「ケアの社会学」を読む・9・一緒に生きてきたということ

  1・家族介護はなくなるか
この本の著者である上野千鶴子氏は、「家族介護が自明でも自然でもなく、かつのぞましいわけでもない」といっておられる。
つまり、介護は家族でやるのが当然だというこの社会の制度的な合意があるために義務としてやらされているだけなのだとか。家族愛とか人類愛とか、そんな制度的な言葉に洗脳されて、自分が義務でやっているということにも気づかない、と彼女はいう。
この国の行政は、家族で介護する習慣があることを手間が省ける都合のいいこと(含み資産)としてそれを優先させる政策をとっており、このことが、社会的なケア施設の充実の障害になっている、といっておられる。
つまり、家族介護の習慣はこの社会のガンだ、とでもいいたいのだろうか。
欧米諸国は、家族介護を当てにするような社会の構造になっていない。金持ちは最後まで要介護老人を家に置いておくが、専業の介護人を雇って家族が直接面倒をみるということはない。
日本だって、むかしは女中の仕事だったのだろう。そういう意味で、なるべく頻繁に介護士に来てもらいながら要介護老人を家においてゆくことができるようなシステムになることが、そう悪いともいえない。日本の風土に合っているのかもしれない。
上野氏がいうように、家族介護が「自明でも自然でも、かつのぞましいのでもない」のだとしたら、家族介護がなくなるのも時間の問題だろう。家族の崩壊は無残なくらい進んでいるし、施設に預けやすいような保険制度も整えられてきている。
しかしきっと、そうかんたんには家族介護の習慣はなくならない。老人たちは、できれば家で死んでゆきたいと願っているし、家族も、できればその願いをかなえてやりたいと願っている。そのことは不自然だろうか。
家族の崩壊は進んでいるが、人々の家族に対する愛着が希薄になっているわけではない。むしろ、「核家族化」の進行によって必要以上に家族に愛着する社会幻想がはびこっていることが家族の崩壊につながっている。
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   2・「一緒に生きている」ということ
前回のエントリーで僕は、人間は「いまここ」でこの生やこの世界を完結させようとする衝動を持っている、と書いた。だから、共同体というむやみに大きな空間の中に置かれてあることに対するとりあえずの緊急避難であれ「家族」という単位を持とうとするのであり、だから、狭いサークルや職場内で恋愛をしたり結婚したりする。
オオカミは、子供のときから一緒に遊んできた経験を通してみんなが選ぶというかたちで自然にリーダーが決まってゆく。
家族という共同生活の単位が人間の自然かどうかはわからないが、「いまここでこの生やこの世界を完結させようとする」ことは、人間のみならず生き物の自然なのだ。
それなりに長い年月を一緒に暮らしてきた家族を介護しようとすることは、べつに不自然なことだとはいえない。
人間の生きるいとなみは、ゆるやかな関係としての社会的なネットワークだけではすまない。目の前のタイトな関係としての恋もするし、友情をはぐくみもするし、家族として一緒に生きてゆこうとする。この「一緒に生きている」という実感は、社会的なネットワークだけではじゅうぶんではない。
僕はべつに社会的なネットワークを否定するつもりもないが、それが人間の生きるいとなみにおける第一義的な生活空間になるわけではないだろう、とは思う。
しかし上野氏は、家族なんかさっさと解体して社会的なネットワークを第一義的な生活空間として生きてゆこう、と提唱しておられる。
しかし人間は、それだけではすまないのだ。それは第一義的な生活空間にはならない。
人が家族介護をしようとすることは、上野氏のいうような「家父長制」に強迫された義務感だけによるのではない。
「一緒に生きている」というタイトな実感の中で生きている存在だからだ。そういう「完結性」をどうしても捨てられないからだ。意識がこの生やこの世界の「完結性」を必要とする存在だからだ。
西洋人は「神」との一緒の暮らしを第一義的な生活空間として持っているから家族から離れた老後を生きることもできるのだろうが、日本列島の住民は何はともあれ現実生活の人と人の関係の中からそれをつくってゆかねばならない。家族は、そうした空間のひとつなのだろう。
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   3・ネットワークだけでは解決にならない
