ことばは、ひとまず人間的な連携の道具であるといえるのかもしれない。
では、人間的な連携とは、意味を「伝達」し合うことか。
そうとはいえない。
愛し合う男女に、意味を伝達するためのことばなど不要だろう。
連携できないものどうしが連携してゆくためには「意味の伝達」が必要になるだろうが、連携できるものどうしが連携しているところに、そんなものは必要ない。
人間は、すでに連携し合っている存在である。そうでなければ、こんなにも限度を超えて密集した群れをつくることはできない。
イワシなどの小魚たちの群れは、すでに連携している、ということの上に成り立っているのであって、連携しようとしているのではない。彼らの群れがあんなにも密集していてもなおたがいの身体のあいだに「空間=すきま」を保っていられるのは、保とうとする衝動があるからではない、自然にそうなってしまうかたちを身体のシステム(=命のはたらき)としてすでにそなえているからだ。
そして人間の群れもまた限度を超えて密集しているのだとすれば、すでに保たれるシステムをそなえているからだろう。人間だって、保とう(=連携しよう)としているのではない。すでに連携し合って存在しているのだ。
原初の人類の直立二足歩行は、たがいの身体のあいだに「空間=すきま」をつくりあう姿勢だった。つまり、そのとき人類は「すでに連携している」というシステムを獲得した、ということだ。
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世界や他者に驚いたり感動したりして、「おお」とか「ああ」という音声が洩れる。
原始言語はまず、世界や他者に対する反応として思わずこぼれ出たことばとして生まれてきた。それは、他者に伝えるために洩れ出た音声ではない。心が動いて外にこぼれ出たのだ。
「ことば」の古いやまとことばは「ことのは」という。
「こと」は、「コトン」「コトリ」という擬態語の「こと」、こぼれ出ることを表している。そこから、この世界の現象のことを「こと」というようにもなった。「現象」とは、この世界からこぼれ出たこの世界のかけらなのだ。
「は」は「端」の「は」、「かけら」のこと。
「ことのは」とは、「こぼれ出たかけら」、すなわち「口の端からこぼれ出た心のかけら」のこと。
その意味を伝えようとしたのではない。意味なんか自覚していない。思わず「こぼれ出た」のだ。こぼれ出たあとに、はじめてその意味に気づく。ことばの基本的なかたちは、そのようになっている。ことばを発したものも、その音声を聞いて、はじめてその音声の意味に気づく。
そのことばは、伝えられていない。空間に投げ出された(こぼれ出た)だけである。意味を自覚していないのだから、「伝える」という態度は原理的に成り立たない。
むしろ、伝えられていないことのめでたさがある。伝えられていないからこそ、音声を発した自分も、その音声を「聞く」立場になることができる。
そのとき、たがいに「聞く」立場に立っている。そして「音声=ことば」は、たがいの「空間=すきま」にこぼれ出ている。そこから、たがいに聞いている。
「たがいに聞いている」ことのカタルシスがある。なぜならそれは、たがいのあいだの「空間=すきま」に気づいていく体験だからである。
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人間は、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を祝福してゆこうとする本能を持っている。そうやって直立二足歩行をはじめたのだ。
小魚のいわしの群れがそうであるように、そういう「空間=すきま」は、生き物であるなら「すでにそなえている」状態であらねばならないのだが、人間は、限度を超えて密集した群れの中に置かれてそれをいったん喪失したところから人間であることをはじめた。
野ねずみの群れでもチンパンジーの群れでも、限度を超えて密集してしまえばヒステリーを起こしてしまう。しかし人間だけが、直立二足歩行をはじめることによってその状態を克服することができた。
しかし人間だって、猿の仲間なのだから、その「すでに空間=隙間をつくりあっている」という状態が壊れれば、ヒステリーが起きてしまう。満員電車の中で体がぶつかるということで喧嘩になったりするのは、そういうことだ。
それは、「すでにそなえている」状態であらねばならないのだが、それをいったん喪失したところから人間であることをはじめたのだから、それを喪失することに対する不安をつねにトラウマとして抱えている。だから、それがすでにそなわっていることをつねに確かめ祝福してゆこうとする習性(本能)を持っている。
そういう習性(本能)から、ことばが生まれてきた。
それは、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を祝福してゆく行為である。祝福してゆく行為として、その音声から意味やニュアンスをくみ上げていったのだ。
発達した知能によってことばイメージし、それを伝えようとしていったのではない。
伝わらなくて、たがいの「空間=すきま」にこぼれ出ていることがめでたいのだ。それによってたがいの身体の実存が保証される、そういう「空間=すきま」を祝福してゆこうとする習性(本能)を、人間は持っている。その体験がなければ、この限度を超えて密集した群れの中にいることはできない。
そういう人間的な連携の機能として、ことばが生まれてきた。
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人間的な連携とは、すでに存在するたがいの身体のあいだの「空間=すきま」を祝福しあってゆく行為である。
連携とは「共有」することであって、「伝達(コミュニケーション)」することではない。
これが、人間であることの基本だ。
教育だって、「伝達」ではなく「共有」なのだ。
「伝達(コミュニケーション)」という行為が、人間を人間たらしめているのではない。すでに「共有」している「空間(すきま)」を祝福しあうのが、人間であることの根源のかたちなのだ。
「愛しています」と伝え合うのが人と人の関係ではない。何も伝えないのに、すでに愛し合っていたことに気づくことのときめきが、人と人の関係を成り立たせている。べつに口説かなくても、おたがいそのことに気づけば、抱きしめあおうという気になっている。世の中の男と女は、おおむねこんな調子でくっついている。懸命に口説いて手に入れたという体験など、むしろ特殊ケースであり、それが人と人の関係の自然だというわけでもなかろう。
共同体の始まりは、一人のリーダーが「これからおまえたちを支配し統率する」と宣言したところから始まっているのではない。その前に、すでにみんなが集まって連携しているという事態が出来上がっている。それは、みんなが同じことばを「共有」しているという事態にほかならない。
すなわちたがいの身体のあいだの「空間=すきま」で心が「共有」されてゆくことを、人間的な「連携」という。いいかえれば、そこにおいて人と人は心を「共有」しているのだ。
心(感慨)を「共有」してゆくカタルシスが人と人を繋げているのであって、何かを伝え合うことによってではない。それは、伝え合うものではない。すでに共有しているものなのだ。
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