「ケアの社会学」を読む・56・雌雄の発生を考える

   1・「種族維持の本能」などというものはない
たぶん、人間以外の動物は、交尾をすると子供が生まれるということを知らない。彼らはそんな目的で交尾をしているのではないし、したがって種を存続させようという目的も持っていない。
遺伝子は、親の形質を子供に伝えるためのものではない。個体自身の細胞が生成反復する機能の素になっているのだろう。この「遺伝子」という言葉自体が、まぎらわしいというか、うさんくさいというか。
「遺伝」という言葉が科学的にどんなに重要で便利であれ、僕自身はこの言葉があまり好きじゃない。自分個人の遺伝子が子孫に引き継がれてゆくということなんか、ほとんど興味がない。普遍的な人類史や、この日本列島において引き継がれている文化風土に興味があるだけだ。
われわれの心は、脳細胞に記されてあるのではない。それは、たんなる神経回路の流れであり、その流れは、脳細胞によって起きているのではなく、普遍的な人類史や文化風土や時代の空気や人との関係などの、いわば「環境世界」が契機になっている。脳細胞のはたらきは、心の動きの「結果」であって、脳細胞が心の動きをつくっているのではない。
心の動きは遺伝しない。それは、われわれの環境世界が契機になって起きている。
遺伝子なんか、遺伝のためにあるものだとは思わない。それが遺伝子の第一義的なはたらきだとは思わない。現代人の勝手な思い込みでそう呼んでいるだけなんじゃないの。
文科系の人間が、「遺伝」ということをあまり拡大解釈するべきではない。
親の性格が子供に遺伝する、という。冗談じゃない。その親に育てられたからそうなっただけのことだ。性格などという情報が脳細胞や遺伝子という物質に記されてあるはずがない。
生き物の命のはたらきに「目的」などというものはない。遺伝子などといわれると、遺伝の目的でそれが機能しているようで、あまり耳触りがよくない。無教養な文科系人間としては、「遺伝子」といわないでどうして「命の素」といわないのか、と思ってしまう。
「遺伝子」だなんて、いやな言葉だ。
「遺伝子」なんて、文科系以上に文科系的な呼称だ。ちっとも科学的だとは思わない。
僕は、人類という種の存続とか未来ということに興味はない。
子供をつくったからといって、えらそうな顔をするな。そんな自分を正当化するな。それで幸せぶるなんて、みっともないだけだ。それは人間の過ちであり、人間は過ちを犯す生き物だ。それだけのこと。
・・・・・・・・・・・・・・・・
   2・死にそうになってもがくということ
生物の定義は「自己複製する」ということにあるのだそうだが、いまいちよくわからない。
生物の定義は「死滅する」ということにあるのではないか。
小さな粒子のレベルでの生物と無生物の境界は、自己複製するか否かで分けられるのだろうか。自己複製しないまま死滅してゆく粒子のような存在はいくらでもあるのではないだろうか。
原初の生命は、発生した瞬間に死滅した。僕自身のイメージでは、そうでなければつじつまが合わない。
もっとも原始的な生命に遺伝子なんかないだろう、と思う。生命は、死にそうになってもがきながら進化してきたのであり、その途中のどこかの段階で遺伝子が発現してきたのだろう。
単細胞の微生物の多くは、体が分裂して生殖してゆく。それは、生殖しようとしているのではなく、死にそうなって体のはたらきがぎくしゃくしてきてもがいた結果としてそうなるだけのことだろう。
生き物は、生き延びたいのではない。ただもう存在そのものにおいて「死」という受難を負ってもがいているだけだ。その「もがき」を、多くの生物学者は「生き延びようとする衝動=本能」などという。
そうじゃない。
生き物が生きてあることの根源に、「生き延びようとする衝動=本能」などというものははたらいていない。
生物とは、死にそうになってぎくしゃくもがいている存在である。その「もがき」の結果として、遺伝子があらわれ、意識が生まれてきた。そうして、あなたたちがえらそげに自慢したがることだって、ようするにそういうもがいているはたらきなのだ。
人間は、思春期になって体が成長してくると、心のはたらきも体のはたらきもぎくしゃくしてくる。微生物だって、体が成長して体のはたらきがぎくしゃくしてきて分裂するのだろう。
体が成長するとは、体と環境世界とのバランスが崩れることであり、それは、死にそうになる、ということだろう。そうやって思春期の若者の自殺が起きているのだろう。
そのとき、死にそうになり、身をよじってもがいた結果として、体が分裂する。死にそうになるのが、生き物の「体=命」のはたらきだ。
原初の生殖もまた、死にそうになった結果として起こってきたのだろう。生殖とは、死にそうになってもがく行為だ。