上野氏は社会的なネットワークを第一義的な生活空間にすることが新しくより充実した人の生き方だといわれるが、現在の日本列島の住民は、家族であれ何であれ、「一緒に生きている」というタイトで親密な関係に対する渇望が大きくなってきているのではないだろうか。
だから、ひとりで生きてきたアラフォー世代が、今ごろになってあわてて婚活したり、子供をつくろうとしたりしている。
ペットを飼うブームだって、「一緒に生きている」という「完結性」の感慨を基礎として確保(あるいは補完)しようとする風潮にちがいない。
現代人は家族をうまく運営できなくなっているが、捨てようとしているのではない。
それが、新しい時代の生活スタイルで、社会のネットワークで生きてゆこうとするのは、もう古いのだ。
西洋のような「神」を持たない日本列島の住民は、どうしても目の前のタイトで親密な「一緒に生きている」と実感する関係の中に入り込んでゆこうとするし、それは生き物としてけっして不自然なことではない。
家族なんて誰にとっても鬱陶しいだけだが、それでも「家族なんて必要ない」とは誰も思っていない。
そうかんたんにこの国の「家族介護」という習慣を解体できるはずがない。
そうそう誰もが、上野氏のように社会のネットワークの中で人にちやほやされながら生きてゆけるわけではないし、それで満足できるというのは、人間として何か不自然だ。
人間は、人をちやほやしたい、すなわち人に献身したい、介護したいという衝動を持っている。
上野氏はたぶん、家族(とくに父親)からちやほやされたという幼児体験がないのだろう。その欠落をいま、せっせと取り戻そうとしているのだろう。取り戻さないと人生のもとが取れないという思いがあるのだろう。
この「ケアの社会学」という本だって、どうすればちやほやされる介護が受けられるかということを主眼に置いて書かれている。
もとを取らないと、死んでも死にきれないんだろうね。
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   4・「献身」という衝動
しかし人は普通、人生が後半になってくれば、献身という支払いをしようとするようになってゆく。なぜなら、ほんらいは生きられるはずのない乳幼児期をまわりの介護や献身によって生き残ってきたという記憶を持っているからだ。
人間は、この介護期間がほかの動物よりはるかに長い。だから、成人すると、負債の返還をはじめようとする。
しかし残念なことだが、親にちやほやされて育った人ほど後半生を献身して支払って生きてゆこうとするのに対し、ちやほやされなかった人ほどちやほやされたがったり人を支配しようとしてもとを取ろうとする傾向の生き方というか思考および行動様式になりがちだ。
ともあれ人間は長い介護期間を経て成人するのだから、誰もが心の底のどこかしらに、献身してその負債を返還してゆこうとする衝動を持っている。
その献身の衝動によって人間の集団性が成り立っている。
また人間は献身の衝動を持っているから、その集団において、ちやほやされてのさばる人間を生み出してしまう。
まあ女にとって結婚は、支払期間に入る人生の転換期だろう。子供を産めば、自分の体はボロボロになってしまうし、長い介護(育児)に自分を捨てて生きなければならない。それでもあえてその支払いをしようとするし、支払いをすることに生きてあることのカタルシスを体験してゆく。
日本列島の住民が家族介護をしようとすることは、上野氏のいうような家父長制の悪しき強制のせいでもジェンダーの問題でもない。表面的にはそのように見えようと、根源的にはそういうことではない。
人間は献身しようとする生き物であり、それはつまり「一緒に生きている」という他者との関係の上に存在しているということだ。その「一緒に生きている」という感慨の根拠が家族にあるのなら、どうしたって家族においてその献身の衝動が消費されることになる。
世の中には家族介護のトラブルもいろいろあるのだろうが、それは家族介護をすることが悪いからではなく、家族そのものがゆがんだかたちになっているからだろう。誰もがよき介護人でありよき被介護人であることができるのなら、べつに家族介護が悪いとはいえない。
家族介護において、誰も家父長制の強制による義務を負う必要はないし、家族愛にうぬぼれるほどのことでもない。ただもう「一緒に生きている」という感慨のあるところでは避けがたく献身の衝動も起きているというだけのこと。その現象をふさぐことは、誰もできない。
おまえらみたいなブスのフェミニストがなんとわめこうと、そうかんたんに家族介護がなくなるものか。
介護とは、「この世のもっとも弱いもの」に献身することだ。献身することはすべて介護だともいえる。
