「ケアの社会学」を読む・2・「間引き」と「姥捨て」

前回はけっこう挑発的な書き方をしてしまったが、そのことについて上野千鶴子氏本人はともかく上野シンパの人からの抗議なり反論のコメントをもらえるだろうか、という期待も少なからずあった。
気に入らないのは承知で読みはじめているのだから、多少はそういう刺激が欲しいし、もともと叱られないと態度が改められない自制心のない人間なのだ。
上野千鶴子の本を読むなんてゴミ溜めを漁るようなものだ、といっている人もいる。その気持ちはなんとなくわかるし、僕だってほめようという意欲なんか持っていない。
でも、この本の値段の2850円を払うことを惜しいとは全然思わなかった。
何はともあれ、弱者とは何かとか、人間社会の結束とは何か、という問題を考えるためのきっかけにはなりそう思えた。それは、ネアンデルタール人のところから引きずってきて、いまだにさっぱりしない課題である。
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   1・他者の非対称性
上野氏によれば、他者との関係の根源は「自分と同じ人格を持った個人として尊重する」ということにあるのだとか。
しかしまあ、何さまか知らないけど、よくそんな傲慢な態度が取れるものだ。
そうやって他者を自己正当化の道具に使うことが人間であることの本質なのか。笑わせてくれる。
僕には、そんなご立派な自分の持ち合わせがない。自分と同じなら、しょうもない人間に決まっている。
他者をこの世界における自分よりもたしかな存在として驚きときめき、そしてひざまずいてゆく……自分消す、という態度……これが、日本列島の伝統的な文化だ。そうやってわれわれは、深くお辞儀をし、「つまらないものですが」といって贈り物を差し出す。
自分に対する意識を消して、他者の存在に驚きときめいてゆくこと、すなわち、献身すること。介護の問題はここからはじまる。人間なら誰だって、心の底にそういう感慨が息づいている。だから、現在の介護福祉に携わる人たちがあんなにも献身的な態度がとれる。献身的にならないとやっていられる仕事ではない。
赤ん坊を育てるお母さんだって同じだ。生き物は、この世の弱いものに献身してゆく本能を持っている。
自分と同じ存在だと思うのなら、そんなことくらい自分でやれよ、ということになる。
この世のもっとも弱いものは、もっとも神に近い存在なのだ。弱いものであることの尊厳を感じなければ介護なんてしんどい汚れ仕事はやっていられないし、われわれ人類は、そういう他者性の伝統文化を持っている。
しばしばこの国の意気がった知識人が「日本人には<他者>という意識がない」などいう。そんなことをいわれると僕は、「おまえの語る<他者性>に何ほどの真実があるというのか」といい返したくなる。
日本人には、上野氏のいう「自分と同じ人格を持った個人として尊重する」というような安っぽい他者意識も市民意識もない。
「他者の非対称性」ということを、日本人ほど深く自覚している民族もないのであり、その意識によってわれわれは他者に献身してゆく文化をはぐくんできた。
これは、倫理・道徳の問題ではない。そんなものは、江戸時代の儒教教育によって生まれてきた意識にすぎない。
人は、上野氏のいうような「自分と同じ人格を持った個人として尊重する」などという気持ちで介護に携わっているのではない。実際に介護の現場にいる人に聞いてみればいい。「自分よりも神に近い存在」として献身してゆかなければやっていられない仕事であり、「自分と同じ人格を持った個人として尊重する」というような傲慢な気持ちの態度でやっているものから順番に脱落してゆくのだ。
そんな薄っぺらな「正義」で介護が成り立つはずもないし、介護する人たちの給料を上げてやれば解決するという技術的な問題でもないはずだ。
それは、誰にとってもできればやりたくない仕事であると同時に、そこでしか汲み上げることのできないよろこびがある仕事でもあるのだ。
だから人はそれを安い給料で引き受けてしまうし、人間は根源的に命というものをそれほど重いものだとは思っていない。
人を生かす仕事だからもっと給料が高くてもいいはずだという理屈は成り立たない。われわれがこの世に生きてあることなんかたんなる間違いであり、かりそめの一瞬の事態にすぎない。われわれのいちばん大切な仕事は、「無事につつがなく死んでゆく」ということにある。人を生かすことは、それにそむく仕事である。