いつだって契機は、「死にそうになる」ということではないだろうか。
この「死と再生」を、分裂しないでそのまま自分の体で反復してゆけるようになったのが、雌雄の発生だろう。だから、それ以来飛躍的に身体が大きくなっていった。
ともあれ最初に雌雄の生殖が起きたときも、死にそうになってもがいたのだろう。少なくとも、生殖しようとしたのではない。つまり、生き延びようとしたのではない。
われわれの体の細胞は、毎日いたるところで「死」が起き、「再生」が起こっている。なぜ「再生」が起こるかといえば、苦しくてもがくからであって、生き延びようとするからではない。
死にそうになることが、命のはたらきなのだ。死にそうになって、意識が発生する。意識は、「死にそうになる」ということの上ではたらいている。意識のはたらきは、つまるところ「死にそうになる」ことに対する反応なのだ。
あなたが幸せになりたいことだって、生き物が死にそうになってもがいている存在だからだ。ただ生き延びるだけなら、幸せになる必要もないだろう。なのにあなたは、幸せになりたいのだ。そうやって死にそうになってもがいているのだ。現代文明や現代社会の制度的な観念に毒されて、「死にそうになってもがく」というこの生の根源を味わいつくすことができなくなってしまっているからだ。誰だって、できない。しかし、不可避的に味わいつくすほかない生を強いられている人はいる。そうして僕は、生きてあることの真実はそういう人のもとにあるのであって、上機嫌で生きていると自慢するあなたのもとにあるのではない、といっているだけだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   3・死と再生
命とは、死ぬことと生まれ変わることの反復である。
だからといって、われわれが死んだら生まれ変わるというのではない。生まれ変わることはわれわれの生命の発端であって、行き着くところではない。生まれ変わらなくなって生命が終わるのだ。
単細胞で単体生殖の生き物は、体が成長してくると分裂する。
分裂することは、いったん死んで生まれ変わり、新しい身体=細胞になることだろう。
しかしそのとき、成長してきても分裂できない生き物があらわれてきた。それはつまり、「死ぬ」ことができなくなった、ということだ。死ぬことができなくてもがき続けねばならなくなった。
ほんらいは、個体どうしはくっつかないはずである。バクテリアの個体どうしがくっついてDNAを交換するのは、それによっていったん死んで生まれ変わるのだろう。
くっつくことは、死ぬことだ。だからわれわれだって、知らない人と体が接近したりくっついたりすると、体がざわざわして落ち着かなくなる。つまり、体が死にそうな状態になっている。死にそうで死ねないから、ざわざわする。
しかし、くっついて安心できる相手もいる。それは、くっつくことによって死んでしまえる、ということだろう。安心するとは、死んでしまっている状態のことだ。
体が成長して死にそうになってもがく。もがいて、くっついてゆく。くっつけば、もがきがおさまる。それは、死ぬことであると同時に、生き返ることでもある。
死にそうになってもがき、苦しまぎれにくっついてゆく。生き物のオスの求愛行動なんか、すべて「苦しまぎれ」にちがいない。身体が膨張する気配が生じ、身体と環境世界とのバランスが崩れて苦しくなる。これが、オスの性衝動ではないだろうか。
死にそうになることが、命のはたらきなのだ。だから、単体生殖で生き延びている種が進化すれば、単体生殖できなくなってゆく。そうして死にそうになってもがき、他の個体にくっついてゆく。
くっついて、DNAを吐きだし、死滅する。それがオスのはじまりだったのだろうか。かんたんに、雌雄に分かれることは「生き延びる戦略」だった、などといってもらっては困る。
人間のセックスだって、男にとっては自殺するような行為だ。だから、精子を吐き出したあとは、心身ともに腑抜けのようになってしまう。
生き物の命のいとなみは、「死にそうになる」ことだ。
そして女は、オルガスムスというかたちでいったん死に、死ぬことによって生き返る。
雌雄の発生は、「死ぬ」という体験であると同時に、「生き返る」という体験だった。死ななくなったのではない。雌雄の発生以来生き物は、死と再生の反復を生きるようになった。
われわれの体の細胞は、死と再生の反復を繰り返して生きている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   4・男と女の死に対する立ち位置の違い
バクテリアはくっついてDNAを交換することによって両方が生き延びるが、雌雄の発生の段階においては、死滅するという体験だった。なにはともあれいったん死滅し、同時に再生するという反復がダイナミックに起きてきた。
