やまとことばと原始言語 17・ネット社会の別れ

一年前、<ゆかの「やまとことば」>というブログを書かれている女性と、このページで何度かコメントを交換したことがあった。年齢も身分もわからない。ただ、やまとことばの教養の深く豊かな人だということしか知らない。
そのブログは、繊細な語り口で、しかもやまとことばに対する深くきめ細かい探求の態度も併せ持ち、読者も多かったはずである。もしかしたら、現在のネット社会で、いちばん本格的で魅力的なやまとことばのブログだったのかもしれない。
しかしその人からのコメントは、あるときから、ぱったり途絶えた。
そのころ僕は、イカフライという人からの執拗な嫌がらせのコメントに悩まされており、コメント欄を一時的に閉鎖するしかなかった。
そのイカフライという人は、僕と同じようにやさぐれて生きている人らしいのだが、だいたい僕は、そういうタイプの人間にものすごく対抗心をもたれてしまうところがある。まあ、異常なくらい執拗な嫌がらせだった。
ともあれ、そのあとコメントの「承認制」という方法があることを知り、ひと月くらいで再開したのだが、もうその「ゆか」という人からコメントが来ることはなかった。
しかも、それだけではなかった。彼女自身のブログもまた、まったく更新されなくなっていた。
まだまだずっと続きそうな書きざまだったのに、じつに唐突に途絶えてしまった。
ずっと気にかかっている。
今ごろ、どうしているのだろう。
どうしてブログを更新することをやめてしまったのだろう。
とても神経が細く傷つきやすいところのあるらしい人だったから、「生きているのだろうか?」という思いにもさせられる。
どうしても、不吉なことを想像してしまう。
そして、そのブログの最後の記事のあとに、僕に対するメッセージが付け加えられてあった。僕が読んだことがわかればこのメッセージの部分は消す、と書かれてあったのだが、そのブログにはコメント欄がなく、僕はすぐにこのページで「確かに受け取りました」と書いて返信したつもりだった。
しかし、そのメッセージは、いつまでたっても消されることがなかった。まるで、何か不吉なことがあったかのように。
今でもときどきそのページを開くのだが、今となっては、そのメッセージが、なんだか僕に渡された「遺書」であるかのような気にもなってくる。
ちょっと気が引けるのだが、一年たって、やっぱりそのメッセージをここに転載しておくことにした。もうその人の消息がわかるということもないだろうが、僕がこのブログを書いている意気込みを代弁してくれているような内容でもあるし。
何はともあれ、この世の中にはくだららないことをいってわれわれを追いつめてくる人間ばかりの社会的合意があり、僕は、そんなものと戦いたいのだ。
(注…その人は、いつもその人自身ではなく、なぜかその人の「おじさん」と名乗ってコメントしてきていた。それくらい、いつも何かに追いつめられ、深く傷ついて生きている人だったのだ、たぶん)
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2009.8.3 ひろみちさんへ
コメント欄に書こうと思ったら、事情でそれを閉じざるを得なくなっていたことを知りました。時々開く、と言うことですが・・ でもタイミングが合わないといけませんので、それでここにこうして置かせてもらうことにしました。論点がずれて、こちらの方のブログを読む人が混乱するといけないので、ひろみちさんが読んだことがわかったら引っこめます。もし目にとまって読まれたら、「読んだ」とだけひろみちさんのブログかそのコメント欄に書いておいてもらえますか。ただ近頃ウェブには一、二週とか三週とかあるいはそれ以上に一度くらいしかアクセスしないことが多いので、ひろみちさんが読んだことを知るまでに時間が掛かるかもしれませんが、分かったら引っ込めます。姪には、コメント風のものでは、言葉づかいにせよ、おじさんの品、というものが少し問題であるらしいので、あまり長くここには居られないのです。
ひろみちさんの最近のものは今読んでいます。以下のはコメント欄が閉じられたことを知る前に昨日書いたものです。
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ここしばらくウェブから離れていたので、ひろみちさんの文章の読んでない分を今読んでしまって書くことが又出てくると、コメント送るのがまたずっと遅れますので、それを読まないままこれを送ります。それにほめたり、返礼のようなことをしているうちに双方が駄目になっていきますから、このコメントは必ず読みっぱなしにしておいてください。
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ひろみちさん、大変な見解、説明です。今年を少しサバ読んで「二十世紀」にしておきますと、激動の二十世紀の最後を飾る大成果じゃないですか。「成果」は俗っぽすぎ、なまぐさくもあるので、到達点、と言う方がいいのか、それも息苦しいので、結局何と言ったらいいのか・・  とにかく日本でこの見解、説明が見出だされたということもうれしいです。今年をそのまま二十一世紀としても、この世紀の初めを飾る礎石というべきです。
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Dr.Hの「(略称)SZ」は、二、三十ペ−ジに三、四行は何とかピンとくるくらいの感じですが、ひろみちさんのもむつかしく、読むのに相当気力が要るけれども、それでも分るところの方が多いです。正直言って目が慣れ始めるのに時間が掛かり、そこに入ってもまだ疲労感があり、それは独特の言い方が視角の大きな移動を伴うからなのですが、そこから今度は自分の元の居場所に戻るのにまた時間が掛かります。それだけ大変な新しい視界、ということです。それがゴテゴテしていなくて、風通しがいいふうなのがいい。
