1 <やっとこさ生きている)
「共存共貧」とは、生態学や生物学の用語らしい。
生物多様性」という環境は、そこに生息するすべての生物が環境に対する十全な適合をもてないまま、おたがいやっとこさ生きているという状態のうえに実現されている。それを「共存共貧」という。「共存共貧」でなければ、「生物多様性」は実現しない。
いや、じつはすべての生き物が環境に対する十全な適合ををもてないままやっとこさ生きているわけで、生きるとはたぶんそういうことなのだ。
生き物の体の中の遺伝子は、半分しか機能していない。つまり生き物の体は、「やっとこさ生きている」という状態以上の適合は持たないようにできている、ということだ。それでじゅうぶん足りている、というのではない。足りているのなら、生きることなんかおもしろくもなんともない。足りない状態を生きるのが命のはたらきなのだ。命のはたらきには、そういう狂おしさがある。 
生きてある身体のダイナミズムは、「やっとこさ生きてある」状態において起きている。すなわち、身体障害者のほうが命のダイナミズムを体験している、ということだ。
人が老人や身体障害者の介助介護をしようとするのは、そういうところでこそ命のダイナミズムがよりヴィヴィッドに起きていると感じるからであって、「かわいそう」だからではない。よりダイナミックな命のはたらきを目撃したいからであり、目撃しているというよろこびを体験するからだ。
今にも死にそうな老人なんて、まったくみすぼらしくて気味悪い姿をしている。見るだけでそうなのだから、触るなんて、さらに気味悪いことだろう。なのに、その介護の仕事に従事している人たちは、笑顔を浮かべながらじつに献身的である。「かわいそう」と思うだけでは、そんな態度はとれない。かわいそうと思うことは、みすぼらしくて気味悪いと思っていることと同じなのだ。どうしてかわいそうと思うかといえば、みすぼらしくて気味悪い姿になってしまっている、と見ているからだろう。
給料は安いし肉体的にもハードだし汚れ仕事だし、いいことなんかなんにもなさそうだけれど、それでも彼らなりに得がたいときめきをどこかで体験している。やった人間にしかわからないときめきがあるのだろう。
彼らを支えているのは、「かわいそう」という同情ではない。同情なんかではない何らかの「ときめき」を汲み上げることができなければやっていけない仕事である。そこで介護を受けている老人たちが、いかに一瞬一瞬を狂おしく生きているかということを、彼らは知っている。その生きてあることの狂おしさを老人たちと共有しているカタルシスがきっとあるのだ。
そういう現場でこそ、われわれにはうかがい知れない「一緒に生きている」というカタルシスがある。命のダイナミズムを「共有」している、というカタルシスがある。それがしんどい仕事だからこそ、自分の命がダイナミックにはたらいているという実感がある。ダイナミックにはたらかなければやっていられない仕事なのだ。
何はともあれ、これほどリアルに「命」というものを感じることのできる現場もない。
「命の尊厳」を感じるのではない。命が豊かにはたらいていることを感じるのだ。
命そのものは、尊厳でも大切なものでもなんでもない。しかしわれわれの心は、命が豊かにはたらくことにはカタルシスを覚えるようにできている。なぜなら、この身体は、環境にうまく適合できないで「やっとこさ」生きている存在だから、命が豊かにはたらくことは何はともあれ快挙なのだ。
適合することが当然の命なら、命がはたらくことなんかうれしくもなんともない。というか、それは「はたらいている」ということにはならない。命は、あえぎあえぎけんめいにはたらいてゆくのだ。そういう感動は、彼らがいちばんよく知っている。
まあ「共存共貧」とはこのようなことであり、共存共貧だからこそ命はダイナミックにはたらいているのだ。
     2 <生きてあることの嘆き>
われわれの命は、環境に対する適合不足の状態にセットされてある。
原始人は自然と一体化していた、なんて大嘘だ。原始人だからこそ、環境に対する不適合を狂おしく生きていたのだ。
むしろ、現代文明の中で暮らしの何もかもを適合状態につくっているわれわれこそ、自然と一体化してしまっている。
一体化してしまっているから、命のダイナミズムが起きなくて、あれこれの現代病を引き起こしている。社会の中に自分のポジションを得て満足しているおじさんたちのED現象なんか、その典型だろう。
命のダイナミズムは、環境に適合できない「嘆き」から生まれてくる。
「共存共貧」の「貧」は、「嘆き」と言い換えることもできる。
この世の中には、そういうかたちの集団社会がある。そこでこそ、生きてあることの「ときめき」や「カタルシス」が体験されている。
みんなが幸せで快適な暮らしができるようになればそれで人間であることすべてが解決されるわけでもない。そんな社会になれば、インポの男があふれかえっていることだろう。まさしくそんな社会を実現している西洋の上流階級の男たちのペニスはおおむね勃起してもやわらかく、インポになってしまうケースも多い。だから、同性愛も女の不倫も容認されている。そんな社会が、人間の理想であり自然であるといえるだろうか。
「嘆き」のないところに、命のダイナミズムもない。それは、幸せで快適な暮らしをしている人たちの集団社会で実現されているのではない。 
