「ケアの社会学」を読む・4・介護ができる人とできない人

   1・介護とは、生命を再生産する仕事か
上野千鶴子氏が、フィールドワークとして、老人介護の現場で働いている人たちの話を聞く。「そうか、そうか」とうなずく。そして、そのあとの上野氏のアドバイスを聞いた現場の人たちも「なるほど」と納得し、ともに話を交わしたことの成果を実感する。
このとき、両者のコミュニケーションは絶好調に機能しているかのように見える。
両者は、現在の介護業界の言葉や思考のパラダイムをあらかじめ共有しており、その文脈で語り合っている。
しかしそこで交わされた言葉が、彼らの心の底の本音をそのまま表しているかといえば、それはわからない。ひとまず両方ともそのつもりであったのだが、それが「言葉」であるかぎり、すでに社会の通念にはめ込まれている。
勝ち組の有名人である上野氏は、実際に介護の現場で働けるような人種ではない。
そして実際に現場で働いている人たちは、いままで読んだことのある本の中から言葉を探しているし、その文脈に影響された思考回路で自分の心境を把握している。
どちらも、本音など語っていないのかもしれない。
ほんとうのところは、両者は、そうかんたんにわかりあえるような関係ではないのかもしれない。
たとえば、どのような人が長続きして優秀な介護者になってゆくかはもう、資質の問題だろう。上野氏のいうような成熟した市民意識を持てばそういう介護者になれるわけでもないし、給料に満足できればそれでいいともいえない。
なんといっても、きつい汚れ仕事だし、あまり見たくはない、人の老いと死に向き合い続けなければならない。そういうかなしみから生きてあることのカタルシスを汲み上げてゆくことのできる人が長続きするのであって、「よろこび」とか「やりがい」とかがそうかんたんに転がっているような現場ではないにちがいない。
少なくとも老いと死に向きあい続ける能力(度胸)は、男よりも女の方が豊かにそなえているのだが、それを上野氏のいうように「人を生かす(人の命を再生産する)仕事」と規定すると間違う。老いと死に向きあい続ける仕事なのだ。
滅んでゆく人間、壊れてゆく人間と向き合い続ける仕事なのだ。
実際には、「生命を再生産するよろこび」の上に成り立っているのではあるまい。上野氏のような知識人たちに洗脳されて介護する本人もそれを仕事のやりがいにしているつもりになっているが、おそらく現実問題としてそれだけで自分を支えようと思っても無理がある。
歩けなかった人がまわりのリハビリ介護で少し歩けるようになったのなら、一見「生命を再生産した」ような現象だが、そのこと自体に老いと死の影は付きまとっている。付きまとっているから感動的であるわけで、再生産してやったという介護する側の自己満足だけでは限界がある。
なんだか知らないが、上野氏は、介護するものに自己満足を与えてやれば問題が解決すると思っているふしがある。
たぶんそうじゃない。自分を忘れて感動する体験を紡いでゆけるものが長続きする。
上野氏の仕事にはいろいろと達成感があるのかもしれないが、介護するものの仕事は、対象が死ぬという喪失感で終わるのであり、喪失感と背中合わせで仕事をしているのだ。
そのかなしみと、かなしみゆえのカタルシスは、上野氏にはわからない。
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   2・団塊世代はよき被介護老人になれるか
世の中の勝ち組の人間には介護をする能力はない。そんな人間たちが介護の現場にいる人たちの意識をリードするというのは、何か変だと思う。
行政や知識人や経営者たちは、「命を再生産する」という正義と使命感を掲げているのだろうが、実際に現場で働いている人たちはそれだけではすまないし、それを根拠に自己満足を得ようとしていると挫折する。
それは基本的には自分を捨てて献身してゆく仕事なのだから、自己満足をまさぐりたがる傾向の強い人には向いていない。しかし自分を捨てれば、そのぶん意識は自分の外に向いてゆくのだから、感動が生まれやすい場であるともいえる。
何に感動するのか。
「命=生きてあること」ではない、「人間」に感動するのだ。
それは「命=生きてあることを再生産する」仕事ではない。「滅びてゆくことを見守る」仕事なのだ。そしてその姿から人間に対する感動があるのなら、いっとき仕事のつらさも忘れられる。
しかし、いかにも「神に近い存在」として、人間に対する感動が与えられる老人はめったにいない。ことに、上野氏みたいな自己顕示欲のつよい団塊世代が続々と被介護者になってゆく時代になれば、いったい介護の現場はどうなってしまうのだろうと暗澹とした気分にさせられる。
団塊世代の被介護老人ばかりの現場なんて、想像しただけでもぞっとする。自意識過剰の団塊世代的「民主主義の市民」が人に感動を与える被介護老人になれるなんてありえない。
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   3・依存的存在
フェミニストである上野氏は当然、介護現場の改善を目指すことは女の解放につながると考えておられるようだが、その前に、世の中には介護ができる人間とできない人間がいるという事実を考える必要がある。それはもう、できる人間が引き受けるしかない。そういう現実がある。
人間なら、誰の心の底にも「もう生きられない」という嘆きが疼いている。そういうことを僕は前回のネアンデルタール論でずっと言ってきたのだが、人は、そういうせっぱつまった無意識を秘めながら介護という行為をしているのではないだろうか。
暖衣飽食のふやけたわがもの顔で生きている勝ち組インテリごときにわかるような世界ではないのだ。
