閑話休題・「いかに生きるべきか」という問題の嘘

まあ社会的な地位とか経済力はともかく、人間であることの資質において、内田先生から「だからおまえはだめなんだ」といわれるようなスキは見せたくないという気持ちが正直いってどこかにあります。
身体能力のこととか、思考力とか想像力とか、そんなようなことです。
人それぞれなんだから、べつにスキがあってもいいのだけれど、いちおう先生にさげすまれている人間のひとりとしては、その部分だけはあんなしょうもないやつに負けたくないのですね。そうでないと、反論できなくなってしまう。
社会的な地位とか経済力のことで何をいわれても仕方ないが、身体能力のことや思考力や想像力においておまえからさげすまれるいわれはない、とどうしてもいいたいわけです。
なんでわれわれが、あんな鈍くさい運動オンチのインポオヤジからさげすまれねばならないのか。
何もかもわれわれよりも勝っているというような言い方をしてきやがる。そうして「私を見習え」と。
何が悲しくてわれわれが、おまえみたいな鈍くさい運動オンチのインポオヤジにならねばならないのか。
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内田先生は、人間として「いかに生きるべきか」というテーマを実践して生きているんだってさ。
そしてわれわれは、「いかに生きるべきか」という問題など存在しない、という。
先生、そういう問題など持たない人間のほうが、体がうまく動くし、ちんちんだってスムーズに勃起するのですよ。あなたの好きなことばである「人間性の基礎」は、そういうところにあるのですよ。
内田先生は、「いかに生きるべきか」という問題に対するみずからの信憑を物差しにして、「人間性の基礎」についても、そのようなかたちに決めてかかってくる。われわれからしたら、おまえがそう思いたいだけだろう、というようなことを、これこそ人間性の基礎であり本質である、と扇動しまくってくる。
おまえらがそう思いたいだけじゃないか。そしてそれらのことは、つねに現実と科学の実証によって否定されなければならない。
たとえば、内田先生や一般の文科系の人々が安直に「命の尊厳」ということに対して、分子化学者は、「この世に<生命>とか<生きている>という概念は成り立たない。生命(有機物)と非生命(無機物)のあいだには無限のグラデーションが横たわっている」という。
文科系の人々は、こうした知見に素直に耳を傾けるべきだろう。
つまり、この世には、生命でも非生命でもないものがたくさんある、ということだ。そして、生命が尊厳であるのなら、非生命には尊厳はないのか、という問いも生まれてくる。
われわれの身体だって、死んだら土や空気や水などの無機物に還ってゆくのである。だったら、この世のすべてのものが生命であるともいえるし、それは、生命などというものは存在しない、といっているのと同じことでもある。
われわれの体の細胞はたえず新しいものと入れ替わっているのに、自分以外の体にはけっしてならない。怪我をしてすりむいても、ちゃんと元通りになる。これは、不思議なことだ。われわれの体は、同じものであろうとする作用を持っているらしい。人間からは人間の赤ん坊しか生まれない。
われわれの身体は、つねに「今ここ」であり続けようとしている、ということだ。今ここから未来に向かって「生きよう」となんかしていない。今ここの「生きてある」という事実にしたがって、「今ここ」を更新していっているだけだ。
つまり、生き物は「いかに生きるべきか」という問題で生きているのではなく、「今ここ」の「すでに生きてある」という事実を受け入れようとしているだけだ。われわれの身体は、自分以外の身体になろうとはしない。どのような身体になるべきか、という問題など持っていないのだ。すなわち、「いかにして生きるべきか」という問題など存在しない、ということだ。
われわれには「せずにいられないこと」があるだけで、「しなければならないこと」を持ってその実現のために生きているのではない。すなわち、「同じ身体になろうとすること」を「せずにいられないこと」として持っているだけだ。
誰だってそうさ。
あなたたちが「いかに生きるべきか」という規範に従って「しなければならないこと」を実行してゆくことだって、それ自体「せずにいられないこと」だろうが。そういうスケベ根性を強く持ってしまったものは、そうやって生きていけばいいし、そうやって生きてゆくしかないだろうさ。しかしそれは、人間の本性でもなんでもない。そういう社会の制度性があるというだけのこと。制度性の犬になってしまった人間は、制度性の犬になり続けるしかない。
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生きてあることなど、身体がすでにしてくれている。食べたものを消化することも、消化したものを血や肉に変えることも、呼吸をすることも、ぜんぶ身体(内臓)がやっていることじゃないか。
生きたくて生きているんじゃない。「すでに生きてある」という事実には抗しがたいものがあるからだ。生きたくなくても、体が勝手に生きてしまっている。
べつに生まれてきたくて生まれてきたのではないが、ひとまずわれわれは、生まれてきたという事実を受け入れている。生き物の身体は、生きてあるという事実を受け入れる作用を持っている。それが、どんなに細胞が入れ替わっても同じ身体であり続けることができる理由だ。
くらげやだんご虫は、生きたくて生きているのか。生きたいというのなら、生きがいがあるということだろう。彼らに、生きがいなんかあるものか。それでも生きてあるのだ。なぜなら生きてあることは、身体が勝手にやってくれた「結果」にすぎないからだ。
