「ケアの社会学」を読む・3・われわれに介護を受ける権利はあるのか

   1・それでも人間は、介護という行為をする
介護とは何かと問うことは、この世の弱いものとは何か、と問うことでもある。
人間は、存在そのものにおいてすでに弱いものである。人間存在は、無意識の底の「もう生きられない」という嘆きの上に成り立っている。その嘆きこそが人間を生かしている。
「もう生きられない」と思った瞬間、死ぬことが人間の仕事になる。生きるとは、死ぬという仕事を持つことだ。死ぬという仕事を持つことが人間を生かしている。そういう仕事=命題を抱えて生きているから人は、死にそうなものや生きることが困難な者の介護をする。つまり、そういうものたちに死の気配を感じ取り、そこに引き寄せられてゆくのが「介護=ケア」という行為だ。
だから、基本的に、生きることの困難を抱えて死ぬという命題を自覚している「弱いもの」にしか介護の行為はできない。
いや、誰においても、人が人にときめくとは、じつはそういうことであり、根源的には、死の気配に引き寄せられてゆく現象なのだ。
われわれが人間として生まれてきたことの最大の仕事は、死んでゆくことにある。
その人が無事に死んでゆくことができる手伝いをするのが、老人介護という行為なのだろう。
生きることの手伝いをするのではない、死んでゆくことの手伝いをするのだ。
幸せに生きたからといって、幸せに死んでゆけるとはかぎらない。どんなに幸せに生きても、最後の最後で悪あがきして死んでゆかねばならない人はいくらでもいる。認知症になってまわり中に迷惑をかけて死んでゆくことを望んでいる人もほとんどいないだろう。
生きてあることは幸せで、死んでゆくことは不幸だ、ともいえない。したがって、人を生かすという行為に倫理的な正当性は成り立たない。
べつに、誰だっていつ死んでもかまわない存在なのだ。
それでも人間は、介護という行為をする。それでも人は人にときめき、献身する。
人間であるなら、生きてあるのはしんどいことだという思いは、誰の中にもある。だって、誰もが何かの間違いとして生かされてあるのだもの。しかし、そういうかたちで生かされてあるからこそ、人は人にときめきもする。
世界や他者にときめくとは、意識が自分から離れて世界や他者に向いてゆくことである。自分が大切で自分が好きであるのなら、意識が自分から離れてゆく契機がない。人間は何かの間違いで生まれてきてしかも死ぬという仕事を課題として背負っている存在だからこそ、意識が自分のところから離れて世界や他者にときめいてゆくのだ。
生きてあることのとまどいやおそれから逃れることのできる人間なんかどこにもいない。たとえ天皇であれ、総理大臣であれ、大富豪であれ、大学者であれ、大芸術家であれ、そういう感慨の上にこの生を紡いでいる。そういう感慨の上に人間的ないとなみが成り立っている。
人間は、誰もが心の底で「もう生きられない」とせっぱつまっているから、意識が自分から離れて世界や他者に対する関心や反応のダイナミズムが生まれてくる。そこのところが信じられなければ、介護なんか成り立たない。
「ケアの社会学」の著者である上野千鶴子氏のように、自分をまさぐることばかり熱心な人間にそれを語られても、われわれは納得することができない。
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   2・介護をすることの尊厳
誰もが何かの間違いでこの世に生きてあるのだから、介護を受ける権利を持った人間なんかどこにもいない。死んだらいけない人間なんかひとりもいない。誰だって、とにかく命ある生き物なのだから、明日死んだとしても文句は言えない。これが、われわれがこの世に生きてあることの基本的なかたちだろう。
ただ、人は、生きられない人間を介護したがる生き物でもある。
というわけで、介護をするかしないかは、する人の恣意性にゆだねるしかない。
これに対して上野氏は、「誰にもケアを受ける権利があり、その相手とケアの内容を選択する権利がある」といっておられる。
もっともらしいご意見だが、この先ますます高齢老人が増えてゆけば、介護を受けられなくて孤独死する老人はさらに増えるにちがいない。
「家族のものが介護をする」という原則だってしだいに崩れていっているし、介護する人の絶対数もさらに足りなくなるだろう。そうしてけっきょく、裕福な人間が金にものを言わせて質のいいケアサービスを独占することになってゆく。
つまり、「ケアを受ける権利」などというものは、金のあるところでしか成り立たない。金のある人間にしかそんな権利は主張できない。
金もなく6畳一間のアパートで暮らす老人が、そんな権利を主張できるか。できないし、する気もない。その人の介護はもう、行政だろうと隣近所だろうと、まわりの人間のケアしようとする恣意性にゆだねるしかない。
人間は、ケアしようとする生き物であると同時に、孤独死野垂れ死に)してもしょうがない、と思ってしまう生き物でもある。あなたたちがどんなに「命の尊厳」を叫ぼうとも、人間は誰もがどこかしらに「何かの間違いでこの世に生きてある」という思いを抱えている。その思いを消すことは誰にもできないし、弱いものほどその思いを切実に抱えている。