このとき、現在のオスとメスのように体の構造が違っていた、ということはないはずだ。
同じ体の構造だが、死にそうになってきてもがいている個体と、すでに死ぬ直前でおとなしくなっている個体との組み合わせだったのだろうか。そういう千載一遇の微妙なタイミングで雌雄が発生したのだろう。このとき、DNAの交換はなかった。もがいて吐き出す個体と、じっとしてそれを受け入れる個体があった。
単細胞生物の時点でDNAを吐き出せば、ただちに死を意味する。そして単細胞生物が二つのDNAを抱えて生きることはできないだろう。だから、その体の中で二つのDNAが融合した新しい別の細胞が発生し、もとの細胞はそのまま死滅していった……ということだろうか。
たぶん、起源においては、オスもメスもくっついてそのまま死んでゆき、新しいひとつの生命が残る、というかたちだったのだろう。
しかしその新しい生命に対する違和感でもがくということが、つぎの再生という進化のステップにつながっていった。最初にメスが「再生」という進化を獲得し、そのメスから生まれたオスにもその「再生」というはたらきが加わっていったのだろうか。
いずれにせよ、女の身体の方が、より死と背中合わせの構造になっている。だから、女の方が死を怖がらない。かんたんに死んでしまうから、かんたんに再生する。そうやって女は、男よりも長生きするのだろうか。
オスは、死にかけている個体として進化し、メスは、すでに死の直前にある個体として進化してきた。男は死にそうになってもがくようにできているし、女は、最初からすでに死と向き合っている。
男は、生きてあること自体が、死にそうになって悪あがきしている状態であるのだろう。
オスは、メスに寄生してゆくようなかたちで進化し、メスは、オスに寄生させるようなかたちで進化してきたのだろうか。
まあ、現象の意味としては、オスにとってメスに寄生することはそのまま死んでしまうことであり、すでに死の直前に置かれているメスにとってオスに寄生させることは、いったん死んで生き返ることだといえるのだろうか。
男と女の関係も、人と人の関係も、根源的には「寄生」というかたちの上に成り立っている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   5・人と人の関係は一方通行であるということ
最初の生物は、それぞれが孤立した存在だった。関係するということを知らなかった。だから、関係しようとする衝動が生まれてくるはずがない。関係するようになってから、関係しようとする衝動が生まれてきた。
関係が生まれてしまっただけだ。孤立して生きられるなら、関係しようとするはずがない。孤立して生きられないという契機があったのであり、苦しまぎれにくっついてしまっただけだろう。
最初の関係は、寄生することであり、寄生させることだった。そして、生き物は「死ぬ」という命のはたらきを持っているから、こういう関係が生まれてきたのだ。
死にそうにならなければ、何も起きない。生き物の進化は、死にそうになる体験の上に成り立っている。
「目的」や「戦略」があったのではない。苦しまぎれに寄生し、苦しんでもがいた果てに寄生させていった。
いつだってメスは、疲れ果てて「もうどうでもいいや」という感じでオスにセックスをさせてやるのだ。
生き物は、「共生」しているのではない。「寄生」し合っているのだ。とくに雌雄の関係になることは、DNAを交換するという「共生」関係を失って、「寄生」という一方通行の関係になることだった。
そしてこういうことは、起源だけのことではなく、現在を生きるわれわれが抱えている人と人の関係の問題でもある。
だからわれわれは、起源について考える。
どんなに進化しようと、すべての生命現象は「起源」のかたちを引きずっている。
上野千鶴子先生、なんなら、あなたがたいして男にもてもしない田舎っぺのブスのくせに毎日上機嫌で生きているとやたらええ格好してみせたがるわけを、生命の起源までさかのぼって説明して差し上げようか。
_________________________________
_________________________________
しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

幻冬舎書籍詳細
http://www.gentosha-r.com/products/9784779060205/
Amazon商品詳細
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779060206/