まあ現実の老人介護問題として、身内の本音としては、「さっさと死んでいってくれたら助かる」という思いはないわけではないし、介護される本人だって「ぽっくり死んでゆけたら」とどこかしらで願っている。
そういう条件下でなされる仕事だから、どうしても給料が上がりにくいし、階級の低いものにやらせようともしてしまう。
人は何かの間違いで生きているだけだが、それでも生きるほかない与件も負っている。
介護の仕事には、不可避的にそういう不条理が付きまとっている。
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   2・「間引き」と「姥捨て」
この国には、献身的な介護の文化と同時に、生まれたばかりの子供を「間引き」したり、年寄りを山に捨ててくる「姥捨て」の風習もあった。
間引きは、縄文時代からあった。
縄文集落は、女子供だけの共産集落で、子供も集団で育てていた。ひとりの女がたくさんの子供を持てば、限られた食料の配分などに不平等が生じるし、親族の多い少ないの差も出てくる。だからそれは許されないことであり、誰もが自発的に間引きしていたのだろう。
そしてそういう子供は、家の入口の土の下に埋めた。
日本列島では「7歳までは神の子」という共通の認識で、平安時代になってもまだ子供は自分の家の屋敷に埋葬するという習慣があった。貴族ですら、そうしていたらしい。
自発的に間引きしたから、縄文人は家の中に埋めた。まわりのみんなが強制したのなら、集落全体の責任として集落の墓地に埋める。暗黙の強制はあったかもしれないが、ひとまず自発的に間引きした。
それはたしかに集落の存続のためということもあったが、死ぬことが子供の不幸だという意識も希薄だったのだろう。
彼らは、死ぬということと和解していた。いったいどんな死生観を持てばそれが可能なのだろう。生まれてすぐ死んでゆくことも天寿を全うすることも同じだという死生観。生まれてきてはいけなかった子を死なせてやる、ということ。たぶんそこに、罪の意識はなかった。
運命を受け入れる、ということだろうか。とにかく、間引きして死なせてやることもまた、ひとつの「献身」だった。誰もが死を受け入れている社会だったから、そのような風習も生まれてきたのだ。
じつはこの風習は、東北の貧しい農村などで、明治以降の近代まで続いていた。
そして「姥捨て」もまた、「死なせてやる」という「献身」の行為だったのだろう。
死んでゆくことは、人間の運命だ。無事に死んでゆくことができるなら、それはけっして不幸なことではない。
しかし人間にとって、死んでゆくことはとても困難な事業だ。それこそが、生きてある人間にとってのいちばん大きな気がかりだ。
であれば、「無事に死なせてやる」ということ以上の「献身」もないのかもしれない。
現在の老人介護だって、ひとまずそのことを最終目的にした行為だといえるのかもしれない。
終末期の老人は、いかにして無事に死んでゆくことができるかということを最大の課題として生きている。
というか、われわれはけっきょく「死んでゆく」という仕事を果たすためにこの世界に生まれてくるのだ、ともいえる。
相手が赤ん坊だろうと老人だろうと、「無事に死なせてやる」ことは、ひとつの「献身」なのだ。
だからこそ、人を自殺に追いつめてしまうことがどんなにもむごいことかと思い知らされる。
われわれのこの生は、「無事に死んでゆく」ためのものとしてある。そのようにしてわれわれは、この生を共有している。だから、「無事に死なせてやる」ことが「献身」になる。
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   3・生きてあることは何かの間違いだ
人間が「介護」という行為をすることの根源的な契機は、誰もが「死んでゆく」という運命を背負って生きている、ということにあるのかもしれない。
そういう意味で「間引き」も「姥捨て」も、「介護」という行為なのだ。少なくとも日本列島の伝統においては、そのように自覚されてきた。それほどに、率直に死を受け入れる歴史を歩んできた。
というか、世界中の「弱いもの」が、死を受け入れて存在している。「弱いもの」とは死を受け入れている存在である、ということだ。