人は、「この世のもっとも弱いもの」に献身しようとする衝動を持っている。
われわれは、乳幼児期に「この世のもっとも弱いもの」として長く介護をされて生きてきたという負債を負っている。だから、その負債を返還しようとして「献身=介護」をする。
作家の佐藤愛子氏のように、捨てた亭主の莫大な借金を引きうけて返済していった人もいる。それだって、無意識的には「この世のもっとも弱いものに献身しようとする衝動」による介護という行為の一種だろう。
そのとき佐藤愛子氏は、めちゃめちゃむかついていたことだろう。べつに心が清らかだから献身しようとするのではない。生き物としてそのような存在の仕方をしているというだけのことだ。
献身の衝動は、生きられない存在に向かって強くはたらく。献身とは、生きられない存在を生かそうとする行為である。
だから、根源的には、新生児の育児も老人の介護も、介護において変わりはない。飯を食わせて、排泄の処理をして、風呂に入れてやることだ。
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   5・われわれは根源において負債を負って存在している
動物の赤ん坊はみな介護の対象だろうが、人間の赤ん坊は、ことにきめ細かい介護を必要とする。
人類700万年の歴史において最初の400万年くらいは、身体的に猿と同じだったから、新生児の介護もそれほど煩雑ではなかった。そこから人間的な知能や身体に進化してくるにつれて逆比例して、新生児はどんどん虚弱になっていった。
だから、介護=献身の衝動が豊かになっていった、というだけでは半分の説明しかならない。虚弱な生き物としてながいあいだ煩雑な介護を受け続けることによって「負債」の意識が強くなってゆき、その負債を返還しようとして、新生児の介護をきめ細かくしようとするようになっていったのだ。
人間は、根源的に負債を負った存在である。そういう虚弱児として生まれてくるのであれば、原始時代は、子供なんかどんどん死んでいった。ことに50万年前から氷河期の北ヨーロッパに住み着いていったネアンデルタールとその祖先たちの社会では、半分以上からときには3分の2くらいの乳幼児が死んでいったといわれている。そういう状況で生き残ってゆけば、生き残ったことの後ろめたさというか負債感は、持たないわけにいかないだろう。
ネアンデルタールほど死にそうなものをけんめいに生かそうとしていた人たちもいない。大人も子供も、みな、生きてあることの負債感を負っていた。
われわれはそういう歴史の上に立って現在に存在しているのであり、人間のそういう行為が文化や文明を発達させたのだ。
人類の介護しようとする衝動は、そのようにして発達してきた。
人間にとっての介護の問題は、上野氏のいうように「高齢社会になったから」とか、そんな昨日今日生まれてきた問題ではないのである。
ネアンデルタールの「埋葬」の習俗は、おそらく、乳幼児の死体を洞窟の土の下に埋めたところからはじまっている。
その理由は、死者の霊魂を発見したからとか、そんなことじゃない。
ここはネアンデルタール論の場ではないからかんたんにいってしまうが、「死者と一緒にいたかった」からだ。
それほどに母親のかなしみが深かったからだ。
原始人だろうと現代人だろうと、わが子に死なれて嘆かない母親などいないだろう。
そして、洞窟の土の下に埋めて一緒にいてやることは、ひとつの育児=介護の延長であった。
日本列島だって、縄文人は子供の死体を自分の家の土の下に埋めていたし、奈良時代までは貴族だって自分の子供の死体は屋敷内に埋葬していた。また、生まれてから間引きした子供を埋葬しないで甕の中に入れて床下に置いておくという農民習俗は、江戸時代まで続いていた。それは、残酷だからではない、母親のかなしみがそうさせるのだ。
母親が自分の産んだ子と一緒にいようとするのは、普遍的な本能であるらしい。
介護とは、「一緒にいる」行為なのだ。
一緒にいようとして、介護がはじまるのだ。相手が生きられない弱いものなら、介護をするしかない。まあ、介護という行為は二次的なものだ。
鳥であれ人間であれ、母親は育児をしようとする本能を持っているのではない。一緒にいようとするのが本能なのだ。鳥の母親だって、育児の技術は、一緒にいようとした結果として後天的に覚えてゆくのだろう。その技術が遺伝子情報として先天的にそなわっているなんて、どう考えても無理がある。
母親は、自分の産んだ子と一緒にいようとする……これだけが母親にそなわった本能なのだ。
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   6・他者に気づくということ
