「ケアの社会学」を読む・20・生きることの不可能性

   1・生きられない
人間は、根源において、生きることの不可能性を負って存在している。
人間の集団性や高度な連携の能力は、そういうことの上に成り立っている。それは、生き延びるのに有利な戦略として選択されていることではない。ただもう人間はそうするほかない生の与件を負って存在しているからであり、生き延びてきたのはたんなる「結果」にすぎない。
人間に、生き延びようとする衝動などはたらいていない。生き物の根源においても、そのような「本能」などというものはない。
われわれのこの生は、ただもう「なりゆき」としてそのようになっているだけのことだ。
誰の生もどのような生も、「なりゆき」としての必然性=運命とともにあり、どのように生きねばならないということなどありはしない。
われわれは、生きようとして生きてあるのではない。他者によって生かされてしまっているだけだ。つまり、他者との関係を持つことが、生きるいとなみになっている。他者を生かすことが、自分の生きることになっている。
生きることの不可能性を負っているとは、生きようとする衝動を持つことの不可能性を負っている、ということだ。
われわれは、何か嫌なことやつらいことがあると、すぐに「生きるのがいやになった」と思ってしまう。じつにかんたんにそう思ってしまう。それは、生きようとする衝動を持つことの不可能性こそこの生の根源的なかたちであり、「もう生きられない」という思いこそこの生の通奏低音だからではないだろうか。
生きたくないわけではないが、「生きられない」とか「生きていてはいけないのではないか」という思いがつねに付きまとっている。
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   2・生きてあることを忘れる
生きられないものが、生きていていいのか。
われわれは、他者との関係の中で、生きてあることを忘れる。生きてあることを忘れてしまえば、生きることの不可能性も忘れている。
人が何かに夢中になることは、生きてあることを忘れることだ。生きることの不可能性を負った赤ん坊は、そういう生きてあることを忘れる心の動きを、他者との出会いによって覚えてゆく。赤ん坊は、生きてあることを忘れることによってしか、生きることの不可能性を克服することはできない。
まずは、おっぱいという他者と出会う。そこで、空腹の鬱陶しさを抱えているみずからの身体存在を忘れてしまう体験をする。満腹になるとは、みずからの身体を忘れることだ。そうして、眠くなる。それは、生きてあることを忘れてゆくことだ。
人は、生きてあることを忘れるトレーニングをしながら成長してゆく。そしてそれは、他者と出会い関係を結ぶことによって体験される。
人間の集団性や高度な連携つくる能力は、生きることの不可能性を負っていることから生まれてくるのであり、生きることの不可能性は生きてあることを忘れてしまうことによってしか克服でないからであり、生まれてから他者との関係を結ぶことによって生きてあることを忘れるという体験を積んできたからであり、その体験を積んできたことによって、つねに他者との関係によって自分(=生きてあること)を忘れる体験をし続ける存在だからだ。
どうして人間は他の動物以上に他者との関係に夢中になれるかといえば、それが自分を忘れてしまう体験だからであり、すっかり忘れてしまうほど体験しようとするからだ。
すっかり忘れてしまう体験として、恋をし、学問や芸術やスポーツや遊びに熱中し、深く感動してゆく。
人間は、他者に感動せずにいられないほどに、他者と関係してゆこうとする。そして、生きることの不可能性を負った存在としては、他者が生きてあることそれ自体に感動している。
だから人は、生きられない他者を介護して生かそうとする。生きられないものが生きてあることこそ、人間であることの根源のかたちである。
人間は、生きられない他者を生かそうとし、生きられない身として他者に生かされて存在している。自分が生きてあることは、生きられないものが生きてあることである。
生きられないものが生きてあることが、人間が生きてあることのかたちなのだ。
だから人は、生きられないものを生かそうと介護をする。
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   3・存在することの不可能性
デカルトは「われあり」ということの証明をその哲学の中心課題に据えたが、そうじゃないのだ、「われ」が存在することの「不可能性」の根拠を問うことこそ現代的な課題ではないだろうか。
現代人は「われあり」の証明に血道をあげて生きているが、だからこそそんなことはもう古いのであり、そんなことに血道を上げることが人間性の真実であるわけでもない。
原初の人類が二本の足で立ち上がることは、「生きられないもの」になることだった。
それは、とても不安定な姿勢で、胸・腹・性器等の急所を外にさらしている姿勢だった。
しかし他者と向き合って他者の前に立てば、その圧力によって他者の姿勢は安定するし、胸・腹・性器等の危うさを守ることにもなる。これは人類が最初に体験した介護であり、向き合って立つことは介護し合うことである。生きられないものを生かす行為である。
