「ケアの社会学」を読む・16・フェルメールの絵について

フェルメールの絵の特徴は、「静けさ」と「光」にあるらしい。そこが見る人を感動させる、といわれている。
まあ、そうだろう。しかしそんなことをいまさら僕が書いてもしょうがないし、そもそも書く能力もない。
じゃあなぜ書こうとしているのかといえば、介護のこととちょっとつながっている問題が潜んでいるように思えるからだ。
僕は、フェルメールの絵を解説した本など1冊も読んだことがないし、読みたいという興味もない。だから、これから書こうとしていることはすでにどこかで書かれている可能性もあるのだが、とにかく知らないのだから、どこかの本を真似しているような書きざまになったとしても、どうかご容赦願いたい。
フェルメールが生きた17世紀は、「バロック」の時代といわれている。バロックとは「ゆがんだ真珠」という意味、つまり、新奇なものや型破りなものがもてはやされた時代だった、ということだ。
日本列島でいえば、織田信長豊臣秀吉古田織部千利休などが登場してきた安土桃山時代に当たるのだろうか。
しかしそのわりにフェルメールの絵は、端正で静かだ。
では彼が時代に逆らって保守的だったかというと、そうではない。
まず、この時代の商売になる絵は、宗教画か肖像画か風俗画、と決まっていた。風俗画は新しいバロック的なジャンルで、たとえば酒場で人々が談笑している絵とか、この時代の先進国だったオランダではとくに盛んだったらしい。
ところがフェルメールの円熟期の作品は、それらのどのジャンルにも当てはまらないまったく新しい、まるで現代の写真みたいなモチーフが多い。
技量が卓越した大家だったから許されたのだろうか。
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ここでは、『牛乳を注ぐ女』というタイトルのフェルメールの最高傑作のひとつについて語りたいのだが、僕はこの絵をこのページに貼り付ける技術を持っていないから、どうか別のサイトで見つけて参考にしていただきたい。
この絵に描かれた黄色い服を着た女は、彼の家の女中らしい。その女が、部屋の隅で、横からの窓の光を浴びながら、テーブルの上の土鍋にミルクポットの牛乳を注いでいる場面を描いている。
これは、肖像画のようで肖像画ではないし、風俗画のようで風俗画ではない。肖像画のようにポーズをとってこちらを見ている絵ではない。まるでスナップ写真のように一場面を切り取るように描かれた絵だ。写真はまだ発明されていない。
たしかにこの絵には、フェルメールしか表現できない独特の胸にしみるような「静けさ」と「光」がみごとに表現されている。
しかし、僕がここでいいたいのは、そういうことではない。
フェルメールが「バロック」の画家だった証明はどこにあるかといえば、「嘘」を描くのが平気な画家だったことにある、と僕は思っている。
いかにも手堅い技法で目の前のものをそのまま描いているようなふりをして、じつは少しも忠実じゃない。よくこんな「嘘」がかけるものだというくらい、平気で現実を歪曲してしまっている。まさに「ゆがんだ真珠」だ。そして歪んでいても真珠は真珠で、じつは当たり前の真珠よりもずっと美しい。そこが、すごい。
まあ、どの絵の中にもかならず絵の品格や美しさを高めるための「効果的な嘘」がいくつか描かれてあるのだが、この絵はもう嘘だらけだ。
この絵のいちばんの劇的な輝きを持っているのは、女の背後の白く塗られた壁というか空間の表現だろう。壁というよりは、光り輝く空間、という印象である。
この劇的な効果は、どのようにもたされたか。
「嘘」によってもたらされた。
女のまわりのものを、ことごとく勝手に描き変えてしまっている。
まず、右下に床が描かれてある。しかし、この構図で、床が見えるはずはないのである。
どう見ても女は、後ろの壁のすぐ前に立っているはずである。そしたら、女の身長は、絵に描かれたスカートの裾がそのまま足の先でなければならない。
この絵は、スカートを全部描いてあるのか。そうじゃないだろう。だいたいモデルそのものが、たくましくて大柄なオランダ女そのものではないか。
たぶん、絵のいちばん下のスカートの部分は、女の膝くらいだろう。その女が壁のすぐ前に立っているのだから、床なんか見えるはずがないのだ。