それでも彼らは生きている。それは、驚くべきことであり、われわれにとってとても感慨深い事実である。
「生きがい」もなく「いかに生きるべきか」と問うこともなく、それでも彼らは生きてあるのだ。
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「女性の品格」だろうと、勝間和代だろうと、もろもろのスピリチュアルの本だろうと、このごろは「いかに生きるべきか」というマニュアルを説いた本があふれている。
そんなことは人それぞれの勝手だし、生きなければならないというわけでもない。それでも生き物は生きているのだ。そのことがどんなに驚くべきことか、お前らみたいな鈍感な俗物にはわかるまい。
内田樹先生なんか、現在いちばん声高に「いかに生きるべきか」と吹聴しまくっている知識人のひとりだ。つまり、これほどの俗物もそうそういない、ということだ。
「いかに生きるべきか」という規範に従って生きているということは、この人の人生は何から何まで「つくりもの」で、「こう生きるしかない」という切実さや必然性は何もない、ということである。
そんな嘘っぽい「つくりもの」の人生が、そんなにすばらしいのか。俗物め。
でも、先生だって、そんな嘘っぽい「つくりもの」の人生を「生きるしかない」だけなんだよね。根っからの俗物だから、そんなふうにしか生きられないんだよね。
けっきょくみんな、「こう生きるしかない」というところを生きているだけなのだ。
なぜなら生きてあることは身体が勝手にしてくれていることだから、けっきょく誰もが「こう生きるしかない」という「結果」を生きているだけなのだ。
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先生のブログのいちばん新しい記事では、「あるべき共同体のかたち」をとくとくと吹きまくっていやがる。
そしてそれを読んだ僕は、無茶無茶むかついている。
こんなふうにいっておられる
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どういうタイプの共同体が歴史の風雪に耐えて生き延びることができるか。これはなかなか興味深い問いである。
あらゆる集団はその成員の標準的なアチーブメントに及ばない「マイナーメンバー」を含んでいる。幼児や老人や病人や障害者は集団内では支援を与えることより、支援を受けることの方が多い。けれども、これらの「マイナーメンバー」を支援するときに、「自分は損をしている」というふうに考える人間には共同体に参加する資格がない。
あらゆる人間はかつて幼児であり、いずれ老人になり、高い確率で病人となり、心身に傷を負う。だから、集団のすべての構成員は時間差をともなった「私の変容態」である。それゆえに集団において他者を支援するということは、「そうであった私、そうなるはずの私、そうであったかもしれない私」を支援することに他ならない。過去の自分、未来の自分、多元宇宙における自分を支援できることを喜びとすること。そのような想像力を用いることのできない人間には共同体を形成することはできない。
集団成員のうちの相対的に有力なものに優先的に資源が配分されるような「弱肉強食」共同体は長くは続かない(いずれお互いの喉笛を掻き切りあうようになる)。集団成員のうちのヴォリュームゾーンである「標準的な能力をもつ成員」の利便を最優先に配慮する「平凡」共同体も、やはり長くは続かない(全員が均質化・規格化して多様性を失ったシステムは環境変化に適応できない)。
もっとも耐性の強い共同体とは、「成員中のもっとも弱いもの」を育て、癒し、支援することを目的とする共同体である。そういう共同体がいちばんタフで、いちばんパフォーマンスが高い。これは私の経験的確信である。それゆえ、組織はそのパフォーマンスを上げようと思ったら、成員中に「非力なもの」を意図的に組み込み、それを全員が育て、癒し、支援するという力動的なかたちで編成されるべきなのである。
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こういう俗物のこういう偽善的な物言いが、僕は大嫌いなのだ。
<「自分は損をしている」というふうに考える人間には共同体に参加する資格がない>…だって?
そんなふうに偉そうに人を裁くな。何様でいやがる。損をしている、と思ったっていいじゃないか。お前はそう思ったことがないのか?誰よりもしんどい思いをしながら年老いた老人や身障者の家族の介護をしている人が、「自分は損をしている」と思ったらいけないのか。
おまえは、その人たちに負けないくらいしんどい介護の現場にいるのか。
若い女房をもらってよろしくやっているだけの人間が、そんな偉そうなことをほざくな。
こんなことをほざく態度が、「偽善」といわなくて、何というのか。
「共同体に参加する資格」などないのだ。誰だって、すでに共同体に組み込まれて生きているだけじゃないか。人殺しもやくざも「自分は損をしている」と不平たらたらの人間も、みんな共同体の一員なのだ。共同体の一員だから、人を殺したら牢屋に入れられるし、やくざは悪者扱いを受けなければならない。
おまえの共同体か。おまえが勝手に「共同体に参加する資格がない」などと裁くな。その思い上がった下種な根性は何なのだ。ほんとにむかつく。
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<集団のすべての構成員は時間差をともなった「私の変容態」である>…だって?
