「ケアの社会学」を読む・58・この国の介護の思想の可能性

   1・寄生し寄生させる関係
たとえ自分が愛していても、愛されたいとか愛されていると思うべきではない。そんなことは、けっきょくのところわからないし、相手の勝手である。
人と人の関係は、一方通行である方が高度で美しい。
一方通行の「寄生」という関係性は、生き物の関係の根源であると同時に究極である。
原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって、雌雄の起源に遡行していった。それはつまり、支配し支配されるという猿社会の関係から、寄生し寄生させる、という原初の関係に立ちかえることだった。
それは、男女の差異を無化する事態だったのではない。男女の差異がより濃密になってゆき、あげくに一年中発情している生き物になっていった。
雌雄の関係は、寄生し寄生させることにある。
人類の人と人の関係の文化は、「寄生」というかたちで生まれ育ってきた。西洋人が抱きしめ合って挨拶をするのも、日本列島の住民の、深くお辞儀をして必要以上に相手になついてゆくことをするまいという態度も、つまるところ一方通行の「寄生」という関係を止揚してゆく文化なのだ。いずれにせよ、猿は、こんな挨拶の仕方をしないし、挨拶そのものをしない。
海に囲まれた島国である日本列島の住民は、すでに寄生し合って存在していることを自覚している。だから、これ以上寄生しません、という作法の挨拶をする。
一方、基本的に誰もが自我を確立していて人と人の関係が疎遠になりがちな大陸では、寄生の関係を確かめるように抱きしめ合ってゆく。
寄生し寄生させることは、生き物としてのみずからの存在の自立性・孤立性を喪失することである。そういう受難である。人と人は、そういう受難として関係をつくり、そこに関係の醍醐味を見出してゆく。
関係とは、受難である。このことが合意され、この受難を受け入れるというかたちで、高度で豊かな人と人の関係が結ばれてゆく。
受難であるという自覚が希薄だから、薄っぺらな関係になったり、ぎくしゃくした関係になったり、権利を主張し合ったり義務を押し付け合ったりしてゆく。
人と人の関係は、寄生し寄生させる受難の事態である。そして先験的にそういう事態の中に投げ入れられてある人間にとって、関係は「受け入れる」ものであって、「つくる」ものではない。
上野千鶴子とか内田樹という恨みがましいブスやブ男は、人と人の関係は作為的に「つくる」ものだと思っていて、「受け入れる」という体験をしたことがない。人と人の関係が「上機嫌」なのものであらねばならないなんて、「上機嫌」なものであるといって自慢するなんて、もてないブスやブ男のルサンチマンなのだ。
生きてあることが嘆きかなしむことであって何が悪い?おまえら、嘆きかなしむだけの感受性や生命力や生きてあることのたしなみとしての心意気や志がないだけなんだよ。
もてようともてるまいと、人と人の関係は、寄生し寄生させるという「受難」なのだ。彼らのように「上機嫌」だといってすませられることではない。
少なくとも介護の現場においては、介護するものもされるものも、そうした「受難」を受け入れて生きているのだ。
上野氏は、誰もが機嫌よく生きられる介護の現場をつくる、などとぬかしているが、嘆きやかなしみのない介護の現場などあるものか。そして嘆きかなしむことこそ、人間としての感受性であり生命力であり、生きてあることのたしなみとしての心意気や志であるのだ。
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   2・日本列島の介護の思想
この本の中で上野千鶴子氏は「老人は介護される権利を自覚し主張せよ」といっておられる。
世の中にはこんなくだらない言説に同意している人がたくさんいるのかと思うと、ほとほと情けなくなる。
僕は、たとえ体が動かなくなっても自分に介護される権利があるとはぜんぜん思わない。
僕が思うというより、これが日本的な心の動きの伝統ではないだろうか。
深沢七郎の「楢山節考」という姥捨ての習俗を扱った小説には、この伝統的な心性がみごとに描かれている。
人が長生きし過ぎるようになった現在の文明国においては、「介護」が大きなテーマになっており、この国はもっとも切実にその問題を抱えている立場にあるのだとか。
上野氏も、現在の世界のもっとも新しい介護の思想と方法論はこの国から発信される、といっておられる。
だったらそれはきっと、この国の歴史的な感性の上に立ったものであるにちがいない。なんのかのといっても、この国の老人は「自分には介護される権利がある」と心底から思い切ることはできない人たちなのだし、この国のこれからの世の中の流れとして、自然にそういう心の動きに沿って介護の思想や方法論が形成されてゆくのだろう。
この国の老人たちがみんなして「介護される権利」を主張し出したら、国の経済はたちまち破綻してしまうだろう。そして老人自身にとっても、介護されるほかない体になってしまうことは、けっして幸せだとはいえない。
誰だって、死ぬまで自分で体を動かして生きていたいだろう。長生きするこの国の老人たちには、もはやそういう可能性は残されていないのか。そういう可能性を探ることこそ老人たちの希望になるのであって、動かない心や体を抱えて介護されるだけの未来を想像することなんか、気が滅入るばかりだろう。
「おひとりさまの老後」などといいながら、人を当てにして人を利用することばかり考えているだけじゃないか。「介護を受ける権利を自覚し主張せよ」だなんて、ちっとも「おひとりさま」になっていない。こんな思想の上に立った介護の方法論なんか海外に発信されたって、いったいどれほどの説得力を持つというのか。
ただの騒々しい田舎っぺのブスが自分を正当化するためのへりくつをでっちあげてええ格好をしているだけのことじゃないか。
反論があるなら、どなたでもいってきていただきたい。
