「ケアの社会学」を読む・6・なぜ挫折するか

   1・できる人が引き受ける
現在のこの国における介護状況の進捗を阻んでいるものは何か。
何はともあれまずはじめに行政の怠慢があるのだろうが、上野氏は、そのことも含めて男社会の「家父長制」という習俗が人々の意識をむしばんでいることが大きな障害になっている、といっておられる。
そういう習俗というかこの社会の共同幻想が、女が介護を引き受けざるを得ない立場に追い込んでいるし、女の仕事だという意識があるから介護労働の賃金が低いままになっている、と上野氏はいう。
家事労働は、男社会だから女の仕事になっていったのか。そうではないだろう。女の方が上手だから、自然のなりゆきとしてそうなっていったにちがいない。
少なくとも人間性の根源において、仕事が生きがいだなどということはあり得ない。誰だってプライベートで飯を食ったり語り合ったり恋をしたりセックスしたりすることの方がいいに決まっている。
仕事が生きがいだという人だって、そこにプライベートな人間関係や知的好奇心を満足させる何かがあるからだろう。労働そのものが生きがいになるわけでも人間性の証しになるわけでもない。
基本的に労働とは、できる人が引き受けるしかない、という行為なのだ。
大芸術家や大学者や大政治家の仕事だって、基本的には「できる人が引き受ける」というかたちで成り立っているし、介護や主婦の家事労働だろうと土方仕事だろうと娼婦の仕事だろうと、つまるところは「できる人が引き受ける」というかたちで自然に歴史的にそうなっていったのだ。
そのようにして世の中が成り立っているのではないだろうか。
労働なんて基本的にはしょうがなくやるものだから、できる人がやるしかない。天皇の仕事だって、天皇にしかできないから天皇が引き受けているのだ。天皇だって、好きでやっていると思われたらいい迷惑だろう。それが自分の運命であり、自分がやるしかないから引き受けているだけだろう。
また、やりたいと思ってがんばればいい天皇になれるわけでもないし、そんな人間に天皇としての品性なんか誰も感じない。天皇の品性は、そんな自意識をすっかり濾過していることにある。そこが、どこかの国の大統領との人間としての格の違いだ。
古今亭志ん朝は、若いころは落語家以外の仕事をしようとあれこれ試行錯誤していた。しかし、彼以上に落語がうまく語れるものというか「江戸っ子の粋」を表現できるものはいなかったから、けっきょく「自分がやるしかない」というかたちでその仕事を引き受けていった。
娼婦の仕事だって、望むと望まないとにかかわらず、できる女が引き受けているのだ。
「仕事に貴賎はない」といいながら仕事を尊敬せよというのは、詭弁(まやかし)にすぎない。仕事は、できる人がしょうがなく引き受けるしかないことであり、仕事そのものが尊敬に値するのではなく、しょうがなくそれを引き受けていること、その仕事をこなす能力があること、すなわちそういう「人間」が尊敬に値するのだ。
できる人間が引き受けていることだから、その「できる」ということは尊敬に値する。
ただ「手が空いているから」という理由でもよい。とにかく「できる人間が引き受ける」のが仕事だ。仕事そのものの価値などない。
そして、「できる人間」には、どんなにがんばってもかなわないのである。
立川談志は、「江戸っ子の粋」というものがよくわかっていた。だからこそ、どんなにがんばっても志ん朝にはかなわないということも、ひといちばい深く自覚していた。
介護の仕事だって同じだ。がんばれば誰にでもできるという仕事ではない。そのがんばりが仇となって離職してゆく人がたくさんいる現場なのである。介護こそ、できる資質を持った人が引き受けるしかない仕事なのだ。
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   2・介護労働はなぜ賃金が安いのか
介護労働ほど人々に尊敬され、多くの人がボランティアであれ専業であれそれに従事しようとする仕事もないというのに、どうして賃金が安いのか。
早い話が、あまり儲かる産業ではないからだろう。大ヒット商品を生み出して大儲けをするということはないし、ボランティアをたくさん集めることができるのなら、プロの数は、そう多くなくてもよい。
大切な仕事だから賃金を上げるべきだ、という理屈は成り立たない。誰もがやりたがって誰もができるのなら、賃金が上がるはずがない。マルクス主義的な経済の問題として考えるなら、そうなるに決まっている。
