閑話休題・男の色気

市川海老蔵という人が、男として役者としての「色気」を持っている、という評価がいまいちよくわからない。
ほんとうに「色気」を持っているのなら、やくざみたいなあの連中だって彼に一目置いただろうし、そんなトラブルにもならなかっただろう。
「色気」というのは、どんな人間にも伝わるものなんじゃないの。「色気」を持っているのなら、そういう連中とこそ仲良く談笑してきれいに別れることができてしかるべきだ。
そういう相手なら、彼としても、役者として何か学ぶことがあるにちがいないわけで、そういう敬意をもって接すれば、あんなざまにはならなかっただろう。おたがいに、相手に対する敬意なんか何もなかった。そんな関係になってしまうのは、彼に男としての「色気」がなかったからだろう。
男としても、役者としても、なっていなかったのだ。
僕は、役者がやくざと付き合ったらいけないとなんか、ぜんぜん思っていない。でも付き合うなら、おたがい人間として男として認め合うことのできる付き合いをしろよ、といいたい。役者なら、それくらいの「色気」は持っていろよ、といいたい。
昔、この国の総理大臣が、もとの愛人から「あの人はどうしようもなくけちでつまらない男だった」と週刊誌にばらされる、ということがあったけど、けっきょく海老蔵事件だって、本質的にはこれと同じなんじゃないの。政治家が愛人を持ったってかまわない。でも、男としての色気を持っていないと、そういうぶざまなことになる。
僕は、彼の歌舞伎も映画も見たことがないから、僕自身の印象は何もいえないけど、第三者から見た現象としては、ひとまずそういう論理的帰結になる。
伊藤園だかのお茶のコマーシャルは見たことがあるけど、その人が今をときめく芸能人だということは知らなかった。わざとふつうの一般人を使っているのだろうと思っていた。
梨園の御曹司、というだけで、何か色気がありそげに見えてしまうんだろうね。そういう群集心理というような幻想が、この社会にはたらいている。
男が男に惚れる、というような心の動きは、ああいうアウトサイダーの連中こそ持っているわけで、「色気」を持っている人なら、粗暴だろうとなんだろうと、そういう親密で尊敬しあう関係がどうしてつくれなかったのか、ちょっと不思議だ。
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僕はこう見えても、この広い世の中には、大人の「プラトニックラブ」というのもあるだろうな、と思っている。
くそまじめな男女、というのではなく、相手に見ただけの「色気」を感じるのなら、許されない仲の男女が見るだけの関係で惹かれあう、ということは、もしかしたらいくらでもあるのかもしれない。
ちょっと差別的な物言いになってしまうけど、「色気」を持っている人間でなければプラトニックラブは体験できない、ということだろうか。
たがいにそういうニュアンスを持っていなければ惹かれあうこともないし、恋する人間特有の反応が「色気」になることもあるだろう。誰にも見せない表情をその人の前で見せてしまうとか。
恋する人間特有の不安と心細さで世界に反応してゆく表情は、恋の相手しか見ることができない。たんなる笑顔であれ、そんなものすごく豊かなニュアンスを持った表情が交わされれば、プラトニックラブは成り立つ。
自分を表現する技術を持っているものは、プラトニックラブなんかしない。そうではなく、世界に反応する豊かでせつない感受性がその淡い関係を成り立たせる。
そういう男女だって、もしかしたらものすごくセックスの妄想をかき立てているのかもしれないんだぜ、と人はいう。妄想をかき立てたっていいじゃないか。何はともあれ彼らは、自分を表現することを捨てて、けんめいに「反応」し合っているのだ。それを、ひとまず「プラトニックラブ」という。
そりゃあ、相手の存在そのものに「色気」を感じているんだもの。そんな妄想も生まれてくるさ。
たとえば、「やせ我慢」は、ひとつの色気であり、やせ我慢して生きている江戸の男を「いなせ」である、などといった。
「いなせ」とは「やせ我慢」のこと。「いな」は、「親愛」「親密」の語義、「せ」は、「不可能性」。「せめて」の「せ」。不可能性に愛着すること、すなわち「やせ我慢」のことを「いなせ」という。それが語源で、そこから勇み肌の粋な若者のことをいうようになった。
江戸の郭に、こんな小唄がある。
「いなせとも なきその心から 帰らしゃんせと 惚れた情」
「やせ我慢して心にもなく"もう帰りなさいよ”という遊女の恋心」というような意味だろうか。
プラトニックラブも、ひとつのやせ我慢であり、その態度からにじみ出てくる色気はきっとあるにちがいない。
やせ我慢をして生きている人間が、プラトニックラブをする。
「色気」とは、その人の生きてある姿の「危うさ」であって、世界や共同体にぴったりはめ込まれてまどろんでいる人間からにじみ出てくることはない。
そういう「危うさ」によって彼らは恋をしているのであり、やくざや芸能人も、そういう「危うさ」の色気を持っているにちがいない。
そういう「危うさ」は、それを持っている人間どうしなら直感的に察知し合うだろうし、それによってプラトニックラブが生まれ、やくざと芸能人の親密な関係も生まれてくる。
やくざと芸能人の親密な関係だって、ひとつのプラトニックラブなのだ。その生態がなんであれ、彼らは、プラトニックラブができる人種なのだ。そういう人種でなければ、「色気」はもてない。
市川海老蔵という人に、そんな「色気」があったのだろうか。
泣きながら記者会見するなんて、野暮の骨頂だよ。共同体の図式そのままじゃないか。そんなんで、助六や弁慶が演じられるのかねえ。
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