を背負わされて生きている。そのような女性たちと連帯する論理は、上野氏の薄っぺらな脳みそでは組み立てられないし、彼女自身、自分を見せびらかし主張すること以外に興味がないらしい。自分を見せびらかし主張したがる人間とばかり連帯しようとする。
障害児は、「介護される権利」を誰よりも持っている存在なのか。母親はもう、その「権利」にひれ伏して自分の人生を捨てなければならないのか。上野氏は、暗に「捨てろ」と言っているのである。「そんなつもりはない」といっても、氏の語る介護の論理は、必然的に彼女らをそういう場所に追いつめている。
まあ、確信犯で、障害児を産んでしまった女なんかそれが自業自得だ、といえるのならそれはそれでたいしたものだが、正義づらして彼女らをそういうところに追いつめていることにまったく無自覚のまま正義ぶっているその頭の悪さが、われわれにとっては目ざわりなのだ。
ほんとに女の味方だというのなら、そういうこの社会でいちばん追いつめられている女性たちと連帯できる論理こそ提出してみせるべきだろう。
フェミニズムなんて、田舎っぺのブスが寄ってたかって「女の権利」を大合唱しているだけの運動なのか。笑わせてくれる。
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   2・女であることはハンディキャップか
この世の中には、いっさいの権利を剥奪された弱い立場の人はいくらでもいるし、一切の権利を主張することなく裸一貫の人間として男社会で勝負している女だっている。
男社会であることの女のハンデキャップなんか、田舎っぺのブスはなかなか都会のいい男にはもてないのと同じハンディキャップであり、田舎っぺのブスだって都会のいい男と付き合う権利があると主張しても、そうはいかないだろう。「権利の主張」なんかいっさい呑みこんで裸一貫の女として勝負するしかないのだ。
たとえ「家父長制」の家だろうとじゅうぶんに教育を受けられる家庭に育った上野氏に対して、無学で貧乏な両親の家に生まれ育った男が東大に入ろうと思ったら、おおいにハンデキャップになるだろう。
僕はもともとこの世の「男社会」に参画する意欲も能力もないまま生きてきたから、「家父長制」とか「フェミニズム」といわれてもピンとこないんだよね。
人間のハンディキャップなんか、女であることだけではすまないし、女であることよりももっと大きなハンディキャップはいくらでもある。ハンディキャップがあったらいけないなどという論理は、人間性の普遍の問題として成り立たない。
ただもう、ハンディキャップを意識して人生の元を取ろうとするスケベったらしい女がこの世の中にはうじゃうじゃいるらしい、というだけのことだ。
人間は、自分のハンディキャップを自分の運命として受け入れ、そこから生きはじめる。おまえがブスの田舎っぺであるというハンディキャップを克服したとでも思っているのか。それはもう自分の運命だ、と受け入れている女の方が、おまえなんかよりずっと魅力的だし、おまえよりもずっと人間の真実に触れる機会や能力を持っている。
つまり、フラットな立場で競争する権利なんか誰にもないし、障害者として生まれてきたことのハンディキャップに比べたら、女であることのハンディキャップなんか、屁みたいなものだ。
女であることのアドバンテージだってあるだろう。人生は、社会的なポジションがすべてではない。
上野氏は、自分の社会的ポジションに自分のアイデンティティがあるつもりであるらしいが、僕からしたら下品で目障りな田舎っぺのブスだ、という以上の印象はない。僕は、男だろうと女だろうと、いい男かどうか、いい女かどうか、ということが真っ先に気になってしまう。つまり、社会的なポジションを離れた裸一貫の人間として見ることしか、ようしない。
東大教授だというのなら、頭がいいか悪いか、知的なセンスがあるかないかが気になる。しかし上野さん、あなたなんか、頭悪いしセンスもぜんぜん見るべきところがないじゃないか。
「家父長制」がどうの「ジェンダー」がどうのと騒ぐこと自体、女であることを武器にして生きている証拠じゃないか。
とにかく、ひとりのフェミニストとして「介護」について語るのなら、障害児の母親の共感を得られないのなら、何をいってもダメさ。老人介護を語っても、障害児の母と子の問題と乖離してしまっているのなら、普遍的な説得力を持てるはずがない。
ジェンダー」に関する介護についてのもっともラディカル(根源的)な問題は、さしあたって障害児の母と子のところにあるにちがいない。
いや僕は、「ジェンダー」などという概念というか言葉にはあまり興味はないのだが。
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   3・天国があるのなら、何も介護してやる必要はない
上野氏のいう介護社会のあるべきかたちとは、「介護を受ける権利が十全に保証されていること」らしい。まあこれから介護される身になるかもしれない介護老人予備軍としては先手を打ってそういう社会にしておきたいのだろうが、生きられないのなら死ぬしかないのがわれわれの運命であり、根源的には介護をされる権利も介護をしなければならない義務もないのだ。
ただもう、人間社会は「この世のもっとも弱いもの」を介護せずにいられない衝動を持っている、ということの上に介護が成り立っているだけなのだ。
