やまとことばと原始言語 30・「指示待ち」だっていいさ

いちいち命令ばかりされていたら、誰だっていやだろう。
近ごろでは、「指示待ち族」とかいって、指示・命令されたがっている若い社員も多いらしいが、それが健康で本来的な人の心の動きだとは誰も思っていない。
人と人の「連携」という関係が希薄な社会だからだろう。人と人が生きてあることの感慨を共有し、心と心が響きあうのなら、そんなことにもならない。
若者がだめだというより、大人と若者との「連携」がなくなっている社会なのだ。そういう連携をつくれない大人だって、人間として何か偏頗なところがあるからだろう。
大人たちは、若者に命令し、説得しようとする。自分の意図に反した行為は許さない。そんな関係であるのなら、若者はもう「指示待ち」になるしかないじゃないか。
今どきの若者は自分で考える能力が欠落している、などとあつかましいことを大人はいう。自分たちがそのようなところに若者を追いつめているだけかもしれないというのに。
誰の中にも命令説得されることのうっとうしさはあるし、この国には「差し出がましいことはいうまい」という文化もある。他者を説得することは「差し出がましい」ことなのだ。「説得する」といえば聞こえはよいが、他人をたらしこもうとばかりしているのは、どこか卑しい。
伝達し説得することが、人と人の関係の根源的なかたちであるのか。
西洋社会は、おおむねそのような文化になっているが、この国の伝統はちょっと違う。大人が若者を説得する社会ではなく、大人と若者が何かを共有し連携してゆく社会なのだ。そのかたちをつくれなければ、若者としては「指示待ち」になるしかない。
「指示待ち」ではだめだ、と指示すること自体が、若者を「指示待ち」にさせているのだ。
今ごろの大人たちは、この世界や生きてあることにたいする違和感を若者と「共有」していない。この国の伝統はほんらいそういうかたちで成り立っていたはずだが、大人たちはいまやすっかり西洋の近代合理主義に洗脳されて、若者を説得しようとばかりしている。
若者から何かを学ぼうという態度なんか、まるでない。自分の人生を正当化したがる大人ばかりの社会になってしまっている。
大人たちがそんなにも自分を正当化したがるのなら、若者はもう「指示待ち」になるしかないではないか。彼らは、「しょうがなく生きている」のだ。大人たちのように、自分を正当化して生きているのではない。
彼らは「しょうがなく生きている」という気分を「共有」しているものどうしの連携にトライしてゆくことはあっても、大人たちのように積極的に何かを「伝達」し自分を正当化することには怠惰なのだ。
この国には、「伝達」し「説得」してゆくという文化の伝統がない。何かを「共有」しているところからしか連携は生まれない。
おまえらが自分は正しくまっとうに生きていると思っているかぎり、若者は、さし当たって「指示待ち」で生きてゆくしかないのだ。彼らは、そういう能力がないのではない、そういう態度とるしかない状況に置かれているのだ。おまえらがのさばっているかぎり、そういう態度をとるしかないのだ。
それは、社会の構造の問題であって、若者じしんの能力の問題ではない。
指示=命令ばかりされていたら、誰だってうっとうしいに決まっている。それでもそれを「待つ」しかないのは、大人たちが自己正当化ばかりしていることの圧力にさらされているからだ。
「指示待ち」はだめだと「伝達・説得」しようとする前に、少しくらいは若者から何かを学ぼうとする態度を持てよ。おまえたちが若者を「指示待ち」にさせているんだぞ。変わらなければならないのは、おまえたちのほうなんだぞ。
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西洋人や中国人は、文章表現をするとき、あらかじめ言いたいことの全体がイメージされており、それにそって単語を並べてゆく。だからその文脈に整合性をもたせるために、並べ方の「規則・規範」がある。「主語+動詞+……」というように。
そのためか、日本語になれていないとよく「わたし・登る・山」とか「あなた・いけない・泥棒」みたいな言い方をする。
彼らのことばには、そういう並べ方の「規則・規範」がある。
それに対して日本語のことばの並べ方には、ほとんど「規則・規範」がない。
日本列島住民は、あらかじめ全体をイメージすることなく、そのとき頭に浮かんできたことばをそのまま行き当たりばったりのように表出してゆく。
「泥棒だよ、あんたは」といえば、西洋や中国では倒置法の表現になるのだろうが、そのときわれわれはそんな「全体」を意識しているのではなく、ただもう、浮かんできたことばをそのまま吐き出しただけである。
「花を見る」という言い方も、「look flower」と並べる西洋とは逆である。この対比は、ちょっとおもしろい。西洋人は、まず自分の行為を表してから対象のことをいう。こんなことは、われわれからすると「倒置法」である。意識はまず「世界=花」に気づき、そのあとでそれを見ている自分の行為を認識してゆく。これが、ほんらいの意識の流れのはずである。
だから、日本語のほうが、意識のはたらきの自然に添うている。