その床には、いかにも「ここは床ですよ」といわんばかりにコーヒーミルのようなもの(じつは足を温める道具らしい)が置かれてある。
試しに、この床の箱を指先で隠して全体を見てみればいい。そうすれば、下の茶色の部分だって後ろの壁の延長に見えてくるはずだ。そうでなければおかしいのだもの、われわれの視覚は、当然のようにそう認識してしまう。
しかしこの「嘘」の床が描かれてあることによって、室内空間を実際よりも広く感じさせている。壁のすぐ前に立っているという窮屈な感じがしない。
もしもその箱を家に見立て壁の裾の緑の部分を山だとするなら、その上の白い部分は空のようにも見えてくる。なんだかそういう広々とした不思議な「空間」を感じさせる白である。
だいたい、この薄汚れた台所のような部屋の壁が真っ白だということも「嘘」である。
影の部分の壁は、古くて薄汚れているようにちゃんと質感が描かれてある。当時としては、これは常識破りの描き方だったはずである。ほかの部分は常識通りに光があたっている部分で質感を表現し影のところはぼかして描いているのに、壁だけは逆に、影の部分をリアルに描いている。
これは、写真の技法である。写真なら、焼き付けの技術やピントの合わせ方などで影の部分にリアルな質感が出て、光の当たっている部分がハレーションを起こして真っ白になってしまう画面をつくれるが、普通は明るい部分こそしみやでこぼこが見えているはずだ。フェルメールは、写真のない時代に、すでにそういう効果をイメージしていた。
こんな締め切った小窓から入ってくる光だけで、古ぼけて薄汚れた壁がハレーションを起こしたように真っ白になってしまうことなどあり得ない。だから、女に壁よりももっと白いキャップをかぶらせることによって、壁の白さの不自然さを消している。
しかしまあ、それらの「嘘」によって、女がまるで屋外の広々とした空の下にいるような雰囲気が漂っている。たしかに屋内にはちがいないのだけれど、何か不思議な空気感が漂っている。
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これ以上「嘘」をあげつらっても蛇足かもしれないが、いちおうもう少し書いておくことにする。
この絵の画家の目の高さは、女の額と同じところにある。下から見上げていたら、女の顔が真正面に見えてしまうし、首も見えていないといけない。そして肩の位置も、下から見上げている角度ではない。
なのに、女がミルクを注いでいるポットだけは、下から見上げている視点で描かれてあるのだ。
もしも上から見下ろしているのなら、ポットの中のミルクも見えていないとおかしい。わざわざポットの大きなまるい口をこちらに向けているのである。下から見上げていないかぎり、こぼれ出ているミルクだけが見えるというようなことはあり得ない。
しかし、それによって、われわれの視線は否応なくこぼれ出ているミルクだけにそそがれ、そのゆっくりと少しずつこぼれ出ているミルクの動きまで感じてしまう。そうして、ミルクの流れに意識を集中させている女の緊張感とか、仕事に対するひたむきな誠実さまで伝わってくるような気がする。
さらに、ミルクが注がれている土鍋が、また変だ。
まず、テーブルの前の端が、真横に描かれている。テーブルは、後ろが壁から離れた斜めのかたちに置かれてあるのだから、前の端は少し左上がりに描くのがふつうである。そのためによく見ると、左側が少し低いようにも見えるのだが、画家の技術でぎりぎりごまかしている。構図のバランスを整えるためだろうか。
それはまあいい。しかしそのテーブルが長方形なら、土鍋が乗っている後ろの隅も真横になるはずである。前にパンなどが置かれてあるからその横の線は見えないのだが、女のスカートの前の右端の角だけは見えているから、そこからまっすぐ横に伸びた線を想像すれば、土鍋はテーブルからはみ出してしまうのである。しかし女のスカートはぴったりテーブルの端にくっついているのだから、その向こうにもう一つ補助的なテーブルが置かれてあることは考えられない。
この土鍋は、テーブルからはみ出して宙に浮いているのだ。それを、いかにもテーブルの上に置かれてあるように見せかけている。
一部の評論家なら、テーブルの前に置かれたパンに、宗教的にか生活習慣的にかなんらかの意味付けをするのだろうが、たぶんフェルメールは、そんな「意味」に興味はなかった。ただもう、後ろの土鍋がほんとうは宙に浮いてるのに浮いていないように見せかけるための目くらましとして置いただけかもしれない。