人をさげすむことばかりしている人間が、こんなことをいうかねえ。だったら、すけこましの詐欺師も人殺しもやくざも、おまえの「変容態」なんだぞ。おまえは、そういう他者を、そういう視線で見ているのか。そういう視線ももてないで、自分の都合のいいようにだけ世界を構成することを「偽善」というのだ。
だいいち「他者」とは、「自分ではない人間」のことをいうのではないのか。おまえには、他者の他者たるゆえんである「自分ではない」ということに対する敬意はないのか。
「老人」や「病人」や「心身に傷を負う」人たちを「私の変容態」であると見下し憐れんで、ああ僕ちゃんてなんと心のやさしい人間なのだろう、とうっとり悦にいっていやがる。そうやってじぶんをまさぐっているだけの、その薄汚いフェティシズムはなんなのだ。
つい先日は、階層下位にある「非力」な若者や子供をさんざんさげすんでおいて、何が「非力な存在と共存する」だ。というか、ここでもやっぱり、「私の変容態」などという口当たりのいいことばでごまかしながら、本心のところは、満々の優越感でさげすんでいるだけなのだ。
実際にその現場に立ってけんめいに介護をしている人たちは、おまえみたいなそんな虫のいいうそくさい考えで動いているのではない。
自分などというものは捨てて、自分ではない「他者」というその存在にたいする敬意と驚きとときめきを汲み上げながらけんめいにがんばっているのだ。そうして時には疲れ果て「自分は損をしている」という考えが浮かんできたからといって、毎日泣きながら「自分は損をしている」と思って生きていようと、何をおまえごときのうてんきな人間に裁かれないとならないいわれがあろうか。
おまえには「他者」の「自分ではない」という存在のかたちから学ぶことは何もないのか?ときめくことは何もないのか?どうしようもないニヒリストだな。この世の中がおまえみたいな人間ばかりになったらと思うと、ぞっとするよ。
そして、こんな欺瞞だらけの下品極まりない言説に感激してありがたがっているやつがこの社会にはうじゃうじゃいるということだって、そりゃあもううんざりさせられる。
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「教えてやる」とか「癒し慰めてやる」とか、お前らの優越感や自己満足がダイナミックに機能する共同体こそもっともタフな共同体である、てか?
彼らが「非力」であるとしても、その「非力」さから学ぶことやときめくことがあるから、彼らと共存しようとするのだ。
「自分の変容態」ではなく、「自分ではない」存在だから共存しようとするのだ。
ともあれ、人間の社会であるかぎり、そんなことはどんな共同体だってやっていることだ。
やっていない社会などあるものか。それは、人間であることの属性なのだ。
そして、やっているからその共同体が生きのびるとはかぎらない。そういう理想的な社会が戦争などで滅んでいった例は、歴史の中でいくらでもあるじゃないか。そういうことにあまり熱心でない大国がのさばっている例は、過去にも現在にもいくらでもあるだろう。
べつに、生きのびるとか生きのびないとか、そんなことはどうでもいいのだ。そんな卑しい視線で世界を語るなよ。
どんないい社会をつくろうと、滅びるときは滅びる。それでも人間は、「非力」な存在と一緒に生きていこうとする。滅びるとわかっていても、武器を生産することよりも「非力」な存在と一緒に生きてあることを選んだ共同体もある。
「生きのびる」なんて、そんないやらしい物差しで世界や人間を語ろうとするなよ。
「生きのびる」というパラダイムでものを考えるから、軍備の増強や拝金主義も生まれてくる。現実問題として、「非力」なものと一緒に生きようとするなら、滅びることは覚悟するしかないし、その覚悟をするのが人間の生きてあるかたちなのだ。
われわれは、「いかに生きるべきか」と問うて存在しているのではない。「すでに生きてあること」に驚きおそれ、ときめきつつ生きてあるのだ。「非力」なものと一緒に生きる、ということはそういうところから「せずにいられないこと」として起きてくるのであって、「いかに生きるべきか」と問う人間たちの嘘っぽい義務感や使命感から起きてくるのではない。「いかに生きるべきか」と問い、「いかにして生きのびるか」と問うている者たちは、けっきょくのところ自分にしか興味がないんだよ。
「自分」も「生き延びる」という問題も捨てたところで、はじめて「非力」なものと一緒に生きるということが成り立つのであり、もともと人間は、そういう生態を持った生き物なのだ。
「滅びる」ことを覚悟して、人間は人間になったのだ。このことについては語ればきりがないのだが、ともあれこのブログは、いつもこのことをいってきたはずだ。
内田先生みたいに、その場しのぎのレトリックを糊塗し続けてきたのではない。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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