「ケアの社会学」を読む19・歴史の問題と社会の構造の問題

   1・制度的な思考
ひとまずこのブログの主たるテーマは、人間の歴史について考えることにある。
どんなモチーフを書こうが、つねにこのテーマが頭にある。
上野千鶴子氏が主張しておられることに対して「ブスの田舎っぺだなあ」と反応してしまうのも、このテーマが頭にあるからだ。
このごろ「田舎っぺのブス」というテーマは、人間の歴史を考える上でとても重要なテーマだと思えてきた。人類の歴史において、いつからこの「田舎っぺのブス」という人種が登場してきたのだろう。
田舎で暮らしているかぎり、「田舎っぺ」でもなんでもない。田舎の人間が都会にやってきて空騒ぎをはじめたときに、「田舎っぺ」という人種になる。
僕だって、上野氏がそれなりに魅力的な人間で興味深いことを語っているのなら、こんな言い方はしない。しかし、とてもじゃないがそのようには思えない上に、フレンチのレストランがどうのとか自分が男にもてまくっているかのようなことばかり騒々しく吹聴し、いかにも都会のいい女であるかのようなポーズを見せびらかしてくるから、「田舎っぺのブスがなにいってやがる」といいたくなってしまう。都会ぶるから、田舎っぺなのだ。
そして、こんな田舎っぺのブスが程度の低いことをわめきながらのさばっているこの社会の構造はいったいどうなっているのだろう、と考えてしまう。
上野氏が主張する「未来の社会を構想する」という思考態度は、この社会の正義であり、この社会の欲望であり、この社会の制度性である。人をたらしこもうと思うのなら、共同体の制度性にべったりしがみついたこの思考態度を持つことだ。これが、人をたらしこむための普遍的な法則である。都会にやってきた田舎者は、この態度を持たなければ人から相手にしてもらえないし、ブスはこの態度を持たなければ男から相手にしてもらえない。だから僕は、上野千鶴子なんて俗物の田舎っぺだなあ、と思う。
「未来の社会を構想する」人間になれば、この社会の制度性=欲望によって自分が認知され、この社会で優位に立てる。田舎っぺの俗物はこのことを本能的に察知し、がんばってゆく。
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   2・ブスの論理
一部の上野氏のようなブスは、美人の基準値をできるだけ低く設定しようとする。そうすればこの世の中にはたくさん美人がいることになるし、それによって自分もがんばれば美人の範疇に入れると構想してゆくことができる。上野氏が「ウーマンリブの活動家の中にも美人はたくさんいた」と言っておられるのはまさにこの論理で、そうそうたくさんの美人がやりたがるような運動ではないはずだけど、ブスの目から見るとそういうことになるらしい。そういうことにしたいらしい。
上野氏にとって「未来の社会を構想する」ことは「自分が美人になって男にちやほやされる未来を構想する」ことだ。
上野氏ひとりだけが勝手に空騒ぎしているだけのことなら、他人がとやかくいえる筋合いではない。しかし、上野氏のそうした発言に一部の多くの人々が賛同し、その賛同の上に上野氏がこの社会でのさばっているのだとしたら、いったいこのようなことが起きる「社会の構造」とはなんなのだろうという疑問が生まれてくる。そうしてそれは、人間の歴史の問題でもあるはずだ。
人間の歴史は、いつから「未来の社会を構想する」ようになってきたのだろうか。
原始人も未来の社会を構想していたのだろうか。
そうではないはずだ。そうではないことを僕は、ネアンデルタール論でさんざん考えてきた。
「未来の社会を構想する」ことは共同体の制度性であり、共同体(国家)の発生ととともに肥大化してきた観念のはたらきなのだ。
上野氏も「マルクス主義フェミニスト」を自認するのなら、このことを少しは考えてみてもよかろう。威勢良く「反権力」のポーズをふりまきながら、そのじつ田舎っぺのブスが共同体の制度性にべったりとしがみついて生きているだけのこと。
まあ団塊世代なんて、ほとんどこんな人種ばかりなんだけどね。
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   3・運命を受け入れられないという病理
この世の中には、上野氏に対しても、内田樹先生に対しても、批判的な感想を抱いている人はたくさんいる。