そしてそのパンの表面が光を反射してキラキラしているような表現が、なんと美しいことか。そのパンだけでもひとつの静物画になっている。そうやって鑑賞者の目をパンに惹きつけておいて、土鍋の位置の危うさを詮索させまいとしている。
しかし実際にミルクが注がれているのだから土鍋を見ないということはない。どうしても見てしまう。そしてわれわれは、無意識のところで、危うい置かれ方がしてあることに対する緊張感を感じてしまっている。これもまあ、ミルクが注がれてある「いまここ」のこの瞬間の緊張感という劇的効果を演出するしかけなのだろう。
静謐でしみじみとした緊張感、とでもいうのだろうか。そういう雰囲気がみごとに醸し出されている。
フェルメールの絵は、人を「いまここ」に立ちつくさせる。
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「嘘」はまだある。
左上の窓の桟の角度だって変だ。画家の視点の高さが女の額にあるのだとしたら、ぜんぶの桟が上を向いているのは、遠近法としておかしい。下の方は女の額より低いのに、窓全体が下から見上げているように描かれてある。しかし、これもまた空間の広がりをつくりだすための仕掛けだろう。
テーブルの前の右端は、壁にぴったりくっついている。遠近法でいうなら、その右端と同じ位置に描かれた窓の前の部分があるはずだ。したがってこのテーブルは、じつは後ろの壁まで届いていて、そのあいだに女が立つことのできるスペースなどないことになる。
それでも女はそこに立っている。
ためしに、女が描かれてある部分ふさいでこの部屋を眺めてみればいい。そしたらテーブルは後ろの壁まで届いて、ここがものすごく狭苦しい部屋の隅だということがわかる。
その狭苦しい部屋の隅を広々とした空間にして見せるマジックに画家はトライしてゆき、われわれはまんまと騙されている。
この構図なら女は窓枠の向こう側よりももっと後ろに立っているはずなのに、窓枠は女から遠く離れて女よりも後ろにあるかのような錯覚を抱かされる。
女は、部屋の隅の壁のすぐ前に立っているどころか立つスペースすらないはずなのに、そういう窮屈な感じがまるでなくて、なんだか異次元の広々した空間の中に立っているようにも見えてくる。
ここはもう「別世界」だ。空間のゆがみ……まさに「バロック」という「ゆがんだ真珠」である。
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「嘘=虚構」を重ねてゆくことによって、異次元の空間を現出させる。まさにバロックの精神である。
そして、こんな摩訶不思議な仕掛けをすぐに思いつけるはずがない。この絵は、フェルメールにしてはかなり厚塗りである。それがどうしてなのかということが長いあいだの僕の疑問だったのだが、たぶん、何度も描き直したり描き加えたりした結果なのだろう。
おそらく女の背後の白い部分は、最初は壁のしみやでこぼこが描かれてあったのだろう。それを、最後の最後にハレーションが起きているかのように白く塗りつぶしてしまった。そうして、わざとらしく女に壁よりも白いキャップをかぶらせた。
また、この「嘘=虚構」は、映画の技法を先取りした表現でもある。
たとえば、画面よりも大きな風景写真のパネルの前で食事をしていれば、たとえ屋内でも、屋外で食事をしているシーンになる。こういう「嘘=虚構」を、フェルメールは、映画の誕生より300年も前にすでに実験していたのだ。
異次元の空間とはつまり、「別世界」ということだ。
この絵における女の背後の壁の白さは、「別世界」の白である。われわれの心は、この白さを前にして、異次元の世界に引きずり込まれている。フェルメールの絵の「静けさ」は、たぶんそういう「静けさ」でもあるのだ。
何もかも判で押したような「日常」そのものの世界が描かれているのに、われわれはみごとに「非日常=異次元の空間」の世界に引きずり込まれている。
単純に、「この絵には日常の暮らしに対するいとおしさが満ち溢れている」などといっていられないのである。フェルメールは、「日常」そのものに「非日常」という異次元空間を見てしまった。
