進化論の問題をちょいと

<承前>
意識は、身体が生きたことの結果として発生する。したがって意識の根源においては、生きようとする意志とか衝動というようなものはない。
生きようとしていないのだから、「いかに生きるべきか」という問題もありえない。
人間は、生きるために生きているのではない。われわれにとって大切なことは、生きることではなく、生きることのカタルシスを汲み上げてゆくことにある。
「いかに生きるべか」という命題を実現してゆくことがカタルシスであるのではない。人間はほんらいそんな命題などもっていなし、生きてあることがうっとうしくてしょうがない人間にそんなふうに生きろといっても、なおうっとうしいだけだ。
いいかえれば、生きてあることがうっとうしいからこそ、生きてあることのカタルシスが体験されるのだ。その体験は、生きてあることがうれしくてしょうがないインポ野郎のもとにあるのではない。
生きてあることのよろこび(カタルシス)とは、生きてあることのうっとうしさを消去することだ。よろこびとは、このうっとうしい生の浄化作用(カタルシス)である。
この浄化作用(カタルシス)が、人間を生かしている。
世の俗物どもがいうように、「いかに生きるべきか」という問題を実現してゆくその達成感で人間は生きているのではない。
生き物は、みずからの生をつくらない。みずからの生を消去する。みずからの生を消去することが、生きるいとなみである。
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この生は、女の体内の一個の卵子から始まった。
卵子は、ほぼまん丸である。
それが、だんだん細長いかたちに変わってゆく。生き物が成長するとは、細長くなってゆくことらしい。
ウィルスはほぼまん丸である。それが進化して微生物になると、細長い楕円形のかたちになってくる。そして、さらに成長しようとする作用が起こると、そこから細長い繊毛が生えてくる。人間でいえば、手足が伸び、毛髪が伸びてくる。
生き物の細胞は、つねに新しくつくり変えられてゆく。にもかかわらず、同じかたちの体が維持されている。生き物の身体は、同じかたちになってゆく作用を持っている。たえず古い細胞を捨てて新しい細胞をつくり続けているのに、それでも同じかたちの身体であり続ける。
であれば、まん丸い卵子もまん丸いまま成長してゆき、われわれの身体は大きな球体になっているはずである。しかし、そうはならないのはなぜか。
おそらく成長するまいとする作用がはたらいて、かたちが細長くゆがんでゆくのだ。同じかたちであろうとするからこそ、成長すればゆがんでしまうしかないのだ。
まん丸いかたちをしていても、表面がすべて均質とはかぎらない。身体は環境との関係に置かれているから、その置かれた位置によって、環境からの圧迫を強く受けている部分と、弱い部分がある。その強い部分に反作用としての成長する力が集中して、かたちがゆがんで膨らんでゆく。
環境から圧迫を受けている部分が、成長の場になる。圧迫を受けていない部分が成長するなら、まん丸い球体であり続けるはずである。
生き物の身体は、環境から圧迫を受けている部分が成長(進化)する。成長(進化)しないで同じかたちのままであろうとしながら、同じかたちのままであろうとするからこそ成長(進化)してゆく。
つまり、この生は、環境から圧迫されている部分でもっともダイナミックにはたらく、ということだ。圧迫されれば、圧迫されるまい(押し返そう)とする応力がはたらく。そうやって、圧迫されている部分が成長(進化)してゆく。
生き物の身体は、圧迫されることの応力として成長してゆくのであって、みずから成長しようとして成長してゆくのではない。
みずから成長とするのなら、まん丸のまま成長してゆくのだ。
環境に対する不適合が、生き物の身体を成長(進化)させる。われわれは、そういう「不適合」を先験的に負って存在しているのだ。
追いつめられたものは、逃げようとし、消えようとする。そういう衝動が、この生のいとなみになっている。追いつめられている(圧迫されている)みずからの身体を消そうとしながら、みずからの身体が成長(進化)してゆく。
生き物は、この生を消そう、この生から逃げようとしているのであって、「生きよう」としているのではない。
「生きよう」としているのなら、われわれの身体は、まん丸の大きな塊になっているだけである。まん丸のままでいようとしながら、まん丸でなくなくなっていくのだ。
まん丸でなくなってゆくことを「成長=進化」という。それは、生物としてのほんらいのかたちを失ってゆく過程であり、そうやってこの生を消去してゆくことが生きるいとなみなのだ。
生き物に「生きよう」とする衝動(志向性)などない。生き物はすでに環境から圧迫されて存在しており、その状況を消去しようとする「応力」で生きている。「志向性」ではない、「応力」で生きているのだ。
生き物の体が動くことは生き物であることのもっとも基本的なかたちであるが、しかしそれは 体を動かそうとする衝動を持っているからではない、環境からの圧迫を受けて動いてしまうのだ。まあ、アメーバに聞いてみればいい。きっとそう答える。
われわれがこの生について考えるとき、「すでに環境からの圧迫を受けている」ということ、このことが大事なのだ。
先験的に生きようとする衝動(志向性)を持っているのではない。
生きることを消去するすることが、生きることなのだ。
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生き物が必ず死ぬということは、この生がこの生を消去するいとなみであることを意味する。そうでなければ、「老いる」ということは原理的に起こりえないし、死ぬはずがない。
「生きよう」とするシステムにおいては、原理的に死ぬことは起こりえない。
つまり、環境からの圧迫を受けなくなっていったものから順に老いてゆく、ということだ。人はそうやって大人になる。そうやって内田先生はインポチックな大人になっていった。ほんとにインポかどうかは知らないけどね。でも、環境からの圧迫を感じていない人間の身体においては、そういう生きてあることのダイナミズムは起きないということはもう確かなことだ。そしてそれは、豊かで安定した現代社会が抱えている問題でもあるはずだ。
生きてあることのよろこび(カタルシス)とは、生きてあることのうっとうしさ(嘆き)を消去することだ。よろこびとは、浄化作用(カタルシス)である。
生きてあることのもっとも深いよろこび=カタルシスは、もっとも深く嘆いているものによって体験されている。
人間がなぜよろこんだり悲しんだりするかといえば、それほどに深く嘆きを抱えた存在だからだ。
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人間は、生き物の身体現象を、心的現象として持っている。
生き物の身体は、身体を消去しようとするシステムによって進化する。そのシステムとして人間はカタルシスを体験している。
生きてあること(=自分)を忘れて何かに夢中になっているときが、誰だっていちばんたのしいだろう。そんなようなことだ。
女のオルガスムスとは、自分の身体(存在)が消えてゆく心的現象のことらしい。
われわれは、生きてあることを忘れたいのだ。
生き物の身体は、環境に対する不適合として存在している。そしてその身体は、意識に先立って生きるということをいとなんでいる。意識は、その身体のはたらきに添うようなかたちで発生し、はたらいている。
何はともあれ、身体が意識を発生させるのだ。したがってその身体の産物である意識が、「生きようとする衝動」だの「いかに生きるべきか」などとしゃらくさいことはいわないほうがいいい。そんなスローガンで生きている人間にかぎって、さっさとインポになったりヨイヨイになっちまったりするのだ。
身体が環境からの圧迫を受けて存在しているように、意識は、この世界に対する違和感として発生し、その違和感を消去する方向に向かう。それは、生きてあるという自覚を消去することだ。そうやってわれわれは何かに熱中し、他者や世界にときめいている。
「我」がときめくのではない、「我を忘れて」ときめくのだ。生きてあることのカタルシスは、そこにある。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
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