「ケアの社会学」を読む・55・雌雄の発生前夜

   1・人間ほど不安定で不完全な存在の生き物もいない
「雌雄の発生」のことを考えたいのだが、どうもうまくスタートが切れない。
人間においては、男も女も同じというわけにはいかない。身体的にも精神的にも、男の特性があり、女の特性がある。そして男であることの不安があれば、女であることの嘆きもある。
誰も、個体として安定したかたちでは生きられない。ほかのどんな動物よりも個体として安定できないことが人間の人間たるゆえんなのだ。個体として安定できないから、集団として高度な連携や結束を持つことができるし、恋に夢中になることや友情をはぐくむことができる。
人間ほど不安定・不完全な存在もない。
人間の赤ん坊ほど不安定・不完全な赤ん坊もほかにはいないだろう。われわれは不安定・不完全の中を生きるという習性が、生まれながらにしみついている。
不安定・不完全な状態を生きるのが人間の特性である。
われわれに与えられてあるのは死ぬ命なのだから、そんな命が生きることにおいて完全であるはずがない。言い換えれば、生きることに不安定・不完全であることが、命であることの証しなのだ。
生き物は、進化すればするほど不安定・不完全になってゆく。不安定・不完全であるのが、生きることのダイナミズムであり醍醐味なのだ。
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   2・雌雄になろうとしたのではない、雌雄になってしまったのだ
人間の雌雄の関係は、生物の雌雄の関係の究極のかたちであるのだろうか。
猿以下の動物の脳がひとつの完結したかたちになっていることは、いわば単体生殖のようなものである。人間がひとつの完全な脳を持つことから決別して不完全な脳を二つ持つというかたちで進化してきたことは、原初の雌雄の発生が、単体生殖できない不安定・不完全な個体どうしが一対の関係になることだった、ということを意味するのではないだろうか。
より安定して完全な生を得ようとして「雌雄になる」という戦略を取ったわけではない。おたがいに不安定で不完全な個体だったから「雌雄になってしまった」というだけのこと。言い換えれば、それらは種として進化した個体だったから、不安定で不完全だったのだ。進化するとは、不安定・不完全になってゆくことである。
生物の進化は、雌雄の関係になることによって一気に加速していった。それは、それぞれの個体がより不安定で不完全な存在になってゆくことだった。
原初の塵のような生命がアメーバのような「核」を持った原生生物になるまでに、いったい何億年何十億年かかったのだろうか。
ともあれ、そこから「雌雄」が発生してきた。
それは、より安定して完全な生命を獲得するという現象だったのではない。
単体生殖の方が完全で安定しているに決まっている。
養老孟司先生は、ずいぶん前の「現代思想」の進化論についての対談で、「生物の進化は、より完全で安定して生きるための戦略として雌雄の関係になることを選択した」というようなことをいっておられた。この人は、進化論の根本のところがなんにもわかっていない。これでも科学者なのかねえ。作為的に生きている人間は、すぐこんなふうに考えたがる。
生物の命のはたらきに「より完全で安定して生きるための戦略」などというものはない。そんなものは、現代社会の制度性に毒された俗物どもの、この社会を生きてゆくための戦略なのだ。
命のはたらきには、生きるための「戦略」そのものがないのだ。
進化してより不安定・不完全になってしまったから、「雌雄にわかれる」という現象が起きてきたのだ。
単体では生殖=自己複製できなくなったから、その苦しまぎれで雌雄の生殖というかたちが生まれてきたのだろう。
単体生殖できるならするに決まっている。単体生殖する生き物なんだもの。それができなくなるという契機なしに雌雄の関係が生まれてくることはあり得ない。
より完全により安定して生きるためにそういう戦略を選んだのではない。生き物の進化にそういう目的があるなら、われわれ人間は、こんなにも不安定で不完全な生き物にはなっていない。
生き物がより完全により安定して生きようとする存在であるのなら、ひたすら単体生殖の方法を完成さてゆくに決まっている。
だからわれわれは、「両性具有」を神のかたちとしてイメージしたりする。
生き物の生存は、進化すればするほど不安定で不完全になってゆくのであり、だから雌雄が発生したのだ。
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   3・雌雄の関係は、滅びのシステムである
そのはじめ、完全な個体どうしがくっついたのではあるまい。両方とも不完全な個体だったからそういうことが起きたのだろう。
現在の人類だって、完全な個体どうしなら、完全ということにおいて、ひとまずそれらは同じ形質のはずである。
男と女の形質が違うということは、それらはともに不完全な個体であることを意味する。
もともと不完全な個体どうしだったのだ。
では、その不完全な個体どうしは「生き延びる戦略」としてくっついたのか。
そうではあるまい。アメーバにそんな戦略があると考えること自体、とんでもない妄想だ。凡庸な生物学者は、それを「本能」といえば説明がつくと思っている。生き延びようとすることなど、現代人の肥大化した自意識の産物にすぎない。
進化論を、生き延びようとする衝動=本能というパラダイムで考えると間違うし、必ず行き詰まる。
生き物が生きてあるのはあくまで「結果」であり、われわれは死に向かって生きてあるのだ。
「生き延びる」ことに向かっているのではない。死に向かうことが生きることだ。
生き物は進化すればするほど、生きられない不安定・不完全なかたちになってゆく。
雌雄に分かれるなんて、こんな不安定・不完全なこともない。
雌雄に分かれているから、現在のこの国のように男と女の関係が衰弱して人口が減ってゆくという現象が起きてくるし、シロクマやイリオモテヤマネコのように滅びてしまうことにもなる。
バクテリアとか、そういう単体生殖の微生物は、何十億年という昔からずっと安定して生き延びてきたではないか。
