「ケアの社会学」を読む・18・ブスのがんばりは怖い

   1・戦後社会の都市への人口流入現象
僕はここまで、「要求だの権利だのと大騒ぎしたがる田舎っぺのブスのがんばりにはうんざりさせられる」と何度も書いてきた。
僕は、差別的な偏見を語っているのだろうか。
田舎っぺのブスはぜんぶそうだといっているのではない。ただ、上野氏がそうやって要求だの権利だのと大騒ぎしたがるのは田舎っぺのブスであることが大きな原因のひとつだろう、と思っているのだ。田舎っぺのブスでも魅力的な女性はいくらでもいるが、田舎っぺのブスはそういうはた迷惑で騒々しい女になってしまう契機を持っている、ということもまた事実だ。
べつにブスが嫌いなわけでもない。騒々しいブスは目ざわりだ、といっているだけだ。上野氏が、ちゃんとまともなことをいっているとはぜんぜん思えない。
まあ、むかしの農村社会にはあまりそんな女はいなかった。むかしの農民にはむやみにそんなことはしないたしなみというかつつしみがあった。だから、やむにやまれず一揆となって爆発することにもなったし、村の誰もが我慢したり牽制し合ったりして生きているから小ずるい百姓根性も生まれてきた。
しかし戦後の市民社会の勃興期には、都市における、我慢しない騒々しい田舎っぺのブスを大量に生み出した。田舎から都市に大量に人口が流入し、田舎っぺが声高に自己主張をはじめた時代だった。まあ、明治以来といってもいいのだが、戦後の数十年はとりわけ過激だった。
われわれ団塊世代は、戦後の左翼的な風潮や日教組などによって、市民としての権利を要求する態度を持てと、子供時代に刷り込まれて育ってきた。上野氏のあの騒々しい態度は、おそらくそうした教育のたまものである。
上野千鶴子内田樹は、目立ちたがりの自己宣伝だけでこの社会にのさばっている文科系知識人の双璧だと僕は思っている。
田舎の人間が都市にやってきて立身出世してゆく、という構図。
とりわけ、東京という都市は、江戸時代以来、つねに田舎から流れてきたものによってつくられてきた。
それでも三代以上続けば、れっきとした都市住民である。その時点ですでに田舎から流れてきたものとは感性が違ってしまっている。三代以上続けば、都市の遊び方暮らし方を知っている。そうやって都市という空間に馴染んで生きている。
しかし田舎から流れてきたばかりのものは、けんめいに都市になじもうとしてゆく。そのなじもうとするがんばりが、都市の姿を少しずつ変えてゆく。
都市住民は、つねに都市にまぎれて生きているだけであり、先導して都市をつくろうとするエネルギーは、つねに田舎からの流れものから生まれてくる。新しく流れてきたものは、新しく参加してゆくために、けんめいに自分を主張する。主張しなければ、はじき出される。
そうして、都市を先導する立場に立ったものから順番に都市住民として迎えられてゆく。
それは、社会的に出世してリーダーになるとか、そういうことだけではない。たとえば、新しい流行の服を最初に着はじめるのは、つねに田舎から流れてきたものであり、そうやって都市の遊びや暮らしに参加しようと自分をアピールしてゆく。
都市住民は、都市の風景にまぎれようとするかのように、少しあとからその服を着はじめる。
都市にやってきた田舎っぺのブスが騒々しく要求だの権利だのと語って都市の言論をリードしてゆくという構図がここにある。上野氏はそうやって反権力のポーズをとりながら、しかしそれ自体が共同体の制度性に依存している態度であり、つまりそうやって都市の暮らしに参加してゆこうとがんばってきたのだ。まあそれは、心理学的にいうなら、子供が親に対して駄々をこねているのと同じなのだが、戦後の「民主主義の市民社会」という概念が横行する風潮は、そんな頑張り根性が旺盛で目立ちたがりの田舎っぺのブスが「権利」だの「要求」だのと大騒ぎしながら(駄々をこねながら)都市でのさばってゆく勢いをいっそう加速させたらしい。
いまどきの「クレーマー」現象だって、そうした駄々をこねたやつが勝ちだという風潮にちがいない。まあ、田舎のおのぼりさんの「旅の恥はかき捨て」という作法だ。
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   2・田舎っぺのブスのがんばり
介護の問題を語り出す以前のころ上野氏が、『女遊び』とか『スカートの下の劇場』というような「下ネタ」をさかんに語っていたのは、男だけの領分だった「猥談」を女の方から発信してゆくということにおいて、ある意味画期的だったのかもしれない。
それは、世の男たちに対して、「おまえらこんなこと知らないだろう」と挑発している。つまり、「おまんこ」というのはこんなものなんだぜ、と彼女自身が女であることを主張して書かれた本なのだ。
なぜなら、田舎っぺのブスは、都会ではなかなか女の範疇に入れてもらえない。そういう飢餓感がそれらの本を書かせ、フェミニズム運動に走らせたらしい。彼女は、けんめいに「女」であることを世間に認めてもらおうとがんばったのだ。
しかも田舎っぺのブスであるらしい彼女の場合は、「都市生活者であること」と「女であること」と、二重に飢餓感を負っていた。
彼女はけんめいに、自分が「都市生活者であること」と「女であること」を主張していった。それが、田舎っぺのブスが都市や都市の恋愛の現場で生き延びる道だった。
しかし「都市生活者の美人」は、「都市生活者であること」も「女であること」も主張しない。すでに「都市生活者であること」も「女であること」も認められているから。それは、彼女が生きてあることの前提であって、目指すべき地平ではない。
