「ケアの社会学」を読む・21・べつに楽しくなくてもいい

このブログの行く末はどうなるのだろう。
このまま当然のように自滅してゆくか、集中砲火を浴びて炎上するのか。まあ、そんなようなことしか思い浮かばない。
どのようにして競争相手を見つければいいのかよくわからないし、人にもめったに会わずにただパソコンの画面に向かうことをしているだけだから、誰にどのように読んでもらえているのかということもわからない。
ときどきえらそうにいって批判してくる人もいるが、なんだかなあ、というレベルの言説ばかりだ。
上野千鶴子氏にしても内田樹先生にしても、えらそうに自慢げに語る人間ほど底が浅い。おまえら、ただ物事の表面をなぞっているだけじゃないか、と思うのだが、ここで書いていることは、あんなアホどもよりさらにレベルが低いのだろうか。
おまえら、探究することよりも自分を見せびらかすことに熱心なだけじゃないか。
世の中の物事をああだこうだと裁定を下すことなどかんたんなことだ。
裁定を下すということは、愛がないということだ。どうなっているのだろう?という好奇心がない、ということだ。
「なぜ?」と問うて掘り進んでゆくことは、それなりにしんどいひと苦労がある。しかしそれは、眉に皺を寄せてみせればそれですむということではないし、知識を駆使する能力によるのでもない。逆に、生まれたばかりの赤ん坊のようないっさいの裁定の能力を持たない存在にならないと、掘り進めない。それは、ほんとに難しい。もちろん僕にはうまくできないことだが、あんなアホどもにはなお無縁の作業だ。
たぶん、頭の良さでも知識や人格の問題でもなく、才能の問題なのだろう。そういう才能を、生まれたばかりの赤ん坊や「この世のもっとも弱いもの」は持っている。
おまえらがしゃらくさいことをいってきても、おまえらには負けない。
僕のいうことなど、わかる人にはかんたんにわかってもらえるが、上野氏や内田先生みたいな人間には何をいっても理解してもらえないないんだよね。つまり僕のいうことなんか、永遠にメジャーな言説にはなれない、ということ。そこが、なやましいところだ。
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   1・不幸の中に飛び込む
人間存在は、「生きてあることの不可能性」の上に成り立っている。
だから人は、介護をする。そこに、人間であることの基礎がある。そこに、人と人の関係の基礎があり、そこに集団の連携や結束の基礎がある。
介護の習俗や思想の貧しい集団からは、高度で充実した連携や結束は生まれない。その例として、われわれはアメリカという集団社会を連想する。
高度で充実した連携や結束とは、いたずらにナショナリズムが沸騰することではない。そうやって人為的に連携や結束をつくりだすほかないところに、アメリカというか高度資本主義社会の限界がある。
貨幣経済の社会では、金があるものとないものに分けられる。すなわち「生きられるもの」と「生きられないもの」を分けてしまう。このことを僕は、ものすごく恐ろしいことではないか、とときどき思ったりする。だから人は、プライベートな家族や友人や恋人とのあいだで、金のあるなしが無効になっている関係をつくろうとする。
人間は、人為的にいやなことをつくりだそうとする。つまり、不幸の中に飛び込もうとする衝動を避けがたく抱えてしまっている。
だから、原初の人類は住みにくいところ住みにくいところへと拡散してゆき、とうとう地球の隅々まで住み着いてしまった。
初期のアメリカ移民が西部を開拓していったことだって、心の底で不幸の中に飛び込もうとする衝動がはたらいていなかったら、起きなかったことだ。
つまり、人間が人為的につくり出すのはいやなことや不幸なことで、そういう状況に身を置くから、楽しいことがより深く体験される。
楽しいことは、人為的につくり出されるのではなく、いやなことや不幸なことをつくりだした「結果」として、自然発生するのだ。
楽しいことが自然発生するのを知らない人間が、内田樹先生や上野千鶴子氏みたいに、楽しいことや人と人の連携・結束を作為的につくり出そうとする。
いったんいやなことや不幸の上に身を置くとは、いったん「生きられないもの」になる、ということだ。そこから人間のいとなみがはじまる。
しかし、最初からいやなことや不幸に身を置いているというルサンチマンを持ってしまったものは、もういやなことや不幸に飛び込むということができなくて、ひたすらそこから楽しいことをつかもうとしてゆく。
たぶん彼らには、人間存在の根源としての「生きることの不可能性」ということはけっしてわからないだろう。
人間は、「生きることの不可能性=不幸」を受け入れてしまう。それが、原初の人類の二本の足で立って歩きはじめるという体験だった。そしてそれはまた、人間は楽しいことが自然発生することを知っている存在である、ということでもある。
そういう体験を知らない人間が、しゃかりきになって楽しいことをつくりだそうとし、楽しいことをしていると吹聴したがる。
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   2・「生きられるもの」と「生きられないもの」を分けること