近ごろいろいろと取りざたされているトキの繁殖を見れば、雌雄に分かれることがいかに不安定で不完全な生殖方法であるかがよくわかろうというもの。
男と女の関係なんて、ほんとに不安定で不完全だ。どうしてそんなよけいなことをしないと生殖できなくなってしまったのか。
雌雄に分かれることは、安定して生殖してゆく戦略にはならない。雌雄に分かれているから、かんたんに滅びてしまうのだ。
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   4・苦しみもがくこと
二つの個体がくっついてしまうことは、バクテリアでもまれにあるらしい。
くっついて、DNAを交換するのだとか。そうやって、たがいにいったん死んで、たがいに新しく生まれ変わるのだろうか。
どんな生き物においても、命のはたらきとは、いったん死んで生まれ変わることの反復である。われわれ人間だって、つねに体のどこかの細胞が死んで新しく生まれ変わるということが起きている。
原初の生物は、「死滅する」という機能を持って発生した。いちばん最初の生物は、発生した瞬間に死滅した。
生き物が命をつないでゆくことは、個々の細胞の死滅と発生を反復してゆくことかもしれない。
つまり、最初の生まれた瞬間に死んでいった生物が、だんだん命をつないでゆけるようになったのは、「生まれ変わる」ということができるようになっていった、ということだろうか。死ななくなったのではない、死ぬことと生まれ変わることの「反復」が起きてきたのだ。
おそらくこれが、生き物が命をつなぐということの根源のかたちなのだ。バクテリアだろうと人間だろうと、死滅し発生する(生まれ変わる)ことの「反復」として命をつないでいるのだ。
DNAとは、細胞が同じかたちで「生まれ変わる」ための機能なのだろうか。いずれにせよそれは、ひとつの個体が命をつないでゆくための機能であって、べつに「子孫に自分の形質を伝える」という目的があるわけでもなかろう。子孫が引き継ぐ遺伝子が同じとかちょっと違うとかということはたんなる「結果」であって、種として子孫に引き継いでゆくために「細胞の中でDNAが発現する」ということが原初の生命に起きてきたわけでもないだろう。
生き物は、生きようとする「意志=衝動=本能」で生きているのではない。僕は、そんなものは信じない。生きてあることは、たんなる「結果」なのだ。
DNAの構造が螺旋状になっていて、科学者はこれを「情報」といったりする。たんなる感情的な問題だが、こういう言い方はうさんくさくていやだなあ、と僕は思う。「情報」とは「伝える」ためのものだろう。伝えてなんかいない。ただたんに細胞が生まれ変わるための機能だろう。「同じになる」ためではなく、「生まれ変わる」ための機能だろう。
そしてその細胞は、べつに生まれ変わろうとしたのではなく、死滅するに際して苦しくてもがいただけだ。その「もがき」が、結果として「生まれ変わる」ということをもたらした。「ゆらぎ」と言い換えてもいい。命のはたらきにそういう現象が起きていることの根源の契機は「死滅する」ということにある。
生まれ変わりたかったんじゃない。苦しくてもがいたら、生まれ変わってしまったのだ。
苦しくてもがいたから、DNAが螺旋状によじれていったのだ。
この生は、「死ぬ」という淘汰圧を受けて成り立っている。
DNAに刷り込まれてあるのは「情報」ではない。この生の「受難」のかたちが刷り込まれてあるのだ。
まあ、十字架にはりつけにされているキリストのすがたと、DNAのかたちはよく似ている。
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   5・生き延びたいという高級な欲望?
こういうことは科学者にとってはどうでもいいことかもしれないが、生きてあることはどうしてこんなにもしんどくてやっかいなことなのだろうと嘆いている人間とっては、かんたんに「情報」などといわれると、いやだなあ、と思ってしまう。
べつに生まれ変わりたいんじゃない。生き延びたいんじゃない。子孫に伝えたいんじゃない。そんなことのための「情報」としてわれわれはDNAを持っているのではない。生きてあることはしんどくてやっかいなことで、もがき苦しんだ結果としてDNAが発現したのだろう。だからそれは、いかにももがき苦しみ身をよじるように「螺旋状の構造」をしている???
科学者の人たちに対しては、僕はこういいたいのだ。あなたたちが、人類が生き延びるための叡智として科学をしている、というのなら、やめてくれよ、と思う。そんなことは、どうでもいいことだ。そんなことのためにがんばっているといっても、僕は尊敬しない。僕が知りたいのはただ、生きることはどうしてこんなにもしんどいのだろうということだ。
われわれは、生き延びたいわけじゃない。ただもう「知りたい」ともがいているだけだ。人間がなぜ「知りたい」ともがくかといえば、死滅する際に苦しくてもがく存在だからだ。生きることそれ自体がまさに、死滅する際に苦しくてもがいている状態だからだ。
知ろうとすることは、苦しくてもがくことである。悪いけど僕には、あなたたちのような知識欲などという高級な欲望も、人類が生き延びるためにこの身を捧げるという使命感も持ち合わせていない。ただもう、知ろうとしてもがいているだけだ。そして、そういう欲望や使命感でがんばっておられる上野千鶴子氏や内田樹先生が僕よりも深く遠くまで人間について考えていると評価しておられる人がいるのなら、どうかここにいってきていただきたい。僕は、あの二人なんかただのアホだと思っている。
発生した瞬間に死滅していった原初の生命は、「死滅する際にもがく」というかたちで発生した。その「ひともがき」が、彼らの生涯だった。現在の地球上のすべての生命は、おそらくこのかたちの上に成り立っている。
雌雄の発生もまた、死滅寸前の生き物が生き返るという現象だったのだろう。われわれの命のはたらきは、死滅と発生=再生の反復として成り立っている。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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