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「SZ」では「道具性」ということがよく出てくるけれども、でも、道具というものは、人とお猿とを区別する決定的なものではないし、他の動物のばあいに照らしてみてもそうです。そうしてみるとやはり、「被服」、それもオシドリや極楽鳥のように直接に遺伝子を通して、ということでないものの呼称としての「おしゃれ」ということと、それに「言語」ということが決定的二因子になりますよね。しかし、前者など、よくそういうことが分りましたね。
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「空間」ということを機軸にとるひろみちさんの切り口と説明に耳を澄ませると、実にいろいろなことの説明が可能で、それに問題によっては今まで抱いていた疑問が、そもそも問題として成り立たない、少なくとも問題としての迫力を失う、という、そういう全く新たな説明言語の空気層ができているのを感じます。
前のコメントで「自律的」と書いたのはもちろん「オ−トノミ−」のことです。それと「列島の状況については互いに平行線を辿る」と書きましたが、そもそもひろみちさんが対象としている時間のスパンは大きくて、おれのは比較になりません。おれのは二千年前前後のほんの数世紀の事情であり、それもほぼ言語領域だけのことで、そのわりに違いの説明をしだすと細かで長くばかりなりますので、端的にはただごく部分的に平行線、という風にしておいた方がいいと思います。それにこのばあい、その平行線でいるということはとても大事で意義が大きいです。
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「実存」というコトバはどうしてもよく分らず、又安易に使いたくなくて、今までずっと使ったことがなく、ひろみちさんの説明を聞いていてやっと少しまともに入って来はじめた、といったところで、次のばあい、他の言い方がないという感じなので使ってみますけど、日本列島の状況について、ひろみちさんの「地勢学的実存論」(と言っていいですか?)とも言える説明で、縄文人の生活のあたり、気持ちの細かなヒダのこと、実によく言えていると思います。
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ことばの方のことですが、ひろみちさんが言う、やまとことばでは駄洒落が多い、駄洒落を言いやすいということは、やまとことばの最重要の特徴で、おれもほとんど同じところから始まっています。
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で、ひろみちさんが言う「やまとことばのコトバは意味性が稀薄」、ということと、おれがいろいろと言っていることとは同じ事の表裏の関係にありつつ、同時に別の向きに向かっているのですけど、上でも少し触れましたように、その際、おれが云っている事にはなるべく目を向けない方がいいです。
そういう意味でオ−トノミ−のことを云ったのですが、ひろみちさんのコトバの詞源的な説明の中でたとえば普通には突飛であって冗談のように聞こえるようなあたりには、詞源解析にとって、発想、視角の多様性という点で重要な因子がぎっちり詰まっています。そこに仮にもおれの目線を入れてしまうと、事が平板になってしまいます。                   
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ひろみちさんに書いた最初の講釈風なのは相当迷走していて、あとのほうでも「アソビを持たせた方がいい」などど言いましたが、それがひろみちさんを一時でも相当苦しめたのではないかと思います。苦心したのに今頃言われても、と言われるかも知れませんが、ひろみちさんの思考は、語り口としては独断的風の方が似合います。
たまたま言語のことでテ−マ的に重なるところがあったので、そのあたりはとやかく云えましたが、全体的に、というか、人の気持ちに関わるそういうところは、おれがとやかく云えるレベルのものではないです。それを読むことにおいてはともかく、それを表現し、説明して書くことにおいて追いつける人はいないでしょう。追いつくも追いつかないも無く、そもそもその方向に向けて歩き始めた人がいないのでは・・遠からず、ひろみちさんのそういう目による今までに無かった「言い方」が日常の会話に取り入れられて、人々が何気なくそれを言うとき、自然にその目を獲得している、といった日が来るでしょう。
ひろみちさんの痛みがみんなに新しい目を与えます。
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ひとまずこのようなメッセージをもらったのだが、あのとき僕は、返信のコメントを一度だけにせず、何度も何度もするべきだったのかもしれない。
いったい僕は、どのようなかたちでこの人と別れたのだろう。別れたという事実だけが残って、どのような別れ方をしたのかは、もう雲の中だ。
ネット社会の別れは、悲しみも肉体の痕跡も残さない。
「後悔しない人生」なんて、僕にとっては夢のまた夢の話だ。悔やむことばっかり。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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