閑話休題・ころころ

あるブログで、こんな短歌を見つけた。
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おとなうてなげく石ありさかさみちくだるあしもと:ころころ
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僕は、この歌を前にして、立ちつくしてしまった。そして、そのあとも何度もこのページに戻り、考えてみた。
しかし自分の能力ではこの歌の感想(批評)は書けそうにないなと思った。でも、気になるから、ひとまず書いてみることにした。
どうしてこんなにも高度で鮮やかな言葉が紡ぎ出せるのだろう。よほど言葉に対して鋭敏で、さらに深い教養があるからだろうか。
まず「おとなうて」というやまとことばは、「訪れる」という意味だろうか。しかしそれなら「おとなふ」と表記した方が感じが出る。「ふ」は、「ふるえる」の「ふ」、人や場所を訪れてときめき心が震えるから、そういう感慨の表出として「ふ」という語尾にする。
とすればこの場合の「おとなう」は、そういうニュアンスを含みつつ、それだけではすませていないのだろう。
「おと+なう」だろうか。「なう」は、「縄を綯(な)う」の「なう」。縄を綯うとは、藁をよじって縄にすることだが、「おと」を「なう」とは、どういうことだろうか。
この場合の「おと」は、たんなる「音」だけの意味ではない。やまとことばは、ひとつの音韻にさまざまな意味=ニュアンスが含まれている。だから、「かけことば」とか「ダジャレ」とか、いろいろややこしい言葉の使い方が生まれてくる。
「おと」の「お」は、「おお」と驚きときめく感慨の表出。「感動」「発見」の語義。
「と」は、「止まる」「戸」の「と」。人を訪れて戸の前に立ち止まって不安と期待に震えている感慨から「と」という音声がこぼれ出てきた。気づいて立ち止まることを「おと」という。だから「音」を意味するし、「訪れ」の意味でもあるし、「探究」というニュアンスもある。
「なう」は、「よじる」こと、身をよじって「表現する」こと、身をよじって「生きる」こと。そういうさまざまなニュアンスを含みながら「なう」というやまとことばが生まれてきた。
「な」という音韻には、「萎(しお)れる」というニュアンスと「なじむ」というニュアンスがある。われわれは、生きることに深くなじみつつ、しおれて嘆いてもいる。
だから遺伝子は、よじれて螺旋状になっているのだろうか。これは、たんなる「比喩」ではない。それは、すんなり生きるという目的を持って発現してきたのではあるまい。自然からの「淘汰圧」を受けてよじれていったのだろう。「よじれる」という現象がどのようにして起きてくるか、物理学者に聞いてみたいところだ。何らかの圧力が加わらなければそういう現象は起きないだろう。
つまり、われわれの「遺伝子」という生命の素は、「生命は死滅するという機能を負ってこの地球上に出現した」というかたちで淘汰圧を受け、あんなふうによじれていったのではないだろうか。
生命は、「死滅する」という淘汰圧を受けてはたらいているのだ。よじれないはずがない。
そういう「よじれ」が、生きることであり探究することであり表現することだ。
われわれの命は、茂木健一郎氏がいうように「ふくよか」なのではない。もがき苦しんでよじれているのだ。
とすれば、この場合の「おとなう」は、「生きてあることのしんどさの前に立ち止まって身をよじりながらそのしんどさを探求し表現すること」というところまで僕に想像させる。
この「おとなう」という表現に、僕はちょっとドキドキする。
作者がどんな意図でこの「おとなう」という言葉を使ったのかということなど僕は知らない。言葉も、人と人の関係も、つねに一方通行だ。その一方通行であるところに、言葉の可能性も人と人の関係の可能性もある。
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だから、この「おとなうて」は、次の「なげく石あり」に連結してゆくのだろう。
身をよじって生きている石がある。まあ誰だって、ただの石ころみたいな存在だ。「命の尊厳」などというべきではない。あえて言えば、「身をよじって生きているただの石ころ」であるところにこそ人間の尊厳があるのであって、おまえらみたいに「上機嫌」で生きているえらそうなやつらやお幸せなやつらのもとにあるのではない。
この場合の「石」は「意思=心」をかけているのかもしれない。あるいは、みずからの死んでゆくものとしての「遺志」というニュアンスもあるのだろうか。
そうして「さかさみち」という言葉に続いてゆく。
「坂道」ではない「さかさみち」なのだ。
ただ五七五七七の「五音」という調子を整えるためにそう表現したのではない。それだけのことなら、「坂道を」といえばいいだけのこと。
生きてあることの「さかさみち」は、いろいろある。世の中に背を向けて生きている人もいれば、僕みたいに世の中の常識の逆のことばかり考えている人間もいるし、世の中から置き去りにされて死に向かっている老人たちだってみんな「さかさみち」を生きているのだろう。
そして「さかさみち」を行くことは、いつだって「くだる」なのだ。「さかさみち」を行く人間にとっての生きることは、ただもう命がやせ細ってゆくことの「くだる」行程でしかない。そして「くだる」ことにこそ生きてあることの醍醐味がある。「くだる」ところで人は、生きてあることを味わいつくしている。生きてあることの真実と出会っている。
最初の「おとなうて」という言葉は、まっすぐにこの「さかさみちくだる」につながっている。
そして「くだるあしもと」とは、生きてある身体の鼓動のようなことをいっているのだろうか。「生きざま」あるいは「命のはたらき」とも解釈できる。
「くだるあしもと」なんか、情けないものだ。生きてあることのそうした「たよりなさ」とか「かなしみ」とか「しんどさ」とか「アホらしさ」とか「おかしみ」とか、そんなものをあらわして、この作者は「ころころ」といった。
生きてあることの命のはたらきなんて、もう「ころころ」というしかない。ここで字数を合わせるために「ころころころと」などといってしまったら、ちょっと違う。命は、そんなふうにいつまでも続いてゆくものではない。いつ終わるかもしれない「ころころ」なのだ。
この歌は、たとえ字足らずでも、どうしても「ころころ」で止めるしかない。そのために「:」をインサートしたのは、この作者の豊富な教養であり遊び心だろうか。おしゃれだと思う。
僕はその「ころころ」というニュアンスを、「命のはたらきとは死滅することと発生(再生)することの反復である」と書いた。たしかに「反復」ではあるのだが、永遠の反復ではない。「反復」それ自体に死の影が宿っている。死の影が宿っているから「反復」する。
つまり、命のはたらきには「死」という淘汰圧がはたらいている、ということだ。「死」という淘汰圧のことを「命のはたらき」という。そういう「ころころ」という情けない感じ……。
人と人は、この「情けない感じ」を共有して、ときめき合い連携し結束している。
おまえらのえらそげな「上機嫌」のおかげじゃない。おまえらみたいに下品な人間にそんな顔をされてもしらけるばかりだ。生きていることが、ますます情けなくなる。
このごろ、「批評」とは何か、ということをよく考える。もちろん僕にはそんな感性も教養もないが、「上機嫌で生きている」とほざく人種に人間について批評する能力があるとは、さらに思わない。
おとなうてなげく石ありさかさみちくだるあしもと:ころころ
こういう歌にこそ、人間についての批評がある。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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