これは、「つつましく善良な市民の視線」ではない、「鬼の視線」なのだ。
ただの生命賛歌などではない。この世に存在してあることに対する「違和感」に怒り苦しんでいる人間の視線なのだ。
晩年のフェルメールは、貧乏だったのではない。ひとまず巨匠ではあったが、子供が10人もいて、日常の雑事に追われる日々だったのだとか。それでもというかだからこそというか、自分が今ここに生きてあるということの「違和感」がぬぐえなかった。だから、「いまここ」を「嘘」にしてしまう絵に熱中していった。
われわれがこの世に生まれてきたことは、「何かの間違い」なのだ。フェルメールの絵の「静けさ」は、そういうことを教えてくれている。おそらく彼はそういうことに怒り苦しんだ人であり、それこそが「バロック精神」だったのだろう。
同時代のデカルトという哲学者のように「我あり」という命題に耽溺していったのとは対極の思考態度だともいえる。
デカルトのように、生まれてきてしまったことの間違いをそのようなかたちで収拾してゆくこともそれはそれでバロック的な態度にはちがいなかろうが、フェルメールは絵描きだったせいか、そういう解決には向かわず、あくまで率直に「嘘」に向かった。
現代人は、この「嘘=生まれてきてしまったことの間違い」が受け入れられない。しかし、率直に考えてそれはもうそうなのだから、受け入れるしかない。受け入れて人は死んでゆくのだろう。「我あり」などということを証明してもらっても、死んでゆく人にとっては屁のツッパリにもならない。われわれはどうしてこんな無益でいかがわしい「我あり」などという命題に執着してしまうのだろう、ということの方がずっと大問題だ。
フェルメールは、その「我あり」という命題に抗(あがら)ってみせてくれた。その「かなしみ」もまた、この絵の「静けさ」かもしれない。デカルトデリダドゥルーズみたいな尻軽で俗物のフランスの哲学者とはわけが違うのだ。
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で、このことと現在の介護の問題とどう関係しているかといえば、われわれもまたフェルメールのように「生まれてきてしまったことは何かの間違いだ」という地平に立って考えなおしてみる必要があるのではないだろうか、ということだ。
なんのかのといっても、「介護」とは「生命倫理」の問題に違いない。どこかの田舎っぺのブスの、幸せな「おひとりさまの老後」を送りたいという欲望の範疇で語れる問題ではないだろう。
たとえば、現代の医療の現場で、生まれたばかりの障害児の子供を間引きしたり子供のうちに去勢手術を施したりするのが行われていることをわれわれはどう考えればいいのか。
生まれてきたことは何かの間違いなのだからそういう処置をしてもいいともいえるし、間違いを受け入れるのが人間なのだから、すべての間違いを受け入れてゆこう、われわれ健常者自身が何かの間違いなのだ、と考えるしかないことかもしれない。
いずれにせよ、われわれのこの生は、「何かの間違い(=嘘)」として成り立っているのであり、じつは誰もがそういうことを心の底で実感しているのだ。だからフェルメールの絵に感動するのだし、無益な間引きや虐待(¬=割礼)の手術をしてしまったりもする。
しかし人間社会に「介護」の衝動がはたらいているということは、現代的な間引きや虐待(=割礼)の行為はその衝動と矛盾することであり、何はともあれ介護とは死にそうな人間をけんめいに生かそうとすることであり、直立二足歩行の開始以来の、そのノウハウと情熱によって人類の文化や文明が発達してきたのだ。
どんなに死にそうな人間でも、ほったらかしにしないのが人間社会なのだ。それは、生命が尊く真実だからではない。嘘っぱちだからこそ、その嘘っぱちを受け入れなければ誰も生きられないし、嘘っぱちの中にこそ生きてあることの深い感動があるからだ。
これが、フェルメールの残した教訓である。
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もしかしたらここで書いたフェルメールのことは、誰かの二番煎じかもしれません。先行文献をご存知の方がおられたら、どうか教えてください。
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