くたびれた老人を生きさせて長く介護し続けるなんて、社会経済の活性を阻んでいる元凶以外なにものでもない。老人なんか、さっさとくたばってくれた方がずっと経済は活性化する。
社会経済的には、老人は生きさせてはならない存在なのだ。介護産業が充実することは、社会経済が停滞することと同義である。
介護産業は充実してはならないのだ。介護産業が、社会経済の足を引っ張っている。
病院で病気を治すことはわけが違う。介護老人とは、社会復帰できない人たちなのである。社会が安定的に存続するためには、そういう人たちをいつまでも生きさせていてはならない。
老人介護は、本質的には老人のニーズにこたえている仕事ではない。本質的には、ニーズなど存在しないのである。相手はさっさと死んでいってくれた方がありがたい存在であり、相手だって、さっさと死んでゆけたらどんなにさっぱりするか、と思っている。
それでも人間存在は、そういう老人たちを介護せずにいられない衝動を持っている。健常者の方がせずにいられないからしているだけである。
そしてそれは、誰でもできる仕事ではない。介護こそ、できる人にしかできない仕事なのだ。
それは、根源的には社会の要請の上に立った仕事ではないのである。したがって社会の側に立った人間の考える「介護=ケアの論理」は、いつだって行政官のように腰が引けたものや、上野千鶴子氏のように倒錯的なものになるしかない。
その仕事は、精神的にも立場的にも、社会の外に立っているもの、すなわち人間性の根源の場に立てるものにしかつとまらない。
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   3・誰にでもできる仕事ではない
老人介護という仕事は、教育すれば誰でもできるようになるというような簡単な仕事ではない。できる人にしかできない。そういう社会的なコンセンサスがなさすぎるし、専門学校等のカリキュラムがちゃんと確立されているかといえば、そうともいえない。上野千鶴子氏のようなわけのわからない言説をふりまく知識人や行政官や事業者たちの介護に対する意識と現場の介護士たちの意識のあいだにずれがある。
だから、専門学校を卒業すればすぐ即戦力になるかといえば、そうともかぎらないらしい。
介護士という職業は、とても離職率が高い。それは、ただ給料が安いというだけのことではない。できる人にしかできない仕事だからである。給料が上がれば離職する人も少なくなるかといえば、おそらくそんなものではない。たいていの場合は、給料が安いからではなく、わけのわからない年寄りを相手にして、精神的に傷つき疲れ果ててやめてゆくのだ。
自分が宿直のときに誰かが死んでしまったらどうしようとか、それだけでもすごいストレスにちがいない。まわりが寄ってたかって、生きさせるのが仕事だ、そこにこそやりがいがある。などと扇動しまくっている状況なのだもの、そこから追いつめられてどんどんストレスがたまってゆく。
「生きられない」人たちが集まっている現場なのだ。「生きられない」人を生きさせるのが仕事ではない。「生きられない」人は生きていない方がいいのであり、しかしそれでも「生きられない」という嘆きとともに生きてあるのが人間存在の根源的なかたちであれば、こちらもその嘆きを共有してゆくしかないし、それが共有できる人でなければつとまらない。
優秀な介護人は、みずからが心の底に「もう生きられない」という嘆きを持っている。そしてそういう嘆きは、社会の制度性から離れた立場のものほど深くたしかに持っているのであり、介護のなんたるかのご託を並べている世の中の勝ち組の人間にはわからない心の世界なのだ。
この世の中に給料の安い仕事なんか、いくらでもある。それでも、精神的に傷つき疲れ果てることがなければ10年でも20年でもつとまる。
ボランティアはたくさんいる。でも、その中から専業の介護士になれる資質を持った人なんか、ほんのひとにぎりしかいない。ほとんどの人は、生活や人格をおびやかされないボランティアの立場だからつとまっているだけである。
つまりこの仕事は、もっとも安い給料でも(無給でも)できる仕事であると同時に、たとえ給料が高くてもできない人にはできない仕事なのである。
基本的には、やっかいな老人ばかりだろう。それでも長く続けられるとすれば、それは、人が死んでゆくということにちゃんと向き合うことができて、そのかなしみを老人と分かちあうことができる人だろう。
