閑話休題・吉本隆明さんが死んじゃった

僕はこのことを、3月16日早朝の、ヤフーの検索サイトで知った。
このニュースはたぶん、吉本さんに影響を受けた団塊世代をはじめとする人々にとっては、3・11の日がまたやってきた、ということと同じくらいかあるいはそれ以上にインパクトのあるニュースなのだろう。
まあ、戦後最大の思想家、という評価が定着しているし、しばらくは「お香典」としてさらにその声が高くなるのかもしれない。
いちおう僕も影響を受けたひとりとして、ここに香典代わりの記事を書いておこうと思う。
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僕は団塊世代だが、世の中の動きにも全共闘運動にも興味がない若者だったから、学生時代は吉本隆明を読もうという気も起きなかった。
全共闘運動真っ盛りのころに学生をやっていたのに、デモにも集会にも参加したことが一度もない。そのころ、三畳一間のアパートで女と同棲していて、毎晩エッチしたりケンカしたり仲直りしたりというようなことに忙しくて、それどころじゃなかった。女と別れてからは浮浪者みたいに町の底をうろついていて、本を読むこともしなくなった。唯一文化的なことといえば、電車の中や駅の待合室などでスケッチをすることだった。
吉本さんの本と出会ったのは、30歳ころだった。
2,3年は夢中になって読んだ。
吉本隆明以外に読むに値する本などない、というくらいの気持ちだった。
そしてそのあと、この人の考えに対して無性に腹が立ってきた。なにしろ団塊世代は、父親と敵対してしまう習性を持っている。吉本氏が僕の父親になった瞬間から、僕は無性に腹が立ってきた。
いまとなっては、吉本さんの思考や思想が人間の真実に届いているとはぜんぜん思わないし、そのことをいくらでもあげつらうことができるが、そのころは、ただもう、その言うことのニュアンスというか、言い方そのものがいちいち癇に障ってしょうがなかった。
しょせんこの人とは人種が違うのだと思った。
僕はべつに女にもてるいい男であるわけでもおしゃれな遊び人でもないが、吉本さんのどうしようもない野暮ったさが気にくわなかった。だったらそれは人種が違うんじゃなくて近親憎悪だろう、といわれるのなら、そうかもしれない。
とにかく、野暮ったいブ男はこういうことを言いたがるのか、と思った。
ただのブ男の悪あがきじゃないか、と思った。
そういう悪あがきがうんざりだった。
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この記事はひとまず「香典」なのだから、吉本さんの提出した原理論がいかにずさんかということの検証はやめておくが、たとえば、吉本さんのこんな語り口に、世間では、あたたかく嘘いつわりのない率直な人柄がにじみ出ている、という。
そうだろうか。
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結論から言ったら、人間というのは、やっぱり二四時間遊んで暮らせてね、それで好きなことやって好きなとこ行って、というのが理想なんだと、僕は思うんだけど。
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ブ男がかっこつけて何を陳腐なことをいってやがる、と思う。なんだか、うさんくさい言い方だよね。
そんなことくらい、誰でも思っている。今さらおまえにいわれるまでもないことだ。教祖様にこういうことをいわれてありがたがっているやつらの脳みそだって、程度が低すぎる。
こんなことをわざわざ「理想」などといってみせるところが野暮ったいんだよ。言わなくてもみんな思っていることじゃないか。
二四時間好きなことして遊んで暮らしている遊び人に対して、「おまえらいいよなあ、気楽で」と皮肉交じりに見下している言い方なのだ。
当の遊び人だって、これが理想の生き方だと思っているわけではない。人生のなりゆきでそのような生き方をする羽目になってしまっただけだ。そういう生き方をするしんどさだってあるんだぞ。
すべての遊び人がただお気楽なだけの人種だとはかぎらない。
遊び人には遊び人のしんどさだってあるんだぞ。
「二四時間遊んで暮らせてね、それで好きなことやって好きなとこ行って」という生き方がお気楽な気持ちでこなせるとでも思っているのか。それが人間の幸せだとでも思っているのか。そこが、あなたの思考のステレオタイプで程度の低いところだ。幸せなんかどうでもいい、と思わなければほんものの遊び人にはなれないんだぞ。
そうやって生き方の「理想」とか「幸せ」を語ることが野暮ったいんだよ。
生き方の「理想」などというものはない。どんな生き方をしても満足できないのが人間なのだ。