もうすぐ死んでしまうとわかっていても、まわりは、けんめいに「生きていてくれ」と願ってしまう。それは、人間は根源的には未来を勘定に入れないで生きているからだろう。わかっていても、その未来が受け入れられない。「死」が受け入れられないのではなく、「未来」が受け入れられないのだ。
西洋人のように天国での幸せが待っていると信じられるのならさっさと死なせてやればいいだけだが、それでも「生きていてくれ」と願ってしまう。これは、明らかに矛盾である。
日本列島でも、仏教とともに極楽浄土という概念が入ってきて、中世の民衆たちから、だったらこんなしんどい現世などさっさと捨てて極楽浄土に旅立ってゆく方がずっといいではないか、という声が湧きあがってきた。そしてこの問題に決定的な答えを出せた宗教家はひとりもいない。出せるはずがない。最初から人間の本性と矛盾しているのだもの。
死んだあとのことなんか誰もわからない。僕がいいたいのはつまり、それでもわれわれは心の底のどこかしらで「この生には過去も未来もない。<いまここ>があるだけだ」と思っている、ということだ。
僕は、死んだあとの世界がどうなっているかというようなことにはあまり興味がない。ただもう、人の心の動き方の根源的なかたちが気になるだけだ。
死んでしまえば、生まれてこなかったのと同じだ。そういう思いは、じつは誰の中にもある。それを、観念的な操作であれこれ理屈をこねてごまかしているだけだ。
過ぎてしまった過去は、なかったと同じだ。
たしかに実感できるのは、「いまここ」に生きてあるということだけだ。
「いまここ」に世界や他者が存在することだけはたしかなことのように感じられる。
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   4・身体は「非存在の空間の輪郭」である
では、自分の存在もたしかに感じられるかといえば、そうではない。
われわれはふだん、みずからの身体を「非存在の空間の輪郭」として自覚しているだけで、肉や内臓や骨の実在感は、痛いとか暑い寒いとか空腹だとかの身体の危機的な状態で実感しているだけである。
じっとしていれば、身体の物性が意識されてくる。しかし体を動かしているときは、身体の物性は忘れ、身体は「非存在の空間の輪郭」になっている。われわれは、「肉体」としての身体を動かしているのではない、「非存在の空間の輪郭」としての身体を動かしているだけだ。そして生き物の生き物たるゆえんが体が動くことにあるのだとすれば、われわれは体が動いているときに生きてあることを実感していることになる。つまり、身体を「非存在の空間の輪郭」として扱っているときにこそ生きた心地を感じている。
みずからの存在を忘れているときこそ、生きているときなのだ。みずからの存在を忘れるほど、生きた心地が確かになる。したがって、われわれは、みずからの存在を確かに認識することができない。痛いとか暑い寒いとか空腹だとか、みずからの存在を認識する体験をしつつ、それを忘れてしまう方向でこの生を紡いでいる。
しかし、世界や他者は、無条件で確かに存在していると感じている。
意識にとって確かな「いまここ」は、世界や他者が存在する「いまここ」なのだ。そのようにしてわれわれは、生きてある「いまここ」を体験している。
生きてある心地は、自分が存在することの実感にあるのではない。
他者が生きてあることによって、はじめてこの意識がいきいきとはたらく。
だから人は、「この世のもっとも弱いもの」としての他者の介護に向かう。「この世のもっとも弱いもの」が生きてあることほどたしかな存在を感じさせてくれる対象もない。
他者が存在することに対する驚きとときめきは、そこにこそある。意識は、それによって「いまここ」を実感する。
われわれ、「いまここ」でしかこの生を実感できない。そして、世界や他者の存在によってしか「いまここ」を実感できない。
他者を感じることは、自分が消えてゆく感覚でもある。消えてゆくのは、存在するものだからだ。消えてゆくことによって、存在を感じる。
意識は、消えてゆくものに存在を感じる。だから人は、消えてゆきそうな「この世のもっとも弱いもの」を介護しようとする。
だから、死にそうなものに対して「生きていてくれ」と願わずにいられなくなる。
人は、身体意識として、みずからの身体存在が「消えてゆく」ということを体験しながら生きている。そして消えてゆくときにこそ存在を確かめているのであれば、「消えてゆく」ということは、「消えてなくなる」ことではなく、「別の世界」に移ってゆくことである。
人間は「別世界」のイメージを持っている。人間が「別世界」としての「死後の世界」をイメージするのは、身体の物性が消えて「非存在の空間の輪郭」になってゆく感覚が基礎になっている。
つまり、そのようにして「この世のもっとも弱いもの」である赤ん坊や障害者や老人が「神の子」や「神の使い」になり、死者が神や仏になる。
意識は、「消えてゆく」ときに存在を感じる……これが基本であり、だから人は「この世のもっとも弱いもの」を介護せずにいられない。
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   5・もっとも神に近い存在としての弱者
介護の根源は、人間は「この世のもっとも弱いもの」を「神にもっとも近い存在」として認識し献身してゆこうとする衝動を持っている、ということにある。
