「ケアの社会学」を読む・19・アシュリー事件

   1・そのどうしようもない野暮ったさ
「アシュリー事件」という。
2004年のアメリカで、重度の障害を持って生まれたアシュリーという6歳の子供に成長抑制のための徹底的な手術とホルモン投与が行われ、この医療行為の是非をめぐって大きな論争が巻き起こったのだとか。
どうせ治らない病気だし、だったら子供のままで身体が成長しないようにしてしまえば、まわりは介護しやすいし、本人も成長に伴うさまざまな心身のトラブルを体験しないですむ、というわけだ。
いかにもアメリカ的な実利的功利的な考えだ。
僕は最近このことをあるブログで知り、このごろとても気になっている。
ここには、介護の根源にかかわる問題が潜んでいるように思われる。
結論から先にいってしまえば、たぶんアメリカはこんなことばかり考え、こんなことばかりしているから、現在の状況的な行き詰まりを招来しているのだろう。
このことが倫理的に正しいかどうかということなどどうでもいい、こんなことを平気でできるのは、人間とは何かということに対する思考のレベルが低いからだ。アホだからだ。ひとまずそれだけのことだと僕は思っている。
普通に考えて、ものすごく薄気味悪い行為ではないか。アメリカ人というのは、正義の名のもとに、そういう薄気味悪いことを平気でできる民族なのか。おまえら、頭悪すぎるよ。
いいか悪いかなんて、どうでもいい。彼らは、自分たちが最高の正義を行使しているつもりなのである。間違っている、などといっても聞くはずがない。
それはたしかに、正義なのだ。そしてわれわれは、その正義そのものが薄気味悪いのだ。
正義を振りかざしながら大きな顔をして生きるなんて、ほんとに薄気味悪い。人間なんて、「生まれてきてしまってすみません」といってうなだれながら生きているくらいでちょうどいいのだし、そういう人間の方が人間としてのセックスアピールがあるし、遊びも快楽もよく知っている。
だから僕は、上野千鶴子氏のことを、「遊びも快楽も知らない田舎っぺのブスが何をかっこつけたことをほざいてやがる」と言ってきたのだ。
権利とか正義を主張するなんて、野暮ったいことだし、薄気味悪いことだ。
であればもう、われわれは、人間とは何かということについて、彼らよりももっと深く遠くまで掘り進んでみせなければならない。
あくまで単純に、率直に、人間というのはそういう存在ではないだろう、ということがいえなければならない。
人間であることの原点(根源)の思考において、彼らを超えてみせなければならない。彼らを置き去りにしてみせなければならない。
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   2・社会に「倫理=正義」は必要か
内田樹先生は「人間は倫理を持たなければならない」と力説しておられるが、「倫理=正義」で物事を決めたがるのは、「倫理=正義」でこの社会を操作できると思っているからだろう。自分が生き延びるのに都合がいいように、この社会を操作したいのだろう。アメリカの金持ちがやっていることと同じである。彼らは、「倫理=正義」がどうのということばかり言いたがる。「倫理=正義」で人間社会を支配できると思っている。
まあ現実問題として、「倫理=正義」を提出する人間がこの社会のリーダーになっている。
しかしじつは、人間は人間社会を操作することはできないのだ。「倫理=正義」を提出すればリーダーになることはできるが、リーダーであればこの社会の未来を決定できるかといえば、そうはならない。歴史はつねに、なるようになってきただけである。
人間が歴史(=時代)をつくることはできない。歴史(=時代)が人間をつくる。
近い将来、アメリカではこのアシュリー療法が正当化されて一般の医療現場に広がってゆくことになるか?