そして人間特有のこの関係性が、人間的な集団性や高度な連携の契機になっている。
つまり人間の関係性とは、介護し合うことなのだ。それによってはじめて人間は生きてあることができる。
人間集団のダイナミズムとは、介護し合うことのダイナミズムにほかならない。
5万年前のネアンデルタール人がそのころ地球上でもっとも大きな集団をいとなんでいたということは、もっとも介護が発達していたということである。だから「埋葬」という習俗が生まれてきたのであり、動けない老人をみんなで介護して生かしていたという発掘証拠もある。
日本列島でも、むかしは、障害児を「神の子」として集落全体で育てようとする風習があった。そして、障害児でなくとも、子供がよその家に上がり込んでご飯を食べさせてもらうことは、当たり前のようになされていた。
集団の結束は、介護の習俗から生まれてくる。なぜなら人間は、生きられない生を生きてある存在だからである。
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   3・アメリカの正義は世界のお手本なのか、冗談じゃない
介護の思想が貧弱な集団からは、ダイナミックな結束は生まれてこない。
現在のアメリカは、弱いものが強くなってゆくチャンスが用意されている社会ではあるが、弱いものが弱いままで生きることの困難な社会でもある。
たとえば、医療保険の制度が弱者に対して冷淡で、医療を受けられない人や、病気になって破産してしまう人がたくさんいるのだとか。
そして重度の障害児の子供に成長抑制の手術を施したり間引きしてしまうことが正義であるかのように考える医者や生命倫理学者が少なからずいるということは、それだけ生きられないものを生かそうとする介護の思想が貧弱な社会であることを意味する。
彼らは、最初から「生きられないものを生かす」という発想を放棄している。「生きられないもの」を「生きられるもの」につくり変えて、そこから介護をはじめる、という思想である。これが、アメリカの正義であるらしい。
しかしこんな行為は、根源的には介護でもなんでもない。それ自体、「生きられないもの」を振り棄ててゆく行為なのだ。たとえ障害児であれ「生きられるもの」でなければ介護してやらない、といっているのだ。これが、アメリカをリードする人たちの正義である。
ただ僕は、すべてのアメリカ人がそうだといっているのではないし、そう思いたいものだ。
しかし現在のアメリカは、弱いものが生きられない社会だからホームレスがたくさんいるのだし、強くならないと生きられない社会だからレイプや犯罪が多発するし、銃の規制ができない。
アメリカほど介護の思想の貧弱な国もない。それは、アメリカ社会をリードするものたちのオツムの程度が低すぎるからだ。僕はべつに、アメリカ人そのものが嫌いなわけじゃない。
アメリカは、人間的な集団の結束が希薄である。弱いものどうしは、競争して強いものの仲間入りをしようとがんばるばかりで、弱いものどうしが助け合う文化がない。弱いままのものは振り落とされるほかない文化である。だから、弱いままのものは強いものが助けてやらねばならないという。つまり弱いものは、強いもののそういう満足を得るための存在であり、強いものが強いものであることを証明するための存在なのだ。
アメリカには、誰もが「生きられないもの」として連携し結束してゆく文化がない。
アメリカの弱いものは、死んでゆくしかない存在なのだ。だから、弱いものは、銃を持ち、レイプをし、犯罪に走り、強いものなろうとがんばってゆく。人間は根源において生きられない弱いものであるがゆえに、そうやって強いものになろうとすることが止揚される文化もうまれてくる。たぶん、歴史の初期段階においては。
なんといってもあの国には、歴史の長い時間に濾過された「伝統」というものがない。
アメリカは、競争の文化であって、連携の文化ではない。努力の文化であって、自然のままであることが止揚される文化ではない。努力によって自然を克服していったのがアメリカ建国の歴史なのだから、それはもうしょうがいないのかもしれない。そういう人為的につくられた集団であって、いつの間にか自然発生してきた、という集団ではないし、長い歴史の時間によって濾過されてきた文化も持っていない。
弱いものを強いものにする文化である。インディアンをキリスト教徒にしてしまう文化である。そのようにして、重度の障害児として生まれてきた子供に、無理やり成長抑制の手術を施してしまう。人間をつくり変える文化であるのだから、それが彼らの正義である。
彼らは、連携すらも人為的につくってゆく。アメリカンフットボールは、まさにそうした人為的な連携の文化を象徴するスポーツである。
しかしこのスポーツがアメリカだけのものだということは、その結束や連携がけっして人間の普遍的なかたちではないことを意味する。
世界の人々は、アメリカンフットボールよりも、連携や結束が自然発生的に生まれてくるサッカーの方が好きだ。
アメリカは、人為的な連携や結束の優位性や普遍性を主張する。
人間の連携や結束は人為的につくり出すものなのか。
それとも、それは先験的に存在し、自然発生してくるものなのか。世界の人々は自然発生してくることを信じ、そういう文化をつくろうとしている。だから、サッカーが好きなのだ。
