ともあれことばは、人間的な連携の機能として生まれてきた。
しかし人間的な連携とは、「伝達」することではなく、「共有」してゆくことなのだ。
伝達することによって共有してゆくのではない。ことばによって「共有する」という基礎がつくられたことによって、「伝達」という機能が派生してきたにすぎない。
ことばは、伝達の機能として生まれてきたのではない。
ことばは、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を「共有」してゆく機能として生まれてきた。そこに、ことば=音声が投げ入れられる。相手のもとに届けるのではない。相手も自分も、たがいにその「空間=すきま」から、その音声を「聞く=受け取る」のだ。相手に渡してしまったら、自分はもうその音声「聞く」ことはできない。聞かなければ、その音声の意味どころか自分が音声を発したということすら気づかない。
意味は、音声を発したあとに、自分と相手の両方で汲み上げられる。しかしそれ以前に、意味など意識しないままその音声そのものを「共有」してゆくカタルシスとして成り立っている時代があった。それが、原始言語の時代である。
たがいの身体のあいだに音声がこぼれ出る「空間=すきま」があることのめでたさを止揚しながら、やがて意味を持ったことばとして成熟してきたのだ。
われわれだって、おしゃべりのたのしさは、根源的には、その「空間=すきま」で音声を「共有」していることにあるのであって、「意味の伝達」は二次的なたのしみにすぎない。
たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を共有してゆくことのカタルシス、これが、限度を超えて密集した群れの中に置かれてある人間性の基礎である。
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ことばは、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」で生成している。
限度を超えて密集した群れの中に置かれてある人間は、その「空間=すきま」を共有して存在している。人間にとって「共有」するということがどれほど切実かということを考えれば、構造主義者のいう<人間性の基礎は「贈与と返礼」にある>という思考がいかに愚劣で的外れであるかということを思い知らされる。
少なくとも原始人は、「贈与と返礼」の関係で生きていたのではない。そんなところからは、直立二足歩行もことばも生まれてこない。それらは、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を「共有」してゆく行為だった。
われわれは、「贈与」できるほどの余剰なものは持っていない。誰もが、命のはたらきのレベルにおいては「共存共貧」でやっとこさ生きているのだ。
たがいに余剰なものを持たないでむしろ不足している状態になることによって、ある「共有」されるものが生まれてくる。これが、自然としての人間関係の基礎である。
原初の人類が二本の足で立ち上がったことは、群れにおけるみずからの身体が占めるスペースをできるだけ狭くとる行為だったわけで、それによってたがいの身体のあいだの「空間=すきま」を「共有」していった。ことばもまたしかり、人間性の基礎は、「共有」してゆくことにある。
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「共有」という関係が成り立つ条件。
1・どちらも不足の状態にある。
2・その不足を補うものがひとつしかなくて、どちらかの所有になってしまうわけにいかない状態にある。
たがいの身体のあいだの「空間=すきま」は、どちらか一方の所有になることは論理的にありえない。それが生まれれば、自動的に「共有」されているものになる。
直立二足歩行をはじめる前段階の原初の人類の密集しすぎた群れの状態において、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」が不足して、たえずたがいの身体がぶつかり合う状態になっていた。そこから二本の足で立ち上がることによって、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」が「共有」されていった。
このとき、二本の足で立ち上がって「空間=すきま」を「共有」してゆく行為は、ひとつの「連携」であり、他者に対する「献身」でもある。それは、とても不安定で、胸・腹・性器を外にさらすとても危険な姿勢でもあった。それでも、あえてみんな一緒に立ち上がっていったのだ。それは、そういう「連携」であり「献身」でもあった。人間は、根源的にそういう衝動を持っている。人間の本能である、と言い換えてもいい。
しかし逆にいえば、そういう「空間=すきま」を「共有」できないことは、耐えがたい苦痛になる、ということだ。いやなものはいやだ、というのも人間である。
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たとえば夫婦や恋人たちのあいだで、自分の価値観や原則を一方的に押し付けてばかりこられて「共有」できるものが何もないと感じられるなら、誰だって別れたくなるだろう。人間は、「共有」してゆく存在であるがゆえに、「共有」できるものが何もない、ということに耐えられないようにできている。いやなものはいやなのだ。
人間は、「共有」し「連携」し「献身」してゆく存在であるがゆえに、とてもわがままで残酷な存在でもあるのだ。いやなものはいやなのである。