いうことを聞いてくれるかとか、心が通い合うかとか、相手に「よき被介護人」であることを要求したり期待したりする人は、おそらく長続きしない。そこに「生きられない人」がいる、ということに対するかなしみと共感が、人をして介護に向かわせる。そういう心の動きを持てるかどうかはもう、資質の問題で、誰にでも持てるわけではない。ただ心がやさしいとか、そんな問題じゃない。やはり「自分を捨てられるかどうか」という問題は大きいのではないだろうか。
人間存在が根源において抱えている「もう生きられない」という「弱者」の嘆きを老人と共有してゆけるか。人間の心の底にはそういう「嘆き」が息づいているから、「生きられない人」を介護献身したくなってしまうのだ。
「もう生きられない」という「嘆き」とともに生きてあるのが人間存在の根源的なかたちである。その「嘆き」を共有してゆくことによって介護の現場が成り立っている。
自己実現」などということを欲しがっていたら、必ず挫折する。そういう「満足」のある現場ではない。そういう「満足」は、現場にはいない行政官や事業者や介護を語る知識人たちのもとにだけある。
生きてあることの「嘆き」とともに自分を捨てることのできる人でなければ、現場では長続きしない。
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   4・そこに「ニーズ」などというものは存在しない
上野氏のいうように、被介護老人は「依存的存在」で介護されることを求めている、と思っていたら間違う。上野氏のいうそういう「ニーズ」などないのだ。本人はさっさと死んでゆきたいと願っているし、社会もそうしてくれたらありがたいと思っているのであれば、それは、根源的には経済行為として成り立たない行為なのだ。
年寄りから頼りにされている、と思ったら間違う。
われわれは求められているのではない。われわれが介護したがっているだけなのだ。したがって、彼らに感謝されることを求めるべきではないし、彼らに従順であることを要求する権利もわれわれにはない。そういう条件で彼らとともに生きることのできる人だけが、介護=ケアという行為を続けてゆくことができる。
誰にでもできる仕事ではない。できる人が引き受けるしかない仕事なのだ。
まあこの仕事は、いかにも人道的だから、そういう仕事に携わる自分に満足と誇りが得られると思いがちだが、それを得ようとして挫折してゆく。そして、まわりが寄ってたかって、それが得られる仕事である、と扇動しているのだが、ほんとうは人道的でもなんでもないのだ。さっさと死なせてやることの方がずっと人道的かもしれない。
年寄りの側からの「ニーズ」というのなら、さっさと死なせてやることにあるのだ。
年寄りであろうとあるまいと、人間なんかみんな、さっさと死んでゆきたいのにさっさと死んでゆくことができなくて途方に暮れている存在なのだ。
だから、「小さな死」としてのセックスを提供してくれる娼婦の仕事の方が、よほど人道的なのだ。
生きることは、さっさと死んでゆくためのトレーニングであるのかもしれない。
人間は、さっさと死んでゆきたいのにさっさと死んでゆくことができなくて途方に暮れている存在だからこそ、「生きられない人」を介護せずにいられない衝動を持ってしまう。
介護しながら人は、さっさと死んでゆくためのトレーニングをしている。介護者は、老人からそういうトレーニングをさせてもらっているのだし、そういうトレーニングをすることに生きてあることのカタルシス=快楽がある。
誰だってさっさと死んでしまった方がいいのに死ねないで途方に暮れている存在なのだ。
人間は死んでゆく存在である、ということを、これほどたしかに切実にわからせてくれる現場もない。その事実を、被介護老人と一緒にかみしめることが、介護=ケアという仕事なのだ。かみしめることができる人でなければこの仕事はつとまらない。
「老人と生きてあることのよろこびを共有する」とか「生きられない老人を生かしてやっている達成感」とか、そんなまやかしがいつまでも続くはずがない。人と人の「共感」はそんなところにはない。彼らは、できることならさっさと死んでゆきたいのにそれができなくて途方に暮れている人たちなのである。その気持ちと「共感」できなければこの仕事はつとまらない。
「もう生きられない」という嘆きを共有してゆくことのできる人だけが、この仕事を引き受けることができる。人と人のほんとうの「共感」はそこにこそある。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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