人為的な連携や結束の優位性は、たぶん経済の世界では成り立つのだろう。だからアメリカは、経済が優位のアメリカンドリームの国をつくり、世界の経済をリードしてきた。
しかし、人間性の普遍として人為的な連携や結束を語っても、世界では通用しないのである。世界の人々は、相変わらず連携や結束が自然発生してくるサッカーの方が好きなのだ。
アメリカは世界でいちばん強い国だが、アメリカ人は、それほど世界の人々から尊敬されているわけでもない。それは、自然発生的な連携や結束の文化を持っていないからだ。
われわれは、人生において何度でも自然発生的な連携や結束を体験する。子供どうしが一緒に遊ぶことに、わざわざ連携や結束をつくろうというような作為的な意図などはたらいていないだろう。仲良くしようとしたことなんかないのに、いつの間にかそういう関係になっていた、ということはあるだろう。そういう体験がなくて、いつでも作為的に人と人の関係をつくろうとしている人間のルサンチマンのことを僕は、ブス・ブ男の論理だといってきたのだ。
アメリカをリードする人間たちが叫ぶ「正義」など、ブス・ブ男の論理だ。まあ、そういう存在として移民してきたのだろうし、といったら言い過ぎだろうか。ブスやブ男のルサンチマンでのし上がってゆくことが正義になっている社会だ。
アメリカは、世界で一番豊かな国なのに、どうしてあんなにも貧困層が多く、貧困層が生きにくい世の中になっているのか。自然発生的な連携や結束の文化を持っていないからだ。
「弱いものを生かす」という介護の思想が貧弱だからだ。
あの国をリードする人間たちが、「生きられるもの」と「生きられないもの」に分けてしまう社会だからだ。
「生きられるもの」の傲慢が、アメリカの正義になっている。
それでも人は、誰もがどこかしらに「生きられないもの」の「嘆き」を抱えて存在しているのであり、そこにおいて人と人は連携し結束してゆくのだ。
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   4・「遊び」としての連携と結束
「生きられないもの」を生かすなんて無駄なことだ。「生きられるもの」どうしの連携や結束をつくってゆくことこそ大事で、「生きられないもの」を「生きられるもの」にしてやることこそ社会の連携であり結束であり、愛でありヒューマニズムである、というのがアメリカの正義で、彼らにとって生きることはそういう「労働」であるらしい。
「生きられないもの」を生かすことなんかただの「遊び」だ、と彼らは思っているし、実際それはただの「遊び」だ。
しかし人間のもっともダイナミックな連携や結束は、そういう無駄な「遊び」として生まれてくる。生きてあることなんか、ただの「遊び」さ。
介護の問題を考えることは、人間社会の連携と結束の問題を考えることである。なぜなら人間社会の連携と結束は、「生きられない弱いものを生かす」という人間の習性の上に成り立っているからだ。
人間は、根源において「生きられない弱いもの」として存在している。
他者と関係することそれ自体が「生きられないものを生かす」行為であり、「生きられないものとして他者から生かされる」行為なのだ。
恋をすることだって、つまるところは「生きられない弱いものを生かす」というひとつの介護行為なのだ。
人間は、「生きられないものを生かし、生きられないものとして他者から生かされる」というかたちで連携し結束してゆく。そういうところから、もっともダイナミックな連携と結束が生まれてくる。
しかし経済社会では、金があるものとないもの、すなわち「生きられるもの」と「生きられないもの」というかたちに分けられてしまっている。経済社会がいけないといってもはじまらないが、人と人の連携と結束の問題は、経済原理で説明のつく問題ではないし、経済によっては解決されない。
人と人の連携と結束の問題は、仕事(労働)ではなく、「遊び」なのだ。「遊び」こそ、人間が生きてあることのもっとも切実な行為である。
サッカーがなぜ世界でもっとも人気のあるスポーツになっているかといえば、心の底でじつは誰もが、涙ぐみながらそこに人と人の連携と結束の根源的なかたちを見ているからだ。
人間社会は、誰もが生きられないものを生かそうとし、誰もが生きられないものとして他者に生かされてあることによって成り立っている。これが、人と人の連携と結束の根源のかたちであり、介護の衝動こそ、人間社会の連携と結束のダイナミズムを生む契機になっているのだ。
したがって、介護という行為は、その本質において仕事(労働)ではない。人間が生きてあることや人と人の関係の根源にかかわる「遊び」なのだ。
けっきょく僕は前回と同じことをいっているのだが、人間存在は「生きることの不可能性」の上に成り立っているのであり、そこに介護という行為が生まれてくる契機がある、ということだ。
誰もが、「生きてあることの不可能性」を背負ってこの世に存在している。なんだかまとならないことをぐだぐだと書いてしまったが、とにかく僕はいま、このことを考えたいのだ。
人間の歴史の問題として、われわれが今生きてあることの問題として。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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