「ケアの社会学」を読む・57・「寄生」という関係性

   1・人の気持ちなどわからない
女房がやきもちやいてかなわん、という。
そんなことをいっても、人の気持ちがそうかんたんにわかるものじゃない。奥さんはただ、女に対してかんたんに隙を見せてしまうあなたのその軽薄な態度に苛立っているだけかもしれない。
まあ女の方だって、男を支配しようとしてもそうそう思い通りにはいかない、ということもある。私を愛しているならほかの女に興味を持つはずがない、といっても、持とうともつまいと男の勝手だ。
人の気持ちはあなたの想定通りにはならない。
結婚をするとおたがい相手を支配しようとするようになるから結婚なんかしない方がいい、という意見がある。たしかにそうかもしれない。しかし、結婚していない人間はそうした傾向から免れているかといえば、そうとはかぎらない。
支配欲の強い人間は、かんたんに人の気持ちがわかったつもりになる。人の気持ちがわかったつもりになって支配しようとしてゆく。心理学は、えてして支配欲の強い人間のための学問になりがちである。
そういう意味で、内田樹先生も上野千鶴子氏も、みごとに心理学者だ。彼らの得意な自慢たらたらで自分をプレゼンテーションしてゆくこと、すなわち相手の気持ちを自分に向けさせようとすること自体、人を支配しようとする態度にほかならない。
結婚するとかしないにかかわらず、社会の制度性として人を支配しようとする衝動がある。
上野氏が独身主義だからといっても、人を支配しようとする衝動は満々である。「老人は介護をされる権利を自覚し主張せよ」だなんて、くたばりぞこないの老人がそんな厚かましい主張をしてまわりの人間を支配していっていいのか。そんな老人を、まわりが進んで介護しようという気になるだろうか。上野氏は、自分の支配欲を投影してそんなへりくつを主張しているだけである。
まったく、お里が知れるよ。
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   2・教えることと学ぶこと
内田樹先生は、学ぶ態度とは「教えてください」と相手にひざまずいてゆくことだといわれるが、教えようと教えるまいと相手の勝手だ。自分がひざまずいたのだから相手はそれに応えようとするべきだ、応えようとする気になるはずだ、と思うこと自体ずいぶん虫のいい話だし、それだってひとつの支配欲だともいえる。
こちらが愛しているからといって、相手もこちらを愛さなければいけない義理なんかない。
人にものを尋ねること自体、すでに相手を支配しようとしているのだ。だからそれは、なるべく慎重であらねばならないし、すでにそういう関係になっているという信憑がなければならない。
残酷なことだが、相手が教えてやろうという気になっていないことには、師と弟子の関係なんか成り立たない。「教えてください」とひざまずいてゆけば相手もその気になるとはかぎらないし、その気にならなければならない義理もない。
ひざまずいてゆけば教えてもらえる、と決めつけるなんて、支配欲だ。
内田先生はたぶん、大人が教えたくなるような魅力的な子供ではなかったのだろう。だから、「教えてください」とひざまずいてゆけば教えてもらえるはずだ、教えてくれるべきだ、という論理を構築していったし、みずからも教えてやろうとする大人になっていったのだろう。それは、子供のころにおとなからちゃんと教えてもらえなかった人間のルサンチマンだ。教えることに勤勉だからやさしい人だとはかぎらない。それ自体支配欲だし、子供のときにちゃんと大人から教えてもらえなかったルサンチマンの裏返しであったりもする。
まったく人の世界は残酷で不平等なものだが、大人の方から教えずにいられないような子供としてそだてば、「教えてください」とひざまずいてゆく癖なんか持っていない。そういう魅力的な子供は、ひざまずいたりなんかしなくても、ちゃんと自分から学んでゆく習性を持っている。「教えてください」という要求なんかしない。彼にとって教えられた情報は、彼の思考の出発点であって、到達点ではない。
「教えてください」とひざまずいてゆく子供は、教えられたことしか覚えない。そこから展開し上書きしてゆく能力が育たない。
現代人がなぜ多くの情報を欲しがり、知識欲が肥大化してしまっているかといえば、情報を展開し上書きしてゆく能力を喪失してしまっているからだろう。
内田先生は、ひとつの情報を面白おかしく語ることは上手だが、そこから展開し上書きしてゆくことはできない。「探究する」という思考がない。まあそうやって面白おかしく語るスキルを磨くことが、教えられたことしか覚えることのできない人間の賢明な生き方かもしれない。
しかしだから彼は、人気者になることはできても、優秀な研究者にはなれなかった。
「教えてください」とひざまずかなくても、自分から学んでゆくことができなければならない。誰だって、好きなことは自分から学んでしまう。
いまどきは小学生だって、大人に教えられなくても、ちゃんと高度な携帯電話の扱い方を身につけてゆく。
「教えてください」とひざまずいてゆくのは、支配欲なのだ。そして、支配し支配される関係においては、展開し上書きされてゆくものがない。それではつまらないだろう。