しかし、自分の生き方やこの社会のあり方についての関心で本を買って読もうという階層の中には、かなり多くの人が両氏の言説に賛同している。その中には、両氏と同じしたたかさを持った人もいれば、ただかんたんにたらしこまれているだけのナイーブな人もいるのだろう。
いずれにせよ、自分に対する強い関心を抱いてしまうことは、現代社会の著しい傾向であり、病理だともいえる。
人に対しても世界に対しても、「出会いのときめき」というのがないんだよね。
自分が大事なら、この社会も自分が生きられるかたちであってほしいと思うし、そういうかたちの社会にしようとがんばる。つまり、未知の人や世界と出会ってときめくということができない。
世界や社会に関心があるといっても、「世界や社会に関心がある自分」に対する関心なのだ。
「未来のあるべき社会像を構想する」といっても、つまりは「自分にとって都合のいい社会像」を構想しているだけのこと。自分が生きられない社会を構想する人間なんかいない。
自分に対する関心が強いからこそ、あるべき社会像を構想することが必要になる。自分が生きられない社会が来てしまったら困るからだ。そういう「未知」に対するときめきのない人間が、未来を構想したがるのだ。
どんな社会が来るかは、誰にもわからない。彼らがどんなにあるべき社会像の実現を叫んでも、歴史はなるようにしかならない。
人間の歴史は、人間の思う通りに動いてきたのではない。「なるようになってきた」だけなのだ。
たとえ自分が生きられない社会が来ようとも、それはもうしょうがないのだ。人間の歴史の「なりゆき」は、誰にも止められない。そのことはもう、誰もが受け入れるしかない。人の心は、そういうみずからの運命を受け入れるようにできているのだ。
障害者として生まれてくることを望んだ人間なんかいない。彼は、人の助けなしには生きられない。自然界は、彼が生きられるようにはできていない。それでも彼は、その運命を受け入れている。だからこそ、まわりは、彼の「介護」をしようとする。
人間は、「未来のあるべき社会像を構想する」存在ではなく、どんな社会が来ようとも、その運命を受け入れることのできる存在なのだ。それが、人間であることの根源のかたちというか人間であることの最後の尊厳でありであり、そういうことを障害者がわれわれに教えてくれている。
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   4・未来のことを知りたがるという病理
「未来のあるべき社会を構想する」のは、むやみに未来のことを知りたがる現代人の病理なのだ。
われわれは、何がなんでも未来も自分が生きられる社会にしておきたくて、ついそういう思考に走る。
上野氏や内田先生は、何がなんでも未来も自分がカリスマでいられる社会にしたくて、「未来のあるべき社会像」を構想しているのだ。それは、口ではどんなきれいごとをいっても「人類にとってのあるべき未来」ではなく、「自分にとってのあるべき未来」なのだ。
どんな未来がやってくるのかということなんかわかるはずがないのに、何がなんでも自分にとっての都合がいい社会になるようにと、この社会をいじくりまわしてゆこうとする。いじくりまわしたってその通りになるはずがないのに、それでもいじくりまわさずにいられない。そういう心の病理を上野氏も内田先生も抱えているのであり、彼らがカリスマあるいはオピニオンリーダーになっているということは、同じ病理を抱えている人がたくさんいる社会であるということを意味する。
ナルシズムというかエゴイズムの強い人間ほど未来の社会を構想したがるし、自分を忘れて世界や他者に反応してゆくことができなくて、世界や他者をいじくって世界や他者の方を自分に反応させようとしてゆく。上野氏や内田先生はそういう倒錯的なくそ厚かましい態度を持っているし、その態度に親近感を抱く人もたくさんいる社会らしい。
そういう時代なのだ。しかしそういう時代であるということは、すでにそういう時代ではなくなりつつある、ということでもある。
だからお二人は、そうさせてはなるものかとしゃかりきになってがんばる。彼らが妙に「反逆者」のポーズをとりたがるわけも、そういうところにある。彼らは、未来の来るべき時代に逆らって、それを自分でつくろうとがんばっている。そうやって人も社会も支配しようとしている。