「生きられるもの」と「生きられないもの」を分けてしまうのは、とても恐ろしいことだ。たぶん人は、誰もがそう思っている。しかしそれが、共同体の制度性の本質的な性格かもしれない。その恐ろしさから逃れるようにしてわれわれは、家族や友人や恋人との関係をつくっているのではないだろうか。
その「関係」とはつまり、たがいに「生きられないもの」として向き合い、たがいに生かし生かされる存在になることだ。
介護の習俗や思想が充実している社会では、誰もが「生きられないもの」として存在している。
高度資本主義のアメリカは、「生きられるもの」と「生きられないもの」とに分け、「生きられるもの」が「生きられないもの」を助けてやるという思想で運営されている。それが、彼らの正義であるらしい。
しかしそれは、げんみつには介護の思想ではない。そこには、たがいに「生きられないもの」として向き合うという人と人の関係がない。そうなってはじめて介護といえるのだ。
高度資本主義の経済社会では、みずからを「生きられないもの」であると自覚する感受性が欠落してゆく。そういう自覚で他者の前に立つという感受性が欠落してゆく。
金を稼ぐことは、「生きられるもの」になる、ということだ。
まあアメリカ人は、「生きられないもの」としての感受性が育つ歴史的な伝統を持っていない。それは、歴史的な感性なのだ。
たぶんアメリカは、これからそういう感受性が育ってくるのだろう。歴史という時間は、必ずそういう方向に流れて落ち着いてゆく。なぜなら、「生きられないもの」として存在することこそ、人間存在の根源的なかたちであるからだ。
われわれ日本人だって、太平洋戦争の敗戦によって過去のすべてを清算した気持ちになって戦後をスタートし、ひたすらアメリカをお手本にしながらがんばり、ここまでたどり着いた。だからわれわれもまた、遠い過去の歴史的な伝統をかなぐり捨てて「生きられるもの」と「生きられないもの」を分ける感受性になってしまっている。
「生きられるもの」が「生きられないもの」を助けてやるという社会正義など、根源的には介護の感受性でもなんでもない。ただもう、歴史的に成熟していない社会では、まだまだ<すべての人間が「生きられないもの」である>という共通認識にたどり着くことができていない、というだけのことである。
日本人がなぜ家族介護を受けたがり家族介護をしたがるのかといえば、ひとまずそこは「誰もが生きられないものである」という合意の上に成り立った空間であるからだ。どんなみっともない家族であっても、日本列島の住民は、どこかしらにそういう合意の成り立った集団をイメージしてしまう歴史的無意識を持っている。
まあ友人でも恋人でもいいのだけれど、人はどこかしらに、たがいに「生きられないもの」として向き合う、という関係性のイメージを持っている。
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   3・人は、原始時代から介護をしていた。
老人を介護することは、10万年前のネアンデルタールの時代からなされていた。
なぜそういう習俗が生まれてきたかといえば、ろくな文明も持たない原始人の身で氷河期の北ヨーロッパという過酷な環境で暮らしながら、誰もが「生きられないもの」であることを自覚していたからだ。
そこは、原始人が生きられるような環境ではなかった。
何より生まれてきた赤ん坊は、次々に死んでいった。それでもネアンデルタールの女は多産系で、どんどん産んでいった。そうして、生きられない赤ん坊をなんとか生かそうとけんめいに育児介護していった。それが、極北の地に生きた原始人であるネアンデルタール50万年の歴史だった。
彼らは、死が身近なものであったからこそ、介護をせずにいられなかった。
死が身近な社会でなければ、ダイナミックな連携や結束は生まれてこない。
「生命の尊厳」などということをいっていたら、人と人の関係はばらばらになってしまう。仲良くしていても、ときめき合ってなどいない。
「ときめき合う」という心の動きは、心の底の「生きられないもの」であるという自覚から生まれてくる。この世にあなたが存在することの不思議……そういうことは、生きてあることがあたりまえだとか生き延びたいと思っている人間にはわからない。生き延びることができない存在だからこそ、「いまここ」の存在の不思議に驚きときめくのだ。
そのときめきは、生き延びることができないもののもとにある。
ネアンデルタールの社会では、誰もが「生きられないもの」として生き、誰もが「生きられないもの」を生かそうとしていった。そしてこれこそが、直立二足歩行をはじめた人間の根源的な生きてあるかたちだった。
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   4・「生きられないもの」として他者の前に立つということ
生きてあることの不可能性……われわれ現代人の人と人が関係することや集団の連携や結束を生み出してゆくことだって、ひとまずこの根源の上に成り立っているのではないだろうか。
センチな言い方だが、人が人を愛したり感動したりすることだって、誰もが心の底に「生きられないもの」であることの自覚を抱えているからではないだろうか。
人間は、他者との関係に、大きく心が動いてしまう。