老人介護だって同じだろう。一緒にいようとすることの副次的な行為として介護が生まれてくる。根源的には介護しようとする本能があるわけではない。本能的なことをいうなら、一緒にいたいだけだ。
そして、なぜ一緒にいたいのかと考えるとき、世の知識人のように、「他者によって自分を知らされるからだ」とか、そんなことをいうべきではない。
われわれは、自分を知るために生きているのではない。自分を忘れてしまうときにこそ。生きた心地(カタルシス)が得られる。
「意識はつねに何かについての意識である」と現象学者はいったが、「何かについての意識」であるということはつまり、意識は二つのことを同時に意識できないということだ。したがって、他者に気が付いているときは、自分のことを忘れている。「他者と一緒にいる」とは、自分のことを忘れる体験なのだ。そしてそれが生きた心地(カタルシス)になるということは、われわれにとって自分を知ることがそれほどに鬱陶しい体験になっているということだ。
自分を知るとはつまり、痛いとか暑い寒いとか息苦しいとか腹が減ったとか、そういうことに気づくことだ。自分を知るとは「苦痛」を知らされることだ。その「苦痛」を処理してゆくことが、われわれ生き物の生きるいとなみになっている。だから、「苦痛=自分」を忘れてしまう体験が、生きた心地(カタルシス)になる。
意識は、先験的に自分を知っている。したがっていまさらのように自分を知る必要はない。自分を知ろうとする本能などというものはない。
生き物の生きるいとなみは、自分を忘れてしまう行為である。観念的制度的には、自己を知り自己を確立することが人間として完成することであるとか何とか、そんなことばかり合唱している世の中ではあるが、根源的には、人は自分を忘れたいのだ。
だから、他者と一緒にいようとする。他者と一緒にいることは、自分を忘れる体験である。
自分を忘れようとすることの結果として、「介護」という行為が生まれてくる。自分を忘れなきゃ、やっていられない仕事だろう。
自分を忘れてしまうほどに他者の存在に深く気づかされる体験として、介護という行為がある。介護とは、恋のようなものかもしれない。
恋のようなものであるはずなのに、恋のようなものであることができない……そこがなやましいところだ。
人は、先験的に他者の中に投げ込まれて存在している。他者を見つけ出す存在であるのではない。すでに他者と一緒に生きていることに気づく存在なのだ。家族の中で暮らしていれば、避けがたくそのことに気づかされてしまう。そこから、家族介護がはじまる。
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   7・人が介護を引き受けるわけ
家族で介護するなんてせつなくてやりきれないことだろうな、と思う。それでも人は、家族介護を引き受ける。そこにはたぶん、生き物としての根源的な衝動が息づいている。
われわれ生き物は、体の細胞がぜんぶ新しいものに変わっても、まだ同じ自分の体をつくってゆく。そういう「自己複製=ミーム」の本能を持っている。一緒に生きてあることに気づかされたら、一緒に生きてゆこうとする。これは「自己複製=ミーム」の衝動だ。
「自己複製=ミーム」の能力を失った生きられない存在を前にすれば、みずからの「自己複製=ミーム」の衝動が揺るがされて、どうしても気になってしまうだろう。
家族の誰かが病気になるなどすれば、より深く一緒にいることに気づかされる。
要介護の老人とか障害児とか病人とか傷ついた引きこもりの子供とかを抱えている家族のものは、より深くそのものと「一緒に生きている」ということに気づかされている。何はともあれ家族がそういう空間であることは、疑えない事実だろう。そのようにして、家族介護がはじまる。
そのせつなさややりきれなさは、「家父長制」がどうの「ジェンダー」がどうのとわめいているブスのインテリ女にはわからないだろう。
現在の介護制度の実態とかいかにあるべきかということなど僕にはわからないし、そんなことをどうこういう趣味も能力もない。
ただ、上野千鶴子氏の、人間に対する思考のレベルの低さや浅さや、人間としてのセンスの悪さが気にくわないのだ。身分は東大名誉教授かもしれないけど、ただの低脳だよ。しかも、ブスがそのルサンチマンによるがんばり根性を発揮してこの世にのさばっているというのは、すごく目ざわりなんだよね。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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