やまとことばと原始言語 18・人間は群れたがる生き物か

人と人の関係は、何か「共有」しているものがなければ成り立たない。
同じ国に住んでいるとか、同じ会社の社員であるとか、同じ男であるとか同じ女であるとか、同じ大人であるとか同じ若者だとか、同じ家族だとか、同じ趣味だとか、何か共有するものがあって、関係が成り立っている。
二人で空を見上げながらいい天気だとうなずき合うのも、そうした感慨を共有してゆく関係だろう。
周囲に反対されている恋はなおいっそう燃え盛る、という場合の男女が共有しているものは、さらに切実だ。
男と女の関係は、デジタルな二項対立の関係として成り立っているのではない。男と女という違いだけですむわけではない。その先で何を「共有」してゆくか、という問題がある。
ひとまずおたがいにちょっと違った体の構造や機能を持っているのだから、人間社会に「男と女」という概念が生まれてくるのは仕方のないことだろう。しかしそんなことははじめからわかっていることで、あらためて確認することでもない。男と女を結びつけているのは、じつは「人間」という概念を共有しているというアナログな類推関係にある。女であれば豚でも猿でもかまわないというわけにはいかない。人間の男と女を結びつけているのは、「人間の男と人間の女」というアナログな類推関係である。男と女は、たがいに人間であることを確認し合いながら寄り添ってゆく。
「あなたは私ではない」し「私はあなたではない」ということ、これは人と人の関係の大前提のはずだ。人と人は、「一体化」することはできない。だから、「共有」するものがなければ関係を持つことができない。
生き物の身体が動くという行為は、みずからの身体の輪郭を正確に把握している、ということの上に成り立っている。
われわれは、この身体はこの世界の孤立した個体として存在している、という自覚を持っている。それは、生まれたばかりの赤ん坊が「おぎゃあ」と泣いた瞬間に感じることだ。
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都会の雑踏、満員電車、サッカーや野球のスタジアム、コンサート会場等々、この群れ集まり方は、猿の仲間の動物としては尋常ではない。
では人間は、群れたがる生き物か。
そうではない、「群れてしまう」のだ。人間ほど群れ集まることのうっとうしさを知っている生き物もいないし、群れ集まることからカタルシスを汲み上げてゆくことのできる生き物もいない。ほんらいは群れあつまることがいやでいやでしょうがなく、そのことに対する「けがれ」を深く意識する生き物であるのだが、群れ集まってしまえば、そこから深いカタルシスを汲み上げることのできる文化というか生態を持っている。そのもっとも重要なひとつとして「ことば」という文化がある。
道を歩いていて、人とぶつかりそうになったら、思わずよける。人間ほど他人と体がぶつかり合うことをいやがる生き物もいないし、そのぶんよけるのもサルなんかよりずっと上手だ。
直立二足歩行は、ぶつかったら簡単にこけてしまう。大勢でいたら将棋倒しになって大惨事になることもある。と同時に直立二足歩行は、四足歩行よりもずっと小回りがきいて、とっさによけるということができる。
というわけで、人間は、群れようとする衝動を持っているのではない。しかしいったん群れてしまったら、そこから深いカタルシスを汲み上げてゆくことのできる文化=生態を持っている。
人間ほど群れ集まることをうっとうしがる生き物もいない。これは大事なことだ。
群れ集まって体をぶつけ合っていれば、人間だろうと猿だろうとの鼠だろうとヒステリーを起こしてしまう。それは、身体の輪郭が侵略されている危機的な状態である。この状態を回避するかたちで、原初の人類の直立二足歩行が生まれてきた。群れ集まることのうっとうしさが、直立二足歩行をもたらしたのだ。
たがいの身体のあいだに適度な空間(=すきま)が確保されていること、これは、根源的な生物の生存条件である。この条件が確保されなければ、群れは成り立たない。
しかし限度を超えて密集した群れをつくっている人間は、この条件の確保が危うい状態に置かれている。
われわれが国家という枠組みの中に置かれてあるということは、先験的文化的に、すでに限度を超えて密集した群れの中に置かれていることを意味する。
したがって、基本的には、これ以上群れ集まろうとする衝動は持っていない。
人間は、群れ集まろうとしているのではない、「すでに群れ集まっている」のだ。
人間は群れ集まるまいとしつつ、群れ集まっていることを受け入れる生き物である。
話がややこしくなってしまった。
つまり、群れ集まるまいとしているということは、根源的には「伝達」しようとする衝動を持っていない、ということだ。人間は、すでに群れ集まり「伝達」されてある存在として、みんなで仲良くやっていこうとしているだけであり、そのためのことばなのだ。
ことばは伝達のための道具として発生してきた、なんて、嘘っぱちなのだ。いやそれが、ただの原始的な単語だけの段階から文節表現に発展していったときにおいても、それが伝達するために有効だったからではなく、たくさんのことばが胸にみちてきたからという、それだけのことなのだ。
ことばは、群れ集まろうとする衝動とともに、群れ集まるための伝達の道具として生まれてきたのではない。みんなで楽しくおしゃべりをし、すでに群れ集まっていることのうっとうしさを解消してゆく道具として生まれてきたのだ。
やまとことばの言語観は、西洋人による既成の言語観とは、根底的に違う。
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