現代社会はその「悪あがき(struggle)」が正義になっていると同時に、正義になりえなくなりつつもある。そういうブスやブ男の悪あがきにうんざりしている人もたくさんいる。
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5・未知に対するときめき
現在の一部の医療界では、重度の障害児に、将来にわたって介護しやすいためにとか本人がむやみに悩み苦しまなくてもいいようにとかの理由で成長抑制のための手術を施すとか、生まれたばかりの時点で安楽死させて間引きしてしまうということが合意されようとしているのだとか。
人間の未来を他人が決定してしまうこと、これは、倫理道徳として、いいことか悪いことか。
上野氏や内田先生の悪あがきが正義だというなら、この行為だって当然正当化される。何はともあれそれは「未来を構想する」ことなのだから。
いいか悪いかで決めることばかりしていたら、そういうことになってしまうのだ。
「未来の社会を構想する」ことなど、いかに道徳的なことをいったって、俗っぽいただの功利主義思想であり、人間はもともとそういう生き物ではないのだ。
未来の社会は「いい社会」であらねばならないといって「いい社会」をつくろうとすることが正義なら、障害児に対するそうした成長抑制の手術や間引きだって正当化される。
しかし、未来が「いい社会」になるとはかぎらないのである。人間が勝手に「いい社会」をつくれるのなら、そういう欲望や正義意識の強いアメリカ社会には、とっくにホームレスも犯罪もなくなっているし、リーマンショックも現在の不況などの社会的混乱も起きていない。
人間社会なんか、リーダーたちがどんなに「いい社会」のビジョンを描いてみせようとも、なるようにしかなっていかない。そういうことを、アメリカの現在をはじめとして地球上のこの世界の現在の姿がちゃんと証明しているではないか。
未来のことはわからない。だから、われわれの心は、どんな運命も丸ごと受け入れるようにできている。それが、命のはたらきというものだ。そうやって運命を受け入れるから、「進化」という現象が起きる。
上野氏も内田先生も、「運命を受け入れる=未知にときめく」ということができないで「未来の社会を構想する」ということばかりしているから、その思考に「進化」も新しい「展開」もないのだ。あんなアホどもを尊敬して何になる?
苦しんだり悲しんだりしたらいけないのか。生き物の進化も人間の思考の新しい展開も、そういう未知に対するときめきからしか起きてこない。
障害児だって未来におけるたくさんの「未知」を持っているし、その介護をする側の未来にだってたくさんの「未知」が用意されているのである。そういう「未知」に対するときめきの希薄な人間が、障害児自身の未来も介護する自分たちが未来において出会うこともすべてわかっているつもりで、正義ぶってそういう成長抑制手術をしたり間引きしようとしたりする。
むかしは障害児を生かすことのできない社会だったから間引きしたが、現代の文明社会では生かすことができる。生かすことができるなら生かそうとするのが、人間の本能なのだ。
人間は根源において、すなわち命のはたらきは、いいとか悪いというような判断や裁定はしない。運命という新しい事態をまるごと受け入れるようにできている。
つまりわれわれは、重度障害児に成長抑制の手術をしたり生まれてすぐに安楽死の処置を施したりすることに対して、それは倫理的に間違っているといってもしょうがない。ただもう、いいとか悪いということ以前に、そういうことをする連中のおつむの程度がいかに低いかということをちゃんといえなければならない。
倫理としてではなく、人間というのはそういう生き物ではないだろう、ということがいえなければならない。
同様に、上野氏の言説がいいとか悪いというようなことはどうでもいい。ただもう退屈で程度が低いだけであり、田舎っぺのブスのいうことなんかその程度だろうな、と思うばかりだ。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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