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   3・寄生し寄生させる、ということ
雌雄の生き物は、関係性を生きている。その進化のひとつの達成として、鳥や猿などの群れにおける「順位制」という支配し支配される関係が生まれてきた。しかし人間の歴史は、その関係性をさらに超えて「寄生」という関係性を持っていった。
「寄生」は、支配し支配される関係を無効にする。魅力的な子供を前にすれば教えずにいられなくなってしまうし、子供は教えなくてもかってに覚えてしまう。
子供は、ほとんどの言葉を、大人に教えられなくても勝手に覚えて成長してゆくのである。人類社会に言葉が流通していることは、そのような一方通行の「寄生」の関係性が機能しているからだ。いちいち教えられなければ覚えないのなら、教えられたことしか覚えられないのなら、人間社会の言葉なんか、今よりもはるかに貧しいものでしかないだろう。
「寄生」という関係性は、生物社会の根源であると同時に究極でもある。
たとえば、自然界の「食物連鎖」などいうことは、まさに「寄生」の関係の上に成り立っているのだろう。ライオンは、シマウマに寄生している。シマウマは、草原に寄生している。草原は、土の栄養に寄生している。土の栄養、すなわち微生物は、ライオンやシマウマに寄生している。
そうして愛とか献身とか教えると学ぶという人間的な関係性もまた、そうした「寄生」という関係性にほかならない。
人間が二本の足で立って向き合っていることは、猿のような支配し支配されている関係ではなく、寄生し寄生させている関係なのである。
そうして、介護の関係もまた、寄生し寄生させる関係以外の何ものでもないだろう。それは、介護されている老人が介護している人に寄生しているということだけではなく、介護する人もまた、たのまれているわけでもないのに「介護せずにいられない」というかたちで寄生していっているのだ。
まわりがどんなに「介護せずにいられない」気持ちになろうと、おしっこを垂れ流しながらでも自分の体は自分で始末すると最後まで言い張る老人もいれば、介護をされるなんてほんとうに申し訳ないと消え入るような思いの老人もいる。人と人の関係は、つねに一方通行なのだ。
相手がたのむから「介護せずにいられなくなる」というわけではない。「教えてください」とひざまずいてくるから「教えたくなる」というわけでもない。
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   4・人と人の関係性は、雌雄の関係が基礎になっている
知らない人に道を尋ねる。どうしてそんなことができるかといえば、人と人は先験的に関係の中に置かれてある、という信憑があるかるだろう。こういうのを、超越論的関係性、というのだろうか。人間は、存在そのものにおいて、すでに他者との関係の中に投げ入れられてある。
しかし、教えてやりたくなる相手とそうでない相手がいる。おまえは俺に教えるべきである、というようなえらそうな態度や無遠慮な態度を取られたら、ちょっといやになってしまう。
あなたには私に教える義務はない、という前提を持っているのがエチケットというものだろう。
ごくたまに、こちらに健常者としての介護の義務を押し付けてくる身体障害者の人がいる。おまえは俺のために道を譲るべきだ、とか。悪いけどそんなときは、あまりいい気持ちがしない。
目の前に老人が立っているのに平気でシルバーシートに座っている若者を見るのは不愉快なものだが、その老人が「おまえは俺のために席を譲れ」と主張すれば、それもまたブサイクである。
人と人の関係は、つねに一方通行である。「共生」しなければならない義務などない。それでも、自然に寄生してゆくし、寄生させる、という関係性が生まれる。
雌雄の関係は「寄生し寄生させる」という関係として発生した。われわれの現在の人と人の関係だって、この根源の上に成り立っている。
だから老人は、「おまえは俺のために席を譲れ」というわけにいかないのである。
なのに上野千鶴子氏は「老人は介護を受ける権利を自覚し主張する」ということが当然のことであるかのようにいう。そんなことをいっても、そんな老人なんか介護する気にならないというのも、人間の自然なのだ。
人と人の関係は、一方通行の「寄生」という関係の上に成り立っている。それが、雌雄の関係を持っている生き物の根源的な関係性のかたちなのだ。
世のフェミニストたちが、どんなに声高に「男と女の違いなんかない」と叫ぼうと、人と人の関係の根源には雌雄の関係性がはたらいている。同性どうしだろうと人間どうしだろうと、その関係の基礎として雌雄の関係性がはたらいている。
生き物の雌雄は、「寄生」の関係として発生してきたのであり、それが関係性の究極のかたちでもある。
人と人の関係は、どうしても「寄生し寄生させる」という関係になってしまう。それが人間の関係性の文化であり、それが生き物としての根源であり究極のかたちでもある。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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