上野氏は、なにかというとすぐに「ジェンダー」の問題にこじつけてしまうのだが、男だろうと女だろうと、現代社会においては、介護(=献身)ができる人間とできない人間とに二極化し、ひとりの心の中でもできる心とできない心のあいだを揺れ動くようになってしまっていることは、この社会の構造を考える上でそれなりに小さくはない問題だろうと思う。
そうしてできもしない人種がやたらとのさばって勝手な説教を垂れ、実際の現場に置かれている人たちの心に大きな影響を及ぼしてしまっているという現実があり、できるはずの人ができなくなってしまったりというようなことも起きている。
また、介護を受ける人の依存心を肥大化させる結果にもなっている。
上野氏は、介護を受ける人のことを「依存的存在」といっておられる。そうやって決めつけてしまう言い方が、介護を受ける人の依存心を肥大化させてしまうのだ。彼らが何も依存しようと思っていなくても、人間社会は彼らを介護しようとする衝動を根源的に持っているのだ。「依存」されているから介護してやるのではない。人間社会が勝手に介護せずにいられない衝動を持っているからだ。
彼らは「依存的存在」ではない。人間社会の彼らを介護しようとする衝動が、彼らの依存心をつくってしまっているのだ。
ひとりで朽ち果ててゆくしかない、という状況なら、そう覚悟を決めることができるのが人間である。人間は、みずからの運命を受け入れる。そうやって「姥捨て」の風習が生まれ、現在でも「孤独死」ということが起きている。
人間は、介護を受けることなく孤独に死んでゆくことだってできる存在である。それを、勝手に「依存的存在」などと決めつけて平気でいるなんて、ずいぶん傲慢な思考回路である。社会学なんて、その程度の人間理解ですむ学問なのか。
「依存的存在」だなんて、なんか差別的でいやな響きの言葉だよね。おまえらのそういう言い方が、介護をする人もされる人も追いつめているのだ。
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   4・感動体験
依存されているんじゃない、人は介護をせずにいられない存在なのだ。
生まれたばかりの赤ん坊だって、依存心なんかない。ただもうみずからの生の受難を嘆いて泣いているだけだ。お母さんを呼んでいるのではない。
そのとき依存心は、母子関係や社会の制度性などによってつくられてゆく。
先験的に依存的な老人や赤ん坊や身体障害者などいない。この社会の制度性が、「依存的存在」をつくりだすのだ。
上野氏をはじめとする世の知識人が「依存されているから介護をしてやる」という論理で、どんなに社会学的な技術論方法論を語ろうと、それでも人の心の底には「この世のもっとも弱いもの」に献身しようとする衝動が息づいていることは肯定してゆくしかないのではないだろうか。
そこにおいて上野さん、あなたは介護ができる人種だとは、僕には思えない。いずれ自分も介護を受ける立場になるという未来だけはひといちばいリアルに感じておられて、そのときになって心おきなくひとより快適な介護を金で買える社会環境を整えておきたいのだろうが、果たしてそのようにうまくいくか?
人は、最後の最後には、心も体も自分ではどうすることもできなくなってしまう。老人介護はそこからはじまるのだろうが、そのように裸一貫の自分がさらけ出されたとき、人は、どんな振る舞いをするのだろう。それは、誰もが生まれたばかりの無邪気な赤ん坊の心になる、ということではない。われわれの無意識は、時代環境によって決定されている部分や、生まれ育ちによる部分や、その人の人生体験などによって定着していったその無意識が、最後の最後であらわれてくるのだ。
ほんとに生まれたばかりの赤ん坊のようなイノセントな振る舞いや表情のできる年寄りなんて、めったにいない。無意識というか潜在意識は、後天的につくられるのだ。
自意識過剰のインテリ女には、自意識過剰のインテリ女の無意識がある。美人でもないのに美人ぶって暖衣飽食に明け暮れて生きてきて、最後の最後でどんな自分をさらけ出すのか。ほんとうに自分の設計図通りにいくのだろうか。
べつに設計図通りの人生でもいいのだけれど、われわれ庶民の世界ではほとんどそのようにはいかないし、老後なんかなりゆきまかせで運命にしたがってゆくしかない。
社会の制度設計も大事だろうが、それだけではすまない部分はどうしても残るし、知識人や権力者による制度設計によって人の心がゆがめられてしまう、という部分もある。
世の中には、介護できる人間とできない人間がいて、社会の制度設計は、おおむねできない人間たちがやっている。そして、誰の心も、介護ができる心とできない心のあいだを揺れ動いている。
僕は、介護の能力はおおむね女の方が豊かにそなえていると思っているが、女だって、できない人間はできない。それは、「ジェンダー」の問題に回収してしまうべきではない。男だってできる人間はできる。僕はだめかもしれないが、介護ができないフェミニストの女にあれこれ語られても納得できないことは多いし、その語り口が介護の当事者たちの心を変な方向に誘導してしまう危険もおおいにあるにちがいない。
感情的な物言いをさせていただければ、田舎っぺのくせにフランス料理がどうのこうのといってはしゃいでいる人間に、介護なんかできるはずがないさ。
人にちやほやされたがって自己PRばかりしている勝ち組のインテリ女に、介護とか献身のメンタリティなんか期待できるはずがないじゃないの。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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