これだから野暮ったいブ男はいやなんだ……と僕は思った。野暮なブ男ほど生き方を気にして、生きることがどんどん作為的になってゆく。このようなブ男の悪あがきは、内田先生と一緒だよね。
生き方の理想などない。生き方なんかどうでもいい、生きてあることそれ自体を問うという思考が、吉本さん、あなたはなさすぎるのですよ。
そのとき僕は、この言い方に、ものすごくうさんくさいものを感じた。
まあその後の僕の「考える」といういとなみは、このうさんくささを振り切ろうとすることでもあった。

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こんな言い方をされても、僕はもう、何も感動しない。
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結婚して子供を生み、そして子供に背かれ、老いてくたばって死ぬ、そういう生活者をもしも想定できるならば、そういう生活の仕方をして生涯を終える者が、いちばん価値ある存在なんだ(「自己とはなにか」『敗北の構造』弓立社 201頁)
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これを、吉本隆明の残した偉大な言葉として本に書いている人もいるのだが、まったく、感動する方だってどうかしているよ。
べつに「価値ある存在」なんかいるものか。
たとえば、埴谷雄高であれ、高橋和己であれ、何がいちばん価値ある存在かというような野暮なことは言わなかった。どんな強欲な成功者だろうといじましい庶民だろうと、みんなそれぞれの領分で生きているだけであり、誰もが人間以上でも以下でもない……そういう思いが彼らにはあった。
「理想の生き方」とか「いちばん価値ある存在」とか、そんな野暮なことはいわないのが心ある思想家のたしなみなのだ。
「理想の生き方」とか「いちばん価値ある存在」を設定せずにいられれないところが、ブ男の悪あがきであり、思想の貧困なのだ。
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吉本さんや五木寛之氏のように、この国が太平洋戦争をしていたころに兵士になる直前の世代として思春期を送った人たちは、兵士として悲劇的に生きたり死んだりすることも青春を謳歌することもできなかったという喪失感がある。
彼らの同世代の女たちのほとんどは、兵士、すなわち戦争に行った友人のお兄さんや親戚のおじさんたちに恋心を捧げていた。彼らだって戦争によるさまざまな悲劇的な体験をしているから感性は豊かだが、青春のいちばんの果実を味わえなかったという喪失感というか恨みがあるらしく、その空白を取り戻そうとする意識が強い。
だから吉本さんは、「理想の生き方」とか「いちばん価値ある存在」などともの欲しげなことをいうし、五木寛之氏だって人生に対するそういうところはどうしてもある。
五木氏の最近の「下山の思想」という本だって、どうやったらよい生き方ができるかというハウツー本である。まったく、どんな生き方をしたっていいじゃないか、と言いたくなってしまう。悩み苦しんだ生き方をしようと、それはそれで貴重なその人固有の人生であり、そこにしかない人生の果実だってあるのだ。
五木氏は、あんなハンサムないい男なのに、それでも、自分の係の編集者は女じゃなきゃだめだといつもゴネていたそうである。べつにもてないブ男でもあるまいし、女に不自由しているわけでもないのだからそんなことにこだわる必要ないじゃないかとはた目には思うのだが、彼なりに、青春時代の、どうしても取り戻せない喪失感=ルサンチマンがあるのだろう。
吉本さんにしても、五木氏にしても、人生の元を取らなきゃ損だといういじましさと野暮ったさが、どうしても付きまとっている。それが彼らの文筆活動の武器になり、限界にもなっている。
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吉本さんは、こうも言っている。
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市井に生まれ、そだち、生活し、老いて死ぬといった生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値とまったく同じである。(カール・マルクス」『吉本隆明著作集12』勁草書房 145頁)
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だから、どうして「千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値とまったく同じ」でなければならないのか。人間なんて、死んでしまえば生まれてこなかったのと同じさ。その事実をどうやって受け入れてゆこうかとわれわれが四苦八苦しているときに、よくもまあ、そんな虫のいいことをぐだぐだと考えていられるものだ。