アメリカ社会が右肩上がりでこれからも繁栄を続けてゆくなら、きっとそうなるだろう。
しかしじわじわ衰退してゆくなら、人々の中にそういう作為的なことに対する反省が生まれてくる。
倫理的に正しいか否かという問題ではない、たぶん、世の中の景気が良くなるか悪くなるか、というだけの問題だ。倫理とか道徳とか正義などというものは、その程度のもので、この社会のリーダーのおもちゃにすぎない。
作為的な人間にとってはそういうことが「倫理=正義」になるのだろうな、と思う。作為的な人間がのさばる世の中なら、そういう「倫理=正義」が横行することはもう止められない。
けっきょく何が正義かということなど、世の中の成り行き次第で決定されてゆくのであり、じつは人間=リーダーが決定できているのではない。
どうなるかということはもう、運を天に任せるしかない。誰もそれを決定することはできない。
僕は、アシュリー療法が倫理的に正しいかどうかということは問わない。ここではひとまず、「人間とは何か」とか「介護とは何か」という問題をできるかぎり根源に向かって掘り進めてみたい。
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   3・生きることの不可能性
介護とは、生きられないものを生かそうとする行為である。人間がなぜそんなことをしようとするのかといえば、人間は生きにくさを生きようとする存在だからだ。
生きられないものが生きることによって、われわれはみずからの生のかたちに気づいてゆく。そのように、生きられないものを生かそうとする試みを繰り返しながら人間の歴史が動いてきたのであり、人間的な文化や文明が発達してきた。
何はともあれ生きられないものを生かそうとするのは、人間の根源的な衝動であろうと思える。
人間の生まれたばかりの赤ん坊は、自力では何もできない「生きられない存在」である。他の哺乳類の赤ん坊なら、最低限自力でおっぱいのところににじり寄ってゆくことくらいはできる。しかし人間の赤ん坊は、何もできない。すべてのことをまわりがしてやらないと生きられない。
われわれは「生きられないもの」として生まれてくる。
われわれは、生きられない生を生きはじめる。生きられない生を生きることが基本的な人間の生きてあるかたちであり、したがって人間には、生きられないものを生かそうとする衝動が先験的にそなわっている。自分が生きることそれ自体が、生きられないものを生かす行為である。
生きられない生を生きることと、生きられないものを生きさせようとすること、この二つのことが組み合わさって人間存在が成り立っている。
人間は、個として生きられないものとして、先験的に群れ(=他者との関係)の中に投げ入れられて存在している。
人間は、個として生きられない存在であるがゆえに、個の意識を強く抱く。
われわれの生は、生きることの不可能性の上に成り立っている。
つまり、個としての生きることの不可能性と、他者による生きられないものを生かそうとする衝動がセットになって人間社会が形成され、それによって個としての生きることが可能になっている。
人間の集団性や連携が他の動物より高度だとすれば、人間はそのぶん個としての生きることの不可能性を強く負って存在しているからだ。すなわち人間社会の集団性とか連携は、生きられないもの生かそうとする衝動の上に起きている、ということだ。
個としての「生きることの不可能性」こそ、人間存在の根源的なかたちなのだ。
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   4・生きてあることの負い目
根源的には、すべての人間が、「生きることの不可能性」を負っている。
であれば、「生きることができる人間=健常者」と「生きることができない人間=障害者」という境界は成り立たないことになる。
人は、「生きることができる人間」として障害者や老人の介護をしているのではなく、自分もまた他者の「生きられないものを生かそうとする衝動」と関係することによってはじめて生きることのできる「生きられない人間」であることを自覚しているからであり、介護をするというかたちでしか人間存在が成り立たないからだ。
たとえば、寝たきりになった舅や姑の介護をすることを要求されたその家の嫁が泣きながらでも引き受けてしまうのは、上野氏のいうような「家父長制」の問題以前に、引き受けないと人間ではなくなってしまうかのような「個」としての不安に浸されるからだろう。
そこには、人間存在の根源の問題が潜んでいる。
つまり、人間なら誰だって、自分もまた他者の「生きられないものを生かそうとする衝動」の上に生きてあるという「負い目」があるからだろう。
誰もがそういう「負い目」を抱えて生きている。そしてそこにこそ、人間社会の集団性や高度な連携の契機が潜んでいる。