相手に自分の価値観や原則を押し付けることは、「伝達する」という行為である。伝達したからといって、相手も同意するとはかぎらない。それでも同意しろと迫るのは、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を無化してしまおうとする態度である。伝達し、説得しようとするのは、そういう態度である。人は、夫婦や恋人どうしというような関係になると、ついそういうことが可能であるような錯覚に陥ってしまう。
とくに西洋では、神がそのようにして人を支配しているから、もう、それが人と人の関係の基本のようなことになってしまっている。
しかし、ことばの起源を踏まえて人と人の関係の基本を考えるなら、そういう関係はきわめて不自然である。起源としてのことばは、伝達もしないし、説得もしない。ただもう、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」に差し出されるだけである。そしてその音声に対してたがいにうなずき「共有」していったときにはじめてことばになるし、共有されなければ、その音声は空間に消えてしまう。そういうクッションとしての「空間=すきま」を持っているのが、人と人の関係の基本なのだ。
みずからの意思と人格でうなずき「共有」してゆくことはするが、一方的に「説得」なんかされない、これが、人間性の基礎である。
世の中には、ものすごくわがままな女が亭主と仲良くし、亭主に献身さえしていっている場合もあれば、おとなしくひかえめな女がいきなり亭主を捨てて出てゆく例も少なくない。人と人の関係は「伝達し説得する」ことの上には成り立っていないからだ。おとなしくひかえめな女でも、いやなものははいやなのである。
自分でものを考えることができない人間には、説得されることはひとつの安心かもしれないが、誰だって自分でものを考えている部分においては、「説得」されることは苦痛なのである。その代わり、自分でものを考えている人間は、深く共感し、連携し、献身してゆくという態度を持っている。
人と人が共感しあうためには、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」が存在しなければならないし、その「空間=すきま」が存在する関係において、「連携」が生まれ「献身」が生まれている。
おおむね、女房を一方的に説得しようとする亭主は、女房に逃げられる。そのへんのところは、内田樹先生に聞いてみるとよい。よくご存知のはずだから。
もっとも、亭主を説得し操縦しようとする意欲満々の女房も、亭主を捨てたり亭主に捨てられたりしているが。
親に対して従順だった人間ほど、他人を説得しようとする支配欲が強い。彼らは、「説得する」ことが人と人の関係だとおもっているから、「共有(共感)」や「連携」や「献身」ということを知らない。
説得するという行為は、この社会の制度性であって、人間の自然ではない。
ことばは、根源において説得する(伝達する)ための道具ではない。その起源においては、「共有」することのカタルシス(消化作用)を体験する道具だった。
微笑みながら「やあ」と声をかけて「やあ」という声と微笑みが返ってくる、この「共有」の体験のカタルシスがことばの起源なのだ。
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自分の身体のスペースをできるだけ小さくしてゆこうとすること、これが直立二足歩行をしている人間の本能であり、「共存共貧」という生物そのものの生態でもある。
林の中の狭いオープンスペースに何本もの苗木が芽を出す。しかし、その中で大きく育ってゆくのは、一本だけである。ではその一本は、弱肉強食で、ほかの苗木をぜんぶやっつけて伸びてきたのか。
もし弱肉強食でおたがいに押しのけあっていたのなら、三本も四本も一緒に伸びてきて、けっきょく共倒れになってしまうだけである。そうではなく、すべての苗木ができるだけ狭い身体スペースでぎりぎりの状態を保とうとするから、ほとんどは、その「ぎりぎり」すらも保てなくて自分から枯れてゆくのだろう。そして運よく「ぎりぎり」を保ち続けることができた一本だけが大きくなってゆく。
押しのけあって成長するのではない。ほかの苗木の、「邪魔するまい」とする「献身」の上に成長してゆくのだ。
一本だけが大きくなってゆくなんて、考えたら、すごく不思議で感動的なことではないか。なんでもかんでも弱肉強食の競争原理だけでしか生物の生態や進化論を考えられない連中には、とうていわかるはずのない話ではあるが。
押しのけあって成長するのなら、一本だけが大きくなるということには、絶対にならない。
試しに誰か、調べてみたらいい。いちばん早く芽が出ていちばん生命力が強い苗木が勝ち残ってゆくのかどうかということを。
きっとそうはならない。
どの苗木が勝ち残るのかということは決まっていない。それはもう、いろんな偶然が重なって残ってゆくのだ。
植物は、下から上に伸びてゆく。それは、人間が二本の足で立ち上がったのと同じように、みずからの身体スペースをできるだけ狭くとろうとする動きである。
草茫々の草原は、すべての草がみずからの身体スペースをできるだけ狭くとろうとして、隣の草をやっつけてしまわないことの上に実現されている。そういう「共存共貧」の上に成り立っているのだ。
僕は、ことばの発生の基礎となる「共有(共感)」とか「連携」とか「献身」といった概念を、ひとまずそういうレベルで考えたいのだ。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
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