「おひとりさまの老後」は自分の家を持っていなければならない、私もいずれは自分好みの家を建てるつもりである……などとほざいているくそババアとつるんでいい気になっている人たちは、どうかいってきていただきたい。狭いアパートの部屋で孤独死している老人たちになりかわって、おまえらの脳みその薄っぺらなことや下品さをいくらでもあげつらって差し上げる。
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   3・介護を受けないでも生き切ることのできる可能性はないのか
上野氏は、普遍的な人間性もこの国の伝統的な心性のことも、なんにもわかっていない。フェミニズムという意匠をまとってただただ「家父長制」とやらを攻撃するだけではすまないのだ。
僕は、ただの女好きのスケベじじいだが、この世の中、アホな女が多すぎるとも思う。おまえらのフェミニズムは、とんちんかんすぎる。
まず、どうしたら最後まで介護なしに生き切ることができるか、という問題があるわけで、この問題をクリアできないことに対する老人の嘆きは、これからますます切実になってゆくのではないだろうか。この問題を考えるためには、とりあえず「介護を受ける権利を自覚し主張する」というくそ厚かましい心がけは捨てたほうがよい。
そしてそこに立って考えることができる可能性は、この国の伝統的な心性に見出すことができる。差し当たってそれが、われわれが世界に発信できることではないだろうか。
まわりの人間が深く介護をせずにいられない気持ち抱くためのもっとも有効な関係は、介護をされるものが「介護を受ける権利を自覚し主張する」という態度を捨てることにあるのであって、「介護を受ける権利を自覚し主張する」ことにあるのではない。
まあ、性根がひねくれた騒々しい田舎っぺのブスとしては「権利を自覚し主張する」ことでしか男にかまってもらえなかったのだから当然そういう論理が発想されるのだろうが、世の中の人と人の関係はそういうところで豊かに連携し結束されているのではない。
上野氏のいうことは、「最後まで介護なしに生き切る」という希望を捨てよ、といっているのと同じなのである。たとえ現実的に困難であっても、人はその希望を捨てることはできない。とくに日本列島の住民は、その希望を捨てることができない。捨てることができないから、「姥捨て」という習俗が生まれてきたし、奈良のポックリ寺は今なお繁盛している。
「姥捨て」も「ポックリ寺」も、「介護を受ける権利」を断念し、「最後まで介護なしに生き切る」という希望の上に立った思想である。
この国の新しい介護の思想と方法論は……すべての老人が「介護を受ける権利を自覚し主張する」ことを捨て、そういう老人だからこそまわりが介護せずにいられない気持ちをいっそう募らせてゆく……という関係の上に構築されてゆくのではないのだろうか。われわれは今、そういう関係を世界に向かって示すことができるかどうかと試されているのではないだろうか。
権利も義務もない関係。介護をせずにいられない思いだけがある。そこにこそ、この国が提出できる介護の思想がある。このような関係をこの国で実現できないのなら、世界中のどこも実現できない。
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   4・介護を受ける権利など存在しない
われわれは、「最後まで介護なしに生き切る」という希望を捨てることはできない。
老人が認知症になるのは、避けられないことか。
老人が歩けなくなるのは、避けられないことか。
すべての老人が介護を受けなくてもすむ社会は実現しないのか。
たとえそれが絶望的なことであっても、われわれはそれを問い続けなければならない。
それがいいことか悪いことかはわからないが、「姥捨て」という習俗は、たしかにそれらの問題を一挙に解決してしまっている。かなしく美しい解決である。
それは、共同体による残酷な仕打ちだったのではない。あくまで老人自身の覚悟(=無常観)の上に成り立っている習俗だったのだ。「楢山節考」を書いた深沢七郎は、そういっている。
現代の老人がそこまでの覚悟を持つことはもはや不可能であるのだろうが、その「覚悟」は否定されるべきではない。その覚悟の美しさや普遍性はたしかにあるわけだし、老人がその覚悟を持たなければ、まわりが介護せずにいられない気持ちにはならない。
「介護を受ける権利を自覚し主張している」老人なんか、誰が介護したくなるものか。
上野氏は、「誰だってできれば介護なんかしたくないのだから、公的な介護施設を充実させるべきである」といっておられる。
では、介護施設介護士は金をやるからやりたくないことを我慢してやれ、ということか。バカにするのもいいかげんにしろ。
介護は、3Kのしんどい仕事である。物理的に汚れ仕事である上に、人の死と付き合わねばならないというしんどさもある。収入が増えればそれですむというわけにはいかないし、収入が少なくても「せずにいられない」気持ちがあれば続けられる。介護士の仕事こそ何より「せずにいられない」気持ちになれる老人との関係は必要だし、いますぐ彼らの収入が増えるような環境でもないだろう。
また、老人の側だって、「せずにいられない」という気持ちを持った介護士に介護されたいだろう。そういう気持ちになってもらうためには、「介護をされる権利を自覚し主張する」ことなんか、なんとしても捨てなければならない。捨てることができるのが、「姥捨て」や「ポックリ寺」の習俗を持つこの国の伝統的な心性である。
介護の関係の根源は、寄生し寄生させる関係にある……現在のこの国から世界に発信することのできる介護の思想は、おそらくこのようなかたちになるのではないだろうか。
介護を受ける権利など存在しない。
しかしそれでも人は、介護をせずにいられない存在である。
何はともあれ介護の思想は、この前提に立って構築してゆくしかないのではないだろうか。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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