人は、「生きることができる人間」として介護をするのではない。みずからが「生きられない人間」であるという「負い目」を抱えているからだ。この「負い目」なしに、どんなに死にそうなものもなんとか生かそうとする人間の介護の衝動を説明することはできない。
べつに、介護が倫理的に正しいことだからではない。原始時代に倫理などというものはなかったはずだが、それでも人間は太古の昔からそうやって歴史を歩んできた。
介護することは、人間の本能である。それは、「生きられないもの」としての「負い目」を抱えて生きている存在だからだ。
人間にとって、生きてあること自体がひとつの「負債」なのだ。誰もが、どこかしらにそういう気分を抱えて生きている。誰もが、生きられない身で生きてあるという「負い目」を抱えている。
だから人は、介護をする。それは、恩を売る行為ではない。負債を返還する行為なのだ。だから嫁は、泣く泣く嫌いな姑の介護を引き受ける。
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   5・生きてあることそれ自体を問う
やつらは、生きてあることの尊厳、などと傲慢なことをいっているから、障害児の体を切り刻んで平気なのだろう。それはまるで、悪辣な地上げ屋みたいな行為だ。彼らにとって生きてあることは、貸した金を取り立てることらしい。人生の元を取らなきゃ損だ、と思っている。それが資本主義や西洋近代合理主義の人間観であり、上野氏や内田先生の人生観だ。
そういう人間観や人生観を根底から変更しなければ、われわれは、アシュリー療法の正義とやらを克服することはできない。
それは倫理的に間違っている、といっても無駄なことだ。やつらと同じように人生の元を取りたいのなら、どこまで行っても水かけ論だ。
快適に生きることが人間であることの第一義的な価値であるのなら、とうぜんそういう行為だって正義になる。快適に生きることが第一義的な価値だと考えている人間が、「生命の尊厳」というスローガンを捏造する。彼らは、「生命の尊厳」の名のもとにアシュリーの体を切り刻んだのだ。
この生は、快適なものであらねばならないのか。
それに対して、人が苦しんだり悲しんだりすることを肯定し、そこにこそ生きてあることのカタルシスや快楽を見出してゆくことができるものは、この生がひとつの負債であることを知っている。
快適でなくてもいいではないか。みんながんばって生きている。誰もが心の底のどこかしらで、生きてあるというその事実をかみしめて生きている。
生きてあることは貸した金を取り返すことではなく、負債を返還し続けることだ。そこにこそ、生きてあることのカタルシスがあり、快楽がある。負債を返還することだから、苦しいことを引き受けることができるし、かなしみを味わうこともできる。世界や他者に豊かに反応することのできる人間は、この生が負債であることを知っている。
負債を返還し続けるとは、運命を受け入れることだ。運命を受け入れるなら、アシュリー療法はできない。
共同体の制度性にがっちり縛られしがみついている上野氏や内田先生みたいな快楽も遊びも知らない鈍くさい人間が、生命の尊厳などとくだらないことをいう。おそらく、20世紀の「近代合理主義」とか「民主主義の市民社会」などという愚にもつかないスローガンが、そういう鈍くさい人間を大量に生み出したのだろう。
誰も心の底では「生命の尊厳」などとは思っていないのに、人生の元を取らなきゃ損だというそのスケベ根性が、ひとまずそうしたスローガンを振りかざしているだけのこと。それは、共同体の制度性によって捏造された正義というたんなる幻想であって、生命の真実ではない。
「生命の尊厳」なんて嘘っぱちだ。「人間とは何か」と問わずにいられないわれわれの思考や議論は、そこからはじめるしかない。
上野氏も内田先生もアシュリー療法の関係者たちも、人間として生きてあることに対する切実さが足りなすぎるのであり、脳みそが薄っぺらすぎるのだ。この人たちは、生まれてきたばかりの子供のような率直さとひたむきさで「生きてあること」はどういうことだろうと問うたことがないのだ。ほんとに、こいつらはただのアホだと思う。これだから僕は、垢抜けない田舎っぺのブスはいやなのだ。
成功したアメリカ人だって田舎っぺだよね。田舎っぺが贅沢や都会生活を覚えるとどうなるかということの見本が、現在のアメリカの矛盾や混乱であり、アシュリー療法なのではないだろうか。そこまでしないともう、アメリカの正義も資本主義の利潤も守れなくなっているのだろう。そういう悪あがき(STRUGGLE)なんだろうね。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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