1・弱者とは神に近い存在である
弱者とは神に近い存在である……という意識を、人間ならどこかしらに持っている。
愛を読むひと」という映画の主人公のハンナ・シュミッツという女性は文字の読み書きができない文盲だったが、誰よりも深く豊かにに世界や他者に反応してゆくことのできる感受性の持ち主だった。つまり、神に近い存在だった。
このことを、「文盲であるにもかかわらず」と解釈するべきではない。それは、現代人の傲慢だ。「文盲(=弱者)だからこそ」そのような感受性を獲得できたのだ。それは、「もう生きられない」という嘆きから生まれ育ってくる。
「もう生きられない」と「いまここ」に立ちつくしているから、「いまここ」の世界や他者に深く豊かに反応してゆくことができる。
それに対して文字を知っている現代人は、文字によって未来のスケジュールを作成して生きているから、未来意識が強く、そのぶん「いまここ」に対する意識が希薄になってしまっている。今やもう、未来のスケジュールを持ち、未来を語ることが正義のような社会になってしまっている。
現代人の「いまここ」に対する鈍感さ、人に対するときめきの希薄さ。ハンナ・シュミッツは、存在そのものおいてそれを告発している。われわれはもう、そういう鈍感で希薄な心になってしまっているから、正義を持っているかとか知識を持っているかとか、もろもろの観念的な物差しで人を見るようになってゆく。そしてそんな観念的な視線しか持っていないくせに、いまどきの正義の市民は自分では愛もときめきも豊かな人間のつもりで、彼女のことを「文盲であるにもかかわらず」などと傲慢なことをいう。
文字のことはともかく、未来意識が強すぎるから、人に対するときめきが希薄な人間になってしまうのだ。
内田樹先生は、こういっておられる。
『幼児や高齢者や病人や障害者を含む集団を維持するためには、「集団内の弱者を支援し、扶助し、教育することは成員全員の当然の義務である」という「倫理」が身体化しているような集団がどうしても必要である』と。
「弱者を教育する」という。この物言いが傲慢なのだ。弱者は、「神のような存在」なのである。これは人間社会の普遍的な視線であり、この国はとくにきめ細かく豊かにそうした視線が生まれる伝統文化をはぐくんできた。内田先生のだめなところは、そのようにしてこの国の伝統文化を身体化していないところにある。
人は、弱者を「教育」するのではなく、弱者から「学ぶ」のだ。そこのところを、この先生はなんにもわかっていない。たとえ相手が赤ん坊であっても、われわれはそこからじつに多くのことを学んでいるではないか。それが、「他者に反応する」という態度だ。
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   2・民主主義と市民社会
というわけで僕は、ちょいと介護問題を勉強してみようか、と思った。それは、弱者とは何か、という問題でもあるはずだ。
テキストは、上野千鶴子氏の「ケアの社会学」。2850円もするとても分厚い本で、約500ページにわたって小さな字がびっしり詰まっている。
これを読めばおおかたのことはつかめるだろうと思ったのだが、最初の序文のところでつまずき、なんだか憂鬱になってしまった。
こんなふうに書いてある。
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「災害ユートピア」という言葉がある。「受難の共同体」は、分かちあいの理想を一瞬でも実現させる。(3・11の大震災で…筆者注)行政も警察も機能しなくなったとき、日本ではホッブスのいう「万人の万人に対する闘争」、弱肉強食の野蛮状態は現象しなかった。
 それを、日本人の「国民性」に解消する必要はない。東北人の忍耐強さに還元しなくてもよい。前近代的な血縁・地縁社会が彼の地では生きているからだと想定しなくてもよい。民主主義と市民社会の証しだと思えばよい。なぜなら市民社会とは、どんな条件下におかれた他者であれ、自分と同じ人格を持った個人として尊重するという想像力にもとづいているからである。受難はわたしだけではない、私は被災者ではないが他人事ではない、私にできることがあればできる範囲で助け合い、支え合おう、という市民意識が、地域と国境を越えて、これだけの規模とレベルで拡がったのだ。
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何いってるんだか。
この人は「日本人の国民性」というのが嫌いなのだろうか。そういうところから離れ、彼らインテリやフェミニストの主導によってわれわれ庶民に新しい意識を植え付けることができるとでも思っているのだろうか。つまり、この国の「民主主義と市民社会」が定着したのは上野氏をはじめとするインテリがリードしてきたおかげだ、という達成感でもあるのだろうか。
おまえらがこの国の「国民性」を新しくつくり変えてやる、とでもいいたいのか。
何しろ彼女は、団塊世代なのだ。この国の「戦後」社会は、おおむね団塊世代が中心になってつくられてきた。しかし、その「民主主義と市民社会」が実現した結果として、年間の自殺者が3万人以上という事態を引き起こしている。
その「災害ユートピア」が「民主主義と市民社会」によるのなら、江戸時代や平安時代縄文時代の災害のときには弱肉強食の醜い争いが繰り広げられていたのか。それは、戦後になってはじめて人々のあいだに芽生えてきた意識なのか。
そうではないだろう。それはもう「国民性」というしかない現象ではないのか。