だからこそ、「介護される権利」などというものは存在しないのだ。田舎っぺのブスが「女の権利」を主張するのと同じ調子で「介護される権利」などとほざいても、誰が同意できるものか。
だからこそ「介護してくれ」とか「介護しろ」と要求する必要など存在しない。この社会の老人がそれを要求しないからといって、どうして上野氏ごときにけちをつけられねばならないのか。
人間社会は、構造的歴史的に、「この世のもっとも弱いもの」が「介護される権利」の意識を持つようにはなっていない。なぜなら、社会の方が先に介護(献身)せずにいられない衝動をたぎらせているからだ。
それは、上野氏のいうような昨日今日の「家父長制」の問題ではない。人間存在の根源の問題として、「消えてゆく」ことが生きた心地や快楽の源泉だからだ。
「介護をされる権利」とか「介護をする義務」とか、そうやって「強いものが弱いものを助ける」という上から目線の傲慢な意識で結束しようとしている「市民社会」がそんなに素晴らしいか。
そういう「市民社会」という概念ではもはやうまく立ちゆかなくなってきているのが、現在の世界の状況ではないのか。
それでもなお「市民社会」という概念にしがみつく上野氏や内田樹先生やもろもろの「勝ち組」の言説に追随している人たちがまだまだたくさんいるらしい。
上野氏も内田先生も、ようするに人間に対する視線がチャーミングじゃないんだよね。もちろん、人間の根源に迫ろうとする思考も、ぜんぜん薄っぺらだ。どうしたらこんなアホのいうことに感心できるのか、教えていただきたいものだ。
人間が根源において尊敬しているのは、「この世のもっとも弱いもの」であって、「勝ち組」であるビル・ゲイツや大統領や上野千鶴子内田樹ではない。
たとえば、能において「翁」という存在が重要なテーマのひとつになっていたのは、彼らが長く生きていろんな人生の知恵を持っているからではなく、もうすぐ死んでしまう「この世のもっとも弱いもの」すなわち「もっとも神に近い存在」だったからだ。中世においては、それほど「死」が切実な問題だったのであり、それほど「死」が身近なものとして意識されていた。
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   6・「いまここ」で消えてゆくということ
「命」とは、次の瞬間に消えてなくなるかもしれない可能性の上にはたらいているものだ。死を身近なものとして意識するとは、そういうこの命の「現在性」を深く意識することであり、深く意識すれば、日常の「消えてゆく」身体意識も豊かにはたらき、豊かにカタルシス=快楽を汲み上げることができる。
「消えてゆく」身体意識は、「この世のもっとも弱いもの」と一緒に生きるところで、より深く汲み上げられる。だから人は、「この世のもっとも弱いもの」を「もっとも神に近い存在」として意識する。そしてそれは、根源的には、明日も生きてあるという未来など勘定に入れないで生きているということだ。
この社会の制度性によって未来を勘定に入れて生きる観念性を誰もが避けがたく持ってしまっているが、人間性の根源においては未来という時間などないのだ。
快楽とは「いまここ」で消えてゆくことであり、そこにこそ「生きた心地」も「存在の実感」もある。「いまここ」で消えてゆくのが、生きるいとなみなのだ。だから人間は、死にそうな人を前にすると、存在の根拠を揺さぶられ、介護=献身せずにいられなくなる。
人が介護をすることは、倫理の問題でも権利や義務の問題でもない。献身とは、「いまここ」で消えようとする衝動である。消えてゆくときにこそ、生きてあることが深く実感される。そうしてみずからの身体存在が消えてゆく感覚は、他者の存在をたしかに感じることによって体験されるし、消えてゆく(死んでゆく)人ほどたしかに存在を感じさせる他者もいない。
そのようにして人と人はつながって存在している。介護の問題を考えることは、人と人のつながりの根源について考えることでもある。
人と人は、権利や義務を合意しながらつながってゆくのではない。先験的につながってこの世界の中に置かれてある。
今われわれは、どこでどのようにつながっているのだろうか。それを考えることが、「時代」について考えることではないだろうか。
つまり僕は今、「介護」という問題を通じて人間の歴史についての基礎的なことを考えたいのであって、現実社会の介護の技術的専門的な問題に口を挟もうというつもりはさらさらない。
とはいえ、上野シンパの人は、どうか抗議反論してきていただきたい。何はさておいても、人の身になってものを考える能力のない田舎っぺのブスがただ目立ちたい一心でいい気になってのさばっている景色は、とても目ざわりなのだ。
正直言って、のさばる方も変だが、その態度にあっさりとしてやられている方だってどうかしている。そういう時代だからではない。そういう時代が終わろうとしているから、焦って大騒ぎしているのだろう。
なんといっても彼らは、「新しい社会を構想する」とかなんとかいって、未来の時間のことばかり考えている人たちだから。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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