体の動かない老人に生きる権利などない。死ななきゃならない義務もないが、ケアすることは、ケアする人の恣意性にゆだねるしかない。
「ケアを受ける権利」など叫んでも、ケアする人の数や質が向上するわけではない。それがかえって、ケアする人のモチベーションを下げ、その数も減らしてしまう。
世の権力者や知識人たちが「命の尊厳」とか「ケアを受ける権利」などと合唱してケアをする人を脅迫していったから、家族間のケアが崩れてきたのだ。つまり、ろくに介護をする能力もないこの世の「勝ち組」たちが自分たちの正当性を守るためにそんな愚にもつかないへりくつを捏造して、実際に現場にいる人たちを追いつめていったのだ。
ケアするかしないかは、ケアする人の勝手なのだ。そのことの尊厳は守られなければならない。守られることによって、はじめてケアする人の質も数も向上する。
ケアすることの「義務」などといって縛られたら、つらくてあほらしくて、投げ出したくなってしまう。
われわれはもう、人間はケア(介護)しようとする生き物だということを信じるしかない。
そして、死んでしまったらいけない人間もひとりもいないのだ。
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   3・人間に介護を受ける権利はあるのか
上野氏は、「(介護を受ける権利があるのだから)誰もが自分が要介護者であることを申告できる主体性を持たねばならない」といわれるのだが、いちばん介護が必要なはずの認知症の老人にはおそらくその能力はないし、誰もが歳をとればしだいに頭がぼんやりしてゆくのであれば、そのときなって要介護者であることを申告するだけの主体性を持てといっても無理だろう。
だいいち、ケアするものにとって、自分にはケアを受ける権利がある、と思っている老人ほど鬱陶しい対象もいないだろう。ケアを受ける権利など誰にもない。それは、ケアする側の献身性の上に成り立った行為なのだ。
どんなに高い代価を払っていても、そういう傲慢な意識があるかぎり、介護者との良好な関係は結べない。そんな権利だの義務だのという正義ぶった市民意識から解き放たれたイノセントな自覚はやっぱり必要である。
ソープランドに行って、自分は金を払ったからやらせてもらえる権利がある、と思うわけにはいかない。それでも、やらせてもらえるかどうかは「向こうの勝手」なのだ。セックスなんて女の献身性の上に成り立った行為であり、向こうが献身性としてやらせてくれるかぎり、こちらもいくぶんかの献身性は差し出す必要がある。やらせてくれなくても文句はいわないという態度を示すことによって、はじめていいサービスが受けられる。これと、まったく一緒ではないだろうか。
歳をとればボケてくる。子供に還る、などともいう。その人の無意識(イノセント)がさらけ出されてしまう。
われわれは歳をとって無防備な裸一貫の人間になってしまうのである。そのときに「自分にはケアを受ける権利がある」とか「生きる権利がある」とか、そういう下品なスケベ根性があれば、顔にも態度にもあらわれてしまう。人は、そんな老人を進んでケアしてやろうと思うだろうか。
そんな俗物根性丸出しの市民意識が、そんなにも素晴らしいか。アホらしい。要介護の老人は、すでに「市民」であることから逸脱し、半分は神の国の住人になってしまっているのである。
上野氏は、「当事者主権」などという概念とともに、さかんにそうした「主体性」を持てといわれるが、そんなことをして気取っていられないのが「要介護者」の心の世界ではないだろうか。
いいかえれば、その「主体性」こそが、介護士を憂鬱にさせるのだ。
老人介護の現場というのは、「ケアされることを強制されない権利」だとか「ケアを受ける相手やケアの内容を選択する権利」だとか、そんな横着なことをいっていられる状況ではないだろう。そして、どんなに社会が豊かになって社会保障が発達しても、介護とは根源的にそういう関係ではないのだ。
人間は、ケアされることに権利だの何だのといっていられる存在ではないのだ。そんなこというなよ。日本のフェミニズムなんて、こんなにもくだらないのか。
人間なんて、野垂れ死にしたって文句はいえない存在なのだ。
それでも人は介護をせずにいられない生き物なのであり、それはもう、直立二足歩行の起源以来ずっと続いてきた人間の歴史の伝統なのだ。
野垂れ死にしたって仕方のない存在なのに、それでも人は介護をせずにいられない何かを抱えて存在している……そこにこそ人間であることの証しがある。
それは、人間であるかぎり誰もが心の底に「もう生きられない」という嘆きを抱えて存在しているからだ。その嘆きから生きてあることのカタルシスを汲み上げながら、泣いたり笑ったりときめいたりして生きている存在だからだ。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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