やまとことばと原始言語 20・生きてあることの切実さ

ことばは、世界を分節する機能ではない。この世界をアナログな類推関係として思考してゆくところから生まれてきた。
「あなた」と「わたし」を分節するためにそれらのことばが生まれてきたのではない。「あなた」と「わたし」が分節されてあることくらい、はじめから知っている。その「あなた」と「わたし」が一緒に暮らしていることのめでたさを祝福する機能として、「あなた」と「わたし」ということばが生まれてきたのだ。「あなた」と「わたし」が分節されてあることをすでに知っているから、「あなた」と「わたし」ということばが生まれてきたのだ。それは、「あなた」と「わたし」を分節する機能として生まれてきたのではない。すでに分節されてある「あなた」と「わたし」がそれでも一緒に暮らしているということの感慨、すなわちそのうっとうしさとめでたさが入り混じって胸にみちてきたところから生まれてきた。そのうっとうしさを解消してめでたさへと昇華してゆく機能として、「あなたとわたし」という文節表現が生まれてきたのだ。
「あなた」と「わたし」をデジタルに分節する機能としてそれらのことばが生まれてきたのなら、それらは永久に単語のままで「あなたとわたし」という文節表現には発展しない。そのふたつをアナログな類推関係としてイメージしてゆくことによって、文節表現になる。
あなたとわたしが一緒に暮らしていれば、「一緒に暮らしている」という状態が「共有」されている。その共有されてある状態が表現したくて「あなたとわたし」という文節表現になってきたのだ。
文節表現とは、単語と単語のアナログな類推関係である。
・・・・・・・・・・・・・・
原初の人類は、限度を超えて密集した群れをつくって定住していったとき、他者とひしめき合って暮らしていることのうっとうしさを深く感じ、同時にそれをよろこびへと昇華していった。もともと「直立二足歩行」はそういう機能として生まれてきたのであり、そのような心の動きをわれわれは人間性の基礎として持っている。
そして、人類史において、限度を超えて密集した群れをつくって定住してゆくということを最初にトライしていったのは、50万年前の氷河期の北ヨーロッパにたどり着いたネアンデルタールとその祖先たちだった。彼らは、洞窟を拠点に定住し、猿の仲間の種族としては限度を超えて密集した群れをつくっていた。
そこはもう行き止まりの地だったし、寒いからみんなで体を寄せ合って生きてゆくしかなかった。そういう環境で、ただのうなり声のような原始言語が、文節表現をともなった会話(おしゃべり)へと育っていった。原初の歴史において、そのような会話(おしゃべり)が生まれ育ってくる契機は、彼らのもとにしかなかったはずである。
人類のことばの基礎は、ネアンデルタールがつくった。彼らが極北の地に住み着いてからの50万年の歴史がつくったのだ。
文句がある人は、どなたでもどうぞ。この国で第一線の研究をしている学者先生でもかまわない。あなたたちの「ことばは象徴思考の知能から生まれてきた」というステレオタイプな説など、ほんとにくだらないと思う。おまえらは、ものを考えているのか。あほじゃないか、と思う。
あのころの地球上でもっとも勇敢で切実に生きていた人々を滅んだことにしてしまって、何がうれしいのか。彼らが、極寒の季節を生きる知恵も体力もないアフリカのホモ・サピエンスごときに滅ぼされるはずがないじゃないか。戦闘能力だって、集団でマンモスなどの大型草食獣の狩をしていたネアンデルタールのほうがずっと上だったに決まっているじゃないか。
ことばなんか、思わず発せられるものだ。原初の人類は、まずことばが頭の中に浮かび、それからことばを発したのではない。おまえらは、そういっているのだぞ。それは、どう考えても論理矛盾だろう。そうではない。ことばを発してから、それがことことばであると気づいていったのだ。そういうことばという音声が思わず発せられる条件とは何か、と問われなければならない。
それは、生きてあることの切実さから生まれてくる。「象徴思考」とやらができる頭のいいやつがことばを生み出したのではない。より切実に生きている者たちによってことばが生まれ育ってきたのだ。50万年前以降の歴史において、地球上でネアンデルタールほど切実に生きていた人々もいなかった。人類のことばは、その暮らしから育ってきたのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・
限度を超えて密集した群れをつくって定住していれば、そりゃあ、うっとうしいに決まっている。しかし寒さに震えていたネアンデルタールはそうしないと生きられない条件のもとに置かれていたし、そこから一緒に生きていることのめでたさ(カタルシス)を汲み上げてゆくことができるのが人間の人間たるゆえんでもある。
人間ほどそうしたうっとうしさを覚える生き物もいないし、人間ほどそうした条件からめでたさ(カタルシス)を汲み上げてゆくことのできる生き物もいない。
そのようにして、限度を超えて密集した群れをつくって定住していれば、「あなた」と「わたし」という意識もより切実になってくる。「ここ」と「あそこ」という意識もより切実になってくる。
そのころアフリカのサバンナのホモ・サピエンスは、家族的小集団で移動生活をしながら暮らしていた。アフリカには、今でもそういう部族がいる。
家族的小集団においては、「あなた」と「わたし」の違いをそれほど切実に意識することはない。まあ、似たものどうしの小さな集団なのだ。
ネアンデルタールのようにたくさんの人間が寄り集まって暮らしているから、そういう混沌を整理するかたちで「あなた」と「わたし」という意識が深くなってくる。
また、移動し続けているものにとって、「ここ」という意識は希薄である。移動していれば、「ここ」は、思った瞬間に消えている。思うこともできない。
それに対して、定住しているネアンデルタールには、つねに「ここ」を意識している。そして「ここ」を意識しているということは、同時に「あそこ」を意識していることでもある。狩に出かけて何日も帰らない男たちを待っている女たちにとって、「ここ」と「あそこ」という意識は切実だったことだろう。
彼らはつねに、「あなた」と「わたし」、「ここ」と「あそこ」を切実に意識しながら暮らしていた。ネアンデルタールは、そういうこの世界の二項対立的な「分節」をつなげようとつねに意識しており、そこから「あなたと私」「こことあそこ」という文節表現が生まれてきた。