「民主主義と市民社会」ということなら、欧米の方がずっと成熟しているはずだ。介護のことだけではなく、たとえばゴミ資源の回収のシステムひとつとっても、ドイツやスウェーデン市民意識方がずっと進んでいる。しかし彼らの国がいざというとき、この国ほどの「災害のユートピア」を実現できるかどうかはあやしい。
それは、「民主主義と市民社会」によるのではない。そんな手垢のついたありふれた概念に収拾してしまおうなんて、上野氏の勝手な思い込みにすぎない。この人は、内田先生と同様、よくこういう我田引水をしたがるらしい。まあ、誰だってそうかもしれないが。
市民社会とは、どんな条件下におかれた他者であれ、自分と同じ人格を持った個人として尊重するという想像力にもとづいている」だってさ。
なるほど、いかにも市民社会的な、ステレオタイプでいやらしいものいいだ。おまえらの「想像力」なんて、その程度のものかよ。
僕は、他者を「自分と同じ人格を持った個人」として見たことはない。「自分と同じ人格を持った個人」なんか尊重するに値しないと思っている。
まず自分の人格の尊厳があって、他者も同じだと見てあげる、てか。なんという傲慢。誰だって、自分のことほど他人をたしかに知ることなんかできない。自分の人格の尊厳はたしかなことだが、よくわからない他人もひとまずそのように扱ってやる、てか。ご立派なこった。
まあ、団塊世代なんて、この流儀のジコチューないやらしい人間がじつに多い。ブスが、何をかっこつけたことをほざいていやがる。
人は、自分の人格なんかよくわからないしどうでもいいからこそ、他者の人格に驚きときめくのではないのか。普通はそうだ。おまえら団塊世代みたいないやらしいジコチューにはようならない。
他者に驚きときめくとは、意識が自分から離れて他者に向いていることではないのか。
この世に自分が存在することなんかあいまいでよくわからないが、目の前に他者が存在するという事実だけはたしかなことのように思える。われわれは、その事実によって、みずからの存在を知らされる。
最初に他者が存在するのだ。自分は、この世界のいちばん最後に参入してきた存在でしかない……根源的には、そういう思い(実存意識)を基礎にして人と人の関係が成り立っているのではないだろうか。
少なくともこの国の伝統文化は、そのような感慨の上に成り立っている。だから、深くお辞儀をするのだし、「つまらないものですが」といって贈り物を差し出す。日本人の心の底には、伝統文化として、そういう感慨が息づいているから、3・11のあの混乱の中でも「弱肉強食の闘争」が起きなかったのだろう。
それは、他者のことを「自分と同じ人格を持った個人」として見る民主主義の市民社会的意識ではなく、「自分を消して他者に献身してゆく」というこの国の伝統文化であり、まぎれもなく国民性なのだ。
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   3・国民性という問題
なにが「民主主義と市民社会の証し」か。上野さん、あなたには人間の普遍を問おうとする視線がなさすぎるのですよ。そうやってあなたたちインテリが作為的に民衆の意識のかたちをつくってゆけると思っている、その思考態度のなんと薄っぺらで傲慢なことか。内田樹先生と同じ心理構造だよ。まあ、団塊世代の限界なんだろうね。ああ、くだらない。
この程度の脳みそで「ケアの社会学」を語って、いったい何ほどの希望があるのだろうか。この人ひとりが大騒ぎしてわめいているだけならなんということもないのだが、内田先生と同様、こうした自信たっぷりな物言いにあっさりと洗脳されてゆく多くの善男善女がいることはなんともやりきれない。
現在は、世界的に「民主主義と市民社会」の限界が露出してきている時代なのではないだろうか。かっこつけて左翼ぶったって、それじゃあ、アメリカと同じ思想なんだよ。
こういうステレオタイプ進歩的文化人というか、正義づらした「市民」というのは、ほんとに目ざわりだ。
現在のこの国では、伝統文化が復活しているというわけではないが、伝統文化のメンタリティがいまだにわれわれの中にも息づいていることに気づきはじめているのではないだろうか。
3・11の大震災で、われわれはそういうことに気づかされた。
助けてやるんじゃない。この世のもっとも弱いものはもっとも神に近い存在である、というこの国の伝統の文化にわれわれはそのとき気づかされたのだ。
僕は、現在の若者たちのマンガやファッションなどの「ジャパンクール」といわれるムーブメントは、外見的なかたちはなんであれ、その精神と感性のかたちは、みごとに伝統的だと思っている。
「かわいい」とは、この世のもっとも弱いものに対するときめきであり、もっとも弱いものはもっとも神に近い存在であると気づいてゆくことだ。「かわいい」とは、この国の伝統としての「かみ」に対するときめきなのである。
そういう「国民性」を問うて、何が悪い?
「ケアの社会学」を問うことは、さしあたって人と人の関係や人間社会の結束の根源のかたちを問うことだろう。そのスタートラインで「民主主義と市民社会」などという聞き飽きた言葉を振りかざされると、僕はもう「やれやれ」というため息とともに、体の力が一挙に抜けてしまう。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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