そのとき英語は、その意識のはたらきという自然を支配して、世界を再構成している。これが、西洋人のことばの流儀なのだ。まず、「伝達」しようとしている「自分」を表出する。「伝達」することは、反自然的な、世界を再構成する態度である。ことばの起源に、こんなことがあったわけではないだろう。これが、ことばの表出の普遍性・根源性というわけではないだろう。
最初は、行き当たりばったりに単語を吐き出していったに決まっている。
そして日本語(やまとことば)は、この態度はそのままで、単語と単語のあいだに「てにをは」を挿入し、文脈を整えてゆく。
つまり西洋では、単語と単語が分節され、再構成されている。
そして日本列島では、単語と単語が「てにをは」によってつなげられてゆく。
前者が「二項対立=デジタル」の文化だとすれば、後者は「類推=アナログ」の文化である。
最初に「わたし=I」が認識されるのではない。なのに西洋人は、「I=わたし」から語りはじめる。そのように世界を再構成する。それは、人類がことばを覚えてからずっと後の、きわめて人工的な態度である。
意識の発生に「わたし」など認識されていない。そこからことばが発生したのだとすれば、そのとき「伝達」という目的もないはずである。ただもう、世界に対する反応として、ことば(=音声)が発せられたのだ。
「I」とか「It,s」というようなことばが最初に浮かんでくるなんて、きわめて不自然であり、嘘なのだ。「伝達」の都合で「再構成」してそういっているだけのこと。
「あ、花が……」ということばが最初に表出されるのが自然だろう。
やまとことばで最初に主語を言わないのは、それが自然な意識の流れだからであり、「伝達」することを第一義とすることばではないからだ。
それは、「あなた」に向かって「伝達」されるのではなく、あなたとわたしのあいだの「空間=すきま」に投げ入れられる。
そしてあなたも、「あ、花が……」という。
こうして、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」で「花」ということばが「共有」される。
やまとことばにおいては、主語が発想される以前にことばが想起され、表出されている。そのように次々にことばが表出されてゆき、それらのことばは「てにをは」で連携されてゆく。「てにをは」は、ことばとことばのあいだの「空間=すきま」に投げ入れられ、そのことばとことばによって「共有」されている。
したがってそれらのことばは、「伝達」しようとする意図を持っていない。すなわち伝達しようとする「主語=わたし」を持っていない。
これは、やまとことばのタッチであると同時に、日本列島に住民における人と人の関係のタッチでもある。人と人の関係においても、「わたし=主語」が発想される以前の心の動きで関係が結ばれてゆく。
われわれは、「わたし=主語」で他者との関係を結ぶ民族ではない。
だから、「指示待ち」にもなる。自我を薄くして「指示」を待っていることのどこが悪い。
そういう自我の薄さを「共有」しているものどうしのあいだでは、じつに多くのことばと心がたがいの身体のあいだの「空間=すきま」に投げ入れられ、連携が発想されているのである。
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「助け合いネット」というのがあるらしい。
貧しいシングルマザーどうしや、職を失ったものどうしや、親族の介護に悩むものどうしなど、それぞれ同じ「嘆き」を「共有」しながら連携し助け合ってゆくシステムが模索されている。
当初、こういう試みはたがいに顔も知らずに具体的な「つながり」をもっていないから成功しないだろうといわれていたが、社会の底辺でしぶとく続けられ、今、さらに充実して広がりつつある。
そこでは、誰も「指示待ち」なんかしない。それぞれが豊かに何かを語り合っている。語り合うことが、彼らの救いになっている。とりあえず語り合うことができれば、少しは元気になれる。もちろん、物やお金の相互扶助のシステムもつくられていたりする。
こんな語り合いや助け合いの「関係」は、「家族」ではなかなかつくれない。
嘆きを共有していることは、たとえ見ず知らずのネット社会でも、人と人の豊かな関係をつくる。そこでは、誰もが「自分」を捨てて語り合っている。それは、ネット社会の可能性であると同時に、日本列島の伝統文化の可能性でもある。そこでは、自分を捨てて「献身」してゆく、という関係が生まれている。
やまとことばでは、「主語=わたし」が発想される前にことばが表出されている。これは、大事なことだ。ここから「主語=わたし」を捨てて他者に「献身」してゆき、他者と豊かに語り合う現象が生まれてくる。
やまとことばは、「伝達」することばではなく、感慨を「共有」しながら「語り合う」ことばである。
感慨を「共有」しながら語り合うということのできない鈍感な大人たちが、<「指示待ち」はだめだ>とえらそうに若者を見くびっていやがる。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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