死を受け入れている存在であるとは、神に近い存在である、ということだ。
「間引き」も「姥捨て」も、神に近い存在を神のもとに送ってやる、という行為だったのだろう。その行為に、深いかなしみはあったにせよ、「罪の意識」は問うべきではない。
「罪の意識」などというものは、正義づらした近代人のナルシズムにすぎない。
介護の対象である赤ん坊にせよ老人にせよ身体障害者にせよ病人にせよ、この世界とうまく調和できないで生きることに困難を抱えているということはつまり、半分は神の国の住人になっているということだ。
この世界に全身を浸してこの世界の住人になっていることが、人間であることの完全な姿だというわけでもあるまい。人がこの世界に存在することは、ほんの一瞬のかりそめの姿にすぎない。神の国の住人としてこの世界に存在しないことの方が、はるかに完全で永遠の姿である。
人は、「もう生きられない」と絶望しているとき、半分は神の国の住人になっている。そういう絶望を誰もが心の底に抱えて生きている。なぜなら快楽=感動とは体が消えてゆく感覚のことであり、それは、いわば神の国の住人になる体験にほかならない。
つまりそういう「小さな死」の体験から、人は生きた心地を汲み上げているのだ。
僕は、介護とは「共生」することだとは思っていない。「死を受け入れる」心の動きを交感してゆくことだろうと思っている。そうやって介護する側もされる側もせっぱつまって危ない綱渡りの真剣勝負をしているのであり、そこに介護の危うさもよろこびもあるのだろうと思う。
好のむと好まざるとにかかわらず、介護とは、死と背中合わせになって人と向き合う行為なのではないだろうか。
「間引き」や「姥捨て」だって、ひとつの介護体験なのだ。何よりも真剣勝負の介護体験(ケアワーク)なのだ。
上野氏をはじめとして識者たちはよく「介護とは、あなたはそれでいいんだ、と呼びかけることだ」などというが、介護者だろうと被介護者だろうと部外者だろうと、この世に「それでいい」人間などいない。みんな、何かの間違いでこの世に置かれてあるのだ。そのことを思い知らされながら人は介護をする。楽しい介護などというものはない。それは、かなしい行為なのだ。この世に生きていてもいい人間なんか、ひとりもいない。健常者とは、その間違いをより多く抱えている人間のことだ。罪深いから生きていてはいけないのではない、生きていることは何かの間違いだからだ。
生きてあることの尊厳や正当性を示すために人は介護をするのではない。間違いを生きてあることのかなしみを共有しつつそこからカタルシスを汲み上げてゆく体験として介護がある。間違いを生きるものは、身体(=自己の存在)が消えてゆく感覚として、快楽(=カタルシス)を体験する。そういう体験の蓄積から人は、死と和解してゆく。これが、介護という行為の関係だろう。
だから、生きてあることの正当性に執着している社会的な勝者たちには、介護ということができないで、その仕事を下層の敗者や女や若者たちに振り向ける。
「あなたはそれでいい」というまなざしで介護をするんだってさ。そんないかにも「市民社会的」なおためごかしがいつまで続くのかねえ。「命の尊厳」を合唱している「市民」とは、本質論的存在論的に介護を投げ出す人種なのだ。
二度と治る見込みがなくて体が動かなくなっている年寄りに、「絶望するな、それでいい」などと残酷なことをいっていいのか。「早く死んで楽になりたい」と思っちゃいけないのか。
また、そんな介護に疲れた人が「いい加減さっさと死んでしまってくれ」と思っちゃいけないのか。そのとき介護されるものに「さっさと死んでしまいたい」という思いがないのなら、介護をする方だってやってられないだろう。ともに何かの間違いを生きているというかなしみが共有できないのならやっていられるものではないし、そのかなしみこそが人と人の関係を生み、人を生かしているのだ。
だから介護という仕事は、女や若者やこの社会の弱いものたちが引き受ける。
この社会の勝者たちの「命の尊厳」などという自己正当化の嘘っぽいへりくつで成り立つ仕事ではないのだ。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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