人間の介護の習俗や思想も、根源的にはこの「生きられないもの」という自覚の上に成り立っている。この自覚が希薄な集団社会では、介護の充実も、集団の連携や結束も危ういものになってしまう。それが、現在のアメリカ社会であり、この国の現在の状況もまた、まあ似たようなものかもしれない。
この世の中には、「生きられるもの」と「生きられないもの」を分けることをみずからのよりどころ(アイデンティティ)にしている人がたくさんいる。しかしそれは、病気になったり職を失ったり失恋したり老人になったりして、みずからが生きられない立場になったとき、耐えがたい恐怖となってのしかかってくる。
アメリカ人はその思想が国民性として身体化しているが、日本列島の住民が歴史的な無意識として身体化しているのは、ネアンデルタール以来の「生きられないもの」として自覚である。われわれは、人と人がたがいに「生きられないもの」として関係してゆく文化を身体化しているのであり、ちょっとしたきっかけでかんたんにそのような心の状態になってしまう。われわれにとって「生きられるもの」と「生きられないもの」に分けることは、戦後の付け焼刃の思想であり、「生きられないもの」という自覚を持った瞬間から社会がひどく気味悪いものになり、自分はもう決定的に社会から置き去りにされてしまっているのだ、と思ってしまう。そうして、この世の中で自分だけが「生きられないもの」として存在しているような心細さと恐怖を覚える。自分はこの世に存在していてはいけないのだ、と思えてくる。そんなふうにして、この世界や他者に反応する心がどんどんしぼんでゆく。
日本人には「神」という最後のよりどころがない、ということもある。
「神」とともにいれば、最後の最後まで「生きられるもの」として踏ん張ることができるのだろうが、われわれ日本人は、かんたんに「もう生きられない」と心が萎えてしまう。
そしてそんなときに必要なのは、「生きられるもの」による「生きられるものになれ」というはげましではなく、「生きられないもの」との出会いであり、そこで、たがいに「生きられないもの」として生かし生かされる関係を体験することが救いになる。われわれは、そういう関係を結ぶ歴史的無意識を持っている。いや、人間ならみんな、そういうところで関係を結ぶ心の動きを持っている。それが、普遍的な人と人の関係性ではないだろうか。
僕はこのことを今まで「弱いものどうしが助け合う」といってきたが、誰もが「生きられないもの」として他者の前に立つということであり、そこにおいて人はときめくという体験をし、そこにおいて集団の連携や結束が生まれてくる。そこにおいて、この社会の介護という行為が成り立っている。
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   5・あえて人間であることの尊厳をいうなら
僕はこのところ「アシュリー療法」のことがずっと気になっている。
重度の障害児に、大人にならないように成長抑制の手術を施してしまうこと。それが、介護するものにも介護されるものにもいちばん都合のいいことだ、というわけである。
現在アメリカでは、この手術を施したり、さらには生まれた時点で間引きしてしまったりということがあたりまえのことになろうとしているのだとか。
とにかく、人間をつくり変えてしまうこと。この考えを無限に延長してゆけば、整形手術をしたり、さらには化粧をしたりすることだって同じではないか、ということになる。
「人間とは何か」ということにかかわるややこしい問題だと思う。
上野氏は、「介護される権利」を強く主張しておられる。しかし、だったら介護されるものの義務だって当然要求されるだろう。介護されたかったら、介護しやすい人間になれ、そしたらいくらでも介護してやる、というわけだ。介護する側には、そういうことを要求する権利がある、ということになる。
「権利」などといっていたら、けっきょくそういうことになるのだ。
何をしてもいいかとか悪いかというようなことをいっていたら、けっきょくそういうことになる。理屈と膏薬は、どこにでもくっつく。なんでもしていいことになってしまう。
けっきょくわれわれは、人間とはどういうことをする生き物なのか、と問うしかない。
いいか悪いかとか義務だの権利だのという問題ではない。
人間は、「生きられるもの」として生き延びようとする存在ではない。誰もが「生きられないもの」として存在することによって、人と人がときめき合い、高度な連携や結束が生まれてくる。そしてそこにこそ、生きてあることのカタルシス=快楽がある。
生き延びる権利など誰にもないし、そんなことを主張する人間ほど、他者にときめく能力を喪失しているし、とうぜん他者にときめかれる資質も持ちようがない。そういうブスやブ男になって生き延びることがそんなに素晴らしいことか。
上野氏や内田先生みたいな「生きられるもの=生き延びるもの」になってしまったら、おしまいなのである。どうしようもなくブサイクでグロテスクじゃないか。あんなやつらの、どこに魅力があって、どこがうらやましいのか。
あえていうなら、
人間であることの尊厳もよろこびも、「生きられないもの」のもとにある。
おまえらみたいなブスやブ男のもとにあるんじゃない。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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