ことばによって「あなた」と「わたし」が分節されたのではなく、ことばによって「あなた」と「わたし」がつながっていったのだ。
狩に出かけた男たちの帰りを待っているネアンデルタールの女たちは、「帰りを待っている」という意識を「共有」していた。その「共有」しているという意識が、「あなたとわたし」という文節表現を生み出していった。「共有」しているという意識がなければそういう表現は生まれてこないし、あなたとわたしは「分節」されているという意識がなければ「共有」という意識も生まれてこない。
世界はあらかじめ分節されてある。ことばは、そこから生まれてくる。あらかじめ分節されてあるという意識があるから「あなた」と「わたし」ということばが生まれてくるのであり、その両者をつなげる「共有」するものに気づいてゆくことによって、「あなたとわたし」という文節表現が生まれてくる。
ことばが世界を分節するのではない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
限度を超えて密集した群れをつくって定住していれば、まずうっとうしさが先に立つ。そのひしめき合って暮らしていることのうっとうしさは、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を確保してゆくことによって解消される。
限度を超えて密集した群れをつくって定住しながら、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を確保し、それを祝福してゆくのが人間の生態である。
道を歩いていて人とぶつかりそうになったらとっさによけるし、満員電車の中でもなんとか人とのあいだに「空間=すきま」をつくろうとするのが人間である。
ことばは、他者の身体とのあいだの「空間=すきま}に投げ入れられる。そのとき、ことばを発した「わたし」も、そのことば=音声を聞きながら、そこから何かを感じ取っている。
会話(おしゃべり)とは、たがいにその「ことば=音声」を聞きながら、そこから何かを感じ合う体験である。そのときその「ことば=音声」は、けっして「伝達」されているわけではない。
そのことば=音声から「あなた」が何を感じ取ったかは、「あなた」の自由であり、「わたし」にはわからない。しかしそこで微笑み合えば、その「ことば=音声」を「共有」していることだけは確認できる。それは、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を「共有」していることを確認する体験でもあり、微笑み合ってそれを祝福している体験である。
トランプゲームであれ、花札であれ、将棋やチェスであれ、おはじきやお手玉やメンコや駒回しであれ、すべてたがいの身体のあいだの「空間=すきま」に何かを投げ入れ、その「空間=すきま」を祝福してゆく行為である。ことばだって、これらと同じであり、これが人間の生態なのだ。
商品を買うとき、まずたがいの身体のあいだに商品と貨幣を置き、一方は貨幣を受け取り、一方は商品を受け取る。このときたがいにべつべつのものを受け取っているのに、ひとまずたがいの身体のあいだの「空間=すきま」を「共有」し、それを祝福し合っている。
だからわれわれは、食堂でものを食ってお金を支払うとき、相手は「ありがとうございました」といい、こちらも「ごちそうさま」という。
「わたし」と「あなた」は、べつべつの伝達不可能な「非対称」の関係である。にもかかわらず、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を「共有」している。
伝達不可能な「非対称」の関係だからこそ、「共有」することができる。「共有」することは、伝達不可能な「非対称」の関係であることを止揚してゆく行為である。
そのようにして、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を「共有」してゆこうとする切実さから「ことば」が生まれてきた。「分節」するためではない。「共有」する機能として、ことばが生まれてきたのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「あなた」と「わたし」が、たがいの身体のあいだのすきまの空間で何かを共有してゆくことによって「あなたとわたし」という文節表現が生まれてきた。この場合の「と」という音韻は、単語と単語のあいだの「空間=すきま」に投げ入れられ「共有」されている。こういう心の動きのタッチを持ったことが文節表現のはじまりだったのだ。
数十万年前のネアンデルタールとその祖先たちは、限度を超えて密集した群れをつくって定住しながら、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を確保してゆこうとすることの切実さと、その「空間=すきま」を「共有」し「祝福」してゆくことのカタルシスを体験していった。人類のことばは、そんな暮らしのそういう心の動きから育っていったのだ。
あの連中のいう「象徴思考」とか「分節」とか、そんなことは関係ない。
生きてあることなんか、うっとうしいことだ。そういうことを深く切実に感じているものたちがことばを生み出したのであって、知能が発達した連中ではない。
ソシュールだろうとウィトゲンシュタインだろうと、ことばは知能が発達した人間によって生み出されたといううぬぼれがあるから、そういうことがまるでわかっていないのだ。
この世の世界中の研究者たちに僕はいいたい。おまえらは、知能が発達しているからこそ、そういう根源的なことがまるでわからないのだ、と。自分たちだけが深く思考していると思っているのだとしたら、あつかましいにもほどがある。
_________________________________
_________________________________
しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

幻冬舎書籍詳細
http://www.gentosha-r.com/products/9784779060205/
Amazon商品詳細
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779060206/