単純にいって、幸せで快適な暮らしを実現している大人社会より、嘆きが多く満たされない若者社会のほうが、少なくとも命のはたらきにおいてはダイナミックにちがいない。若いからダイナミックであるのではない。嘆きの多い「共存共貧」の生き方をしているからダイナミックなのだ。
老人介護の社会においてもしかり、生きてあることの嘆きとともにその豊かさが実現されているのだ。
「共存共栄」などという。しかしすべての人が快適で幸せな暮らしをする社会など、存在するはずがない。必ずその外側に、嘆きとともに生きている人がいるのであり、命のはたらきのダイナミズムやカタルシス(浄化作用)は、そこでこそ体験されている。
人間は、けっして「嘆き」を手離さない。
     3 <存在そのものの献身性>
べつに経済的に豊かであるとかないとか、そういうことはどうでもいい。
生きてあることそれ自体に「嘆き」を抱えていること、ここではそれを「貧」といっている。
腹が減ったらうっとうしいだろう、空気が薄いところに行けば息苦しいだろう、冷蔵庫の角に膝をぶつければ痛いだろう、われわれは、そういう「嘆き=貧」を抱えて生きている。その「嘆き=貧」があるからこそ、飯を食うのだし息を吸い込むこともする。「嘆き=貧」がなければ、われわれの生きるいとなみは成り立たない。
この生は、「嘆き=貧」が生じるようにセットされてある。そこから、命のはたらきのダイナミズムが生まれてくる。
この生のダイナミズムは、「嘆き=貧」とともに生きてある人たちのもとにある。そして、そこでこそ、よりダイナミックな人間的連携が実現されている。
結論から先にいってしまえば、人間的な連携は「献身」の上に成り立っている。
たとえば、老人介護の現場において、「献身」しているのは、介護士だけではない。
介護される老人は、半径十メートルの世界で生きている。地球の隅々まで駆け回って地球を汚し続けている健常者たちに比べたら、介護される老人は、存在そのものが他の生物に対する「献身」になっている。
狭い世界に閉じこもってあえぎあえぎ生きていることは、それ自体が他の生物に対する「献身」である。狭いスペースにたくさんの種類の生物が共存しているという「生物多様性」は、誰もがあえぎあえぎ生きているという、そういうたがいの「献身」の上に成り立っている。
介護される老人は、存在そのものにおいて他者に対する「献身」を体現している。
介護士と介護される老人は、そういう「献身」を交換している。
自分で生きてゆくことのできない身であるのなら、勝手に死んでゆけばいいだけである。それでも、そばにいるのならほおっておけない。それは、その狭いスペースを共有しているという「共存共貧」のよろこびがあるからだろう。「生物多様性」はそのようなかたちで成り立っているのであり、それが生き物の根源的な存在の仕方だからだ。
老人介護なんて、してもしなくてもいいことである。ほっときゃ死んでゆくだけさ、といっても間違いではない。しなければならない理由なんか何もない。それでも介護せずにいられなくなるのは、「共存共貧」という生き物としての根源的な存在の仕方から起きてくる衝動があるからだ。
それは、介護士による老人に対する「贈り物」でははない。そんなことは、してもしなくてもいいことなのだ。こちらが、せずにいられなくて勝手にやっているだけのことだ。しかし生き物の生は、そういう「せずにいられない」という「献身性」の上に成り立っている。
     4 <身体のスペースをできるだけ小さくする>
すなわち、限度を超えて密集した群れの中に置かれた原初の人類が、二本の足で立ち上がって自分の身体が占めるスペースをできるだけ小さくとろうとした行為はまさしく他者に対する「献身」以外の何ものでもないのであり、人間だってそういう「献身性」を本能としてそなえているにちがいないのだ。
「献身」は、何も与えないし、何も受け取らない。与えるものなど何もないし、受け取るものもない。ただもう、自分の身体のスペースをできるだけ小さくとろうとしているだけの行為である。そしてそのことによってわれわれは、みずからの身体の輪郭をよりたしかに実感する。すなわち、そういうかたちで生きてあることのカタルシス(浄化作用)が汲み上げられてゆく。
生き物は、みずからの身体のスペースをできるだけ小さくとろうとする。この「共存共貧」の衝動によって、「生物多様性」が実現されている。みずからの身体のスペースをできるだけ小さくとろうとすることは、ひとつの「献身」である。
「命の尊厳」などといってみずからの身体スペースを拡大しようとすることは、「生物多様性」に対する侵害であり冒涜である。命なんかどうでもいいものとして身体スペースをできるだけ縮小しようとしてゆくことこそが「生物多様性」の実現になるのであり、それこそがこの生の根源のかたちであり、そこにおいてこそこの生のダイナミズムやカタルシスが実現されている。
なんのかのといっても、今にも死にそうな老人が、この世でいちばん狂おしくこの生を味わい尽くしているのである。そのことに気づいているから介護士は手を差し伸べずにいられなくなるのであり、そうやってそこに「共存共貧」と「生物多様性」が実現されているのだ。
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