「ケアの社会学』を読む・17・つぶやき

今日は、ツイートします。ツイートにしてはちょいと長めだけど。
最近被災地の仮設住宅を視察した上野千鶴子東大名誉教授のひとこと。
「つらい、つらすぎる」
だってさ。
バカなことをいってんじゃないよ。
この上から目線は、なんなのだ。「かわいそう」といってやれば弱者への共感になるとでも思っているのか。この鈍感なブスが。
仮設住宅だろうと、吹きさらしの体育館の床の上よりはましだろうが。
ホームレスのビニールシートのテント小屋よりはましだろうが。
雨露しのげて布団の上で寝られるのなら、けっこうなことじゃないか。その「けっこう」を「ありがたい」とかみしめている人だっているんだぞ。
その祈るような気持ちに冷水を浴びせるように、「つらい」などとほざいて同情づらつくってみせて何がうれしいのか。
人間は、ふかふかのベッドで桃色の夢を見ながら暮らさないといけないのか。
ただの田舎っぺのブスがセンシブルなシティウーマンを気取って生きることが、そんなに素晴らしいのか。ただグロテスクなだけじゃないか。
仮設住宅で寒さに震えながら老夫婦が抱き合って眠る冬の夜のせつない喜びなんか、おまえには一生かかってもわからないだろう。おまえのその鈍くさい想像力では、どうあがいても届かないだろう。
「つらい、つらすぎる」といっておけば正義の味方になったつもりでいられるなんて、まったく、これ以上ないというほどのステレオタイプなひとこと。救いがたく女として人間としてセンスが垢抜けないんだよ。
「被害者には東北の冬の寒さは苛酷すぎる」だってさ。おまえの優越感のために、何がなんでも彼らをみじめな存在にしてしまいたいのか。
どんなに寒かろうと、3月になれば、春の光を感じて心が温まる日だってある。日本列島の住民だったら、誰だってそんな瞬間を体験するだろう。その噛みしめるような喜びに推参できなくて、どうして「共感」といえるのか。
そして彼らがどんな思いでその春の光に祈りをささげているかということに対して、おまえのその薄っぺらな脳みそでも、少しは思いを馳せてみようとしたって罰は当たるまい。
このブス女は、他人なんか自分が目立つための道具だというくらいにしか思っていない。こういえば、「上野千鶴子はやさしい心の持ち主だ」と評価してくれるとでも思ったのか。おまえだって言葉を扱うことを商売にしているのなら、それがいかに被災者の人たちに残酷な言葉を浴びせかけていることになるかということに気づけよ。
みんな、それぞれが生きてある今ここをかみしめて暮らしているんじゃないか。そのことを祝福する気持ちは、あなたにはないのか。
まあ、ブスでもいいけどさ。少しは人並みの心を持ちなさいよ。
もうすぐ3月11日がやってくる。