都市生活者の美人は、田舎っぺのブスのように権利など要求しないし、自分をアピールすることもしない。すでに都市生活者であり女であるから、すでにそのことに馴染んでしまって、欲しがる必要がない。
つまり、都市生活者の美人であっても田舎っぺのブスであってもいいのだが、「権利を要求しない」という態度が、果たして間違っているといえるだろうか。それは、都会的な洗練の問題であると同時に、人間性の普遍の問題でもある。
われわれは、生まれてきてしまったと事実を丸ごと受け入れるのか、それとも、損をした元を取らないと死んでも死にきれないと思うのか。
ともあれ戦後日本は、日本中が「都市」という「民主主義の市民社会」を目指し、日本中の女が「都市生活の美人」であることを目指した時代であったのかもしれない。それは、「人生の元を取らないと死んでも死にきれない」とがんばる態度だ。で、上野氏は、そういう潮流のアジテーターとして活躍してこられた。
しかし現在のこの国では、日本中で都市化が進行し、都市化することの反省が生まれてきている。
都市化しているからこそ、上野千鶴子とか内田樹という目立ちたがりの知識人がのさばるのだし、都市化しているからこそ、そうした目立ちたがりにうんざりする視線も生まれてきている。
「権利」や「要求」に大騒ぎする「クレーマー」が大量発生しているが、「クレーマー」という言葉が流行語になること自体、その現象にうんざりしている現象でもある。
日本中が都市化してしまえば、とうぜん田舎っぺのがんばりもなくなってゆく。
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   3・「介護される権利」は存在するか
「介護される権利を主張し組織せよ」という上野氏の「クレーム=アジテーション」はそれなりに一定の訴求力を持つにはちがいなかろうが、もはや社会状況的にそんなことばかりいっていられる事態ではないし、そんなことばかりいって騒いでいるのは介護を受ける老人としても都市生活の老人としてもおおいにみっともない、という意識も生まれてきている。
とにかく上野氏や内田先生の「クレーム=アジテーション」は、都市生活者の論理ではなく、都市生活に参入してきた田舎者の主張なんだよね。たしかにわれわれはそういう主張が幅を利かす戦後社会を生きてきたが、そういう主張にうんざりしはじめてもいる。
「介護される権利を主張せよ」という「クレーム=アジテーション」は、「都市生活者の美人」になりたがっている「田舎っぺのブス」の論理であり、それが戦後の「民主主義の市民社会」の姿でもある。
そういう意味で、上野氏が「介護をされる権利を主張し組織せよ」といいたがるのも、それなりに田舎っぺのブスとしての一貫性を貫いている態度だとはいえる。
しかしそれは、根源的な思考ではない。
人間社会に、「介護を受ける権利」も「介護をしなければならない義務」も存在しない。ただ「介護をしようとする衝動」がはたらいているだけである。
介護は、「受けるしかない」ことであって、誰にとってもできることなら避けてすませたい事態であり、積極的に「受けたがる」ことではない。
人間や人間社会が介護をするということの根源を考えるなら、ひとまずそういうことになる。介護の問題は、そこから考えはじめるしかない。
これはつまり、上野氏が男たちに対して「自分が女であることを認めさせる権利」があるわけでもないし、男たちが上野氏のことを「女であると認めなければならない義務」もない、ということだ。
ただもう男たちが勝手に、「いい女だなあ」と思うか「ブスだなあ」と思うだけの話。少なくとも「都市生活者の美人」は、「そんなことはあなたたちが勝手に決めること」と思っている。そして男たちはどうしてもそういうどちらかの感想を抱いてしまうし、美人だと思えばかまいたくなってしまう。
介護だって、これと同じだ。この世に「私を介護せよ」と要求する権利を持った人間なんかひとりもいない。それでも人間や人間社会は、「この世のもっとも弱いもの」を介護せずにいられない衝動を持っている。
これは、男が美人をかまいたくなるのと同じだ。美人には、この世に存在することの危うさと傷ましさがある。
上野氏は、「美人なんかいずれ賞味期限が切れる」と言われたが、その通りだ。しかしだからこそ「滅びてゆくものの危うさと傷ましさ」が漂っているのだ。こういうことを世阿弥は「萎れたるこそ花なり」と「花伝書」でいっている。滅びてゆくものこそ美しい、という思いは、誰の中にもある。
そして、老人や赤ん坊や障害者などの「この世のもっとも弱い」ものたちもまた、放っておけば死んでしまう「滅びてゆくもの」たちなのだ。だから人は、かまいたくならずにいられない。
セックスアピールとは、滅びてゆく気配のことだ。介護の衝動だって、これと別のことではない。
われわれ男が、目の前の女をなんと思うかというようなことを、いちいちフェミニストに指図されるいわれはない。
少なくとも僕は、「男の権利」や「女の義務」を前提にして女を見たことなんかないし、「女の権利」や「男の義務」にも興味はない。ただ、いい女かブサイクな女か、という目で見ているだけだ。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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