吉本さんのこの言い方には、人生の元を取らなきゃ損だという彼自身の野暮ったいスケベ根性が投影されている。
人間にも人生にも、「価値」なんかないのだ。少なくとも埴谷雄高高橋和己は、そういうことをよく心得ている。彼らはまあ、いい男で女にもてたし、それなりの青春を通過してきているから、吉本さんのような悪あがきの欲望なんか持っていない。悪あがきの欲望なんか持っていないから女にもてたのかもしれない。
僕は、顔かたちの問題をいっているのではない。その精神としてのブスとかブ男の論理というのはやっぱりあるのだなあ、と思わせられる。五木氏だって、ブ男のいじましさと野暮ったさの論理で発言しておられる。顔がよくったって、いうことはどうしてもブサイクだ。
内田先生だって、どうしようもなくブ男の論理だし、親のしつけの問題ですかね。
こういうブ男の論理が席巻している時代というのは、どういう時代なのだろう。
努力という名の悪あがきが称賛される時代だ。人々がそうやって欲望を紡いでゆかないと、資本主義は成り立たない。
吉本さんは、いい人間としていい人生を生きようとがんばっている人だった、そしてそのモデルとして「大衆の原像」という概念を提出した。僕はあるときから、ブ男のそういういじましくも意地汚い欲望に、どうしようもなくうさんくさいものを感じるようになっていった。
人生の元を取らなきゃ損か?そんな貧乏たらしいことをいうなよ。
この世に生まれてくることは命の「負債」を負うことであり、人間は、「負債」を返還し続けて生きている存在なのだ。
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最後に、吉本さんの最大の代表作になるであろう『共同幻想論』のことを少し書いておくことにしよう。
しかし具体的なことをつつくと延々と書かなければならなくなるので、大まかな印象だけにとどめておく。
この本は、羽仁五郎の『都市の論理』と並んで、全共闘世代のバイブルのような本だった。
べつに、革命運動のことが書かれてあるわけではない。「古事記」と「遠野物語」をもとにしながら、共同体(国家)の起源や家族の発生とその幻想性を論じているだけである。
難解な本で完読した人間は5パーセントくらいだろう、といっている人もいるが、そう難解でもなく、無学な僕が夢中になって読んだ。まあ僕は、20才くらいのころに小説に飽きて民俗学歴史評論の本ばかり読んでいた時期があるから、わりとなじみやすかったのかもしれない。
そして2,3年後には、吉本さんの考える「共同体(国家)の起源」も「家族の発生」もぜんぜんだめだと思った。
僕が今、直立二足歩行の起源やネアンデルタールのことに深入りするようになったきっかけは、このことにあるのかもしれない。
この前までのネアンデルタール論では、だいぶ人間の集団性の根源のかたちについて考えた。僕は、吉本さんよりもっと地道に深く遠くまで国家や家族の起源論を考えたいと思っている。
「吉本さん、あんたじゃだめだ、俺が考えてやる」という思いがないわけではない。
あのころ、吉本さんの本と出会った数年後に、『ハイ・イメージ論』という評論が「海燕」という文芸雑誌に連載されていて、そこで衣装(ファッション)のことが書かれてあった。これで、決定的にくだらない、と思った。へりくつこねることはいっちょ前だが、人間の身体性のことが何にもわかっていない。したがって身体性と衣装との関係についての思考も、まったく陳腐でステレオタイプだった。おまえみたいな鈍くさいブ男が衣装論なんか書くなよ、と思った。
そのころ世論は、人間についての原理論の探求が売りだった吉本さんがサブカルチャーを論じ始めたことを揶揄する風潮があったのだが、そういうことではなく、この人は原理論そのものがぜんぜんだめだ、と思った。
そうして僕は、人間とは何かということの原理論を吉本さんよりももっと根源的に深く遠くまで考えようとして、このブログを直立二足歩行の起源からはじめた。
世間の見方としては、むかしの吉本はすごかったけど晩年になってだめになった、というのがほとんどだろう。そうじゃない、と僕は思う。思考力が衰えても、思考の質が衰えたり内容が変わったリするはずはないのだ。三つ子の魂百まで、というではないか。
吉本さんは、上記のように人をたぶらかす文章を書くのが圧倒的に上手かったが、人間とは何かということの根源に迫る思考力は、最初から限界があった。
悪いけど、人間についての原理論を考えることなら、吉本さんよりも僕の方がずっと誠実に深く遠くまで考えている。
だから、「御冥福を祈ります」なんてことはいわない。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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