やまとことばと原始言語 31・「捧げる」ということ

われわれは、限度を超えて密集した群れの中に置かれている。それはとてもうっとうしいことだが、人間の習性なのだからしょうがない。人間は、誰もが他人に対する迷惑として存在しているのだ。群れてあることのうっとうしさを思えば、そのことを自覚するほかない。
しかしたくさんの人間と一緒に暮らしていれば、みんなと何かを「共有」するよろこびもそのぶん深くなる。
原初の人類の直立二足歩行は、「共有」するよろこびの発見だった。
そのとき人類は、何を「共有」したのか。
たがいの身体のあいだの「空間=すきま」である。二本の足で立ち上がれば、たがいの身体が占めるスペースが狭くなり、たがいの身体のあいだに「空間=すきま」が確保される。この「空間=すきま」が共有されてあるかぎり、群れのうっとうしさにも耐えられる。たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を共有してゆくことが人と人の関係の基礎であり、人と人の関係が人間を生かしもし、生きにくくもさせている。
他者の存在が自分にぴったり張り付いてくることほどうっとうしいこともない。人間は、餓えることには耐えられても、このうっとうしさであっけなく死を選んでしまったりする生き物である。
人間は、人と人の関係で生きている。だから、大切な人がひとりでもいたら生きられる、といっている人がいる。そうかもしれない。
人間が自殺をする生き物だということは、誰もが「どうすれば生きていられるか」とせっぱつまったところで生きている存在だということを意味する。誰だって、生きてあることにせっぱつまっているのだ。せっぱつまっているから、生きてあることのよろこびを体験するのだし、生きてあることの浄化作用(カタルシス)を必要としている。
生きてあることのよろこびとは、生きてあることの「けがれ」の浄化作用である。
西洋人だろうと日本列島住民だろうと、誰だって生きてあることの「けがれ」を自覚し、せっぱつまっているのだ。
幸せだとよろこんでいても、幸せでないと生きられないほどにせっぱつまっているだけのことであり、幸せでなくともかまわない、といえるほど自由ではないのだ。
誰だって、せっぱつまっている。
そしてせっぱつまっていることを「共有」しながら、人と人の親密な関係や連携がつくられているのだ。
愛などというものは、やっとの思いで生きている人に問え。お気楽に生きているおまえらごときが知っているのではない。
人間は、限度を超えて密集した群れの中に置かれてあることの「けがれ」を負った存在である。そういうせっぱつまったところでこそ、生きてあることのよろこびや安堵が見出されてゆく。
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人間が限度を超えて密集した群れの中に置かれているということは、われわれは先験的に人に追いつめられている存在である、ということだ。
人間は、人に追いつめられることには敏感だし、そのことに耐えがたくなる感受性を持っている。
人間を追いつめているのは社会ではなく、人なのだ。
「世間」とか「世の中」という。やまとことばの「世(よ)」は、「寄る」の「よ」、人が寄り集まっていることを「世(よ)」という。寄り集まっている人に対する感慨から「世(よ)」ということばが生まれてきた。
「よ」という音韻は、「うっとうしくてわけがわからない」という感慨から表出される。「混沌」の語義。「夜」の混沌の「よ」。「よ」と発声するとき、息苦しくなるような心地がする。だから、「ようわからん」とか「ようしない」などという。
われわれが「世間」とか「世の中」というとき、社会とか共同体というような抽象的な概念ではなく、もっと具体的に人が寄り集まっている空間がイメージされている。そしてそのうっとうしさをこめて「世(よ)」ということばが生まれてきた。
うっとうしくもあり恋しくもある混沌とした世の中なのだ。
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だから、日本人には「公共心」がない、といわれる。
西洋人はまず「全体=公共」を意識する。「全体=公共」を意識するから、それに対する「個人」という意識も発達する。
ことばだって、まず全体の文章の整合性を意識し、そのための規範にしたがって単語を分節し再構成してゆく。「公共心」は、そういうことばの文化を持っているところから生まれてくる。
それに対して日本語=やまとことばは、行き当たりばったりにように単語を表出しながら、そのつど「てにをは」の助詞を加えて文章を整えてゆく。
やまとことばは、単語と単語が分節されていない、「てにをは」によって連携している。
というわけで日本列島の住民は、人と人の連携は緊密だが、全体のイメージとしての「公共心」はない。
西洋人にとっての「社会=公共」は秩序であるが、日本列島の住民にとっては「混沌」の「世(よ)」にほかならない。
まず全体の共同体の秩序をイメージしてそこから個人を分節してゆくという世界観は、人類の歴史においては、つい最近のことである。とはいえ西洋の共同体(国家)の発生は6000年前までさかのぼることができるが、日本列島では、2000年にも満たない。まず「全体=公共」を発想するという言語文化がないから、いつまでたっても国家という単位が生まれなかった。大陸の影響を受けるようになって、ようやくそのかたちが生まれてきた。
まず「全体=公共」をイメージするという意識は、異民族との出会いによって自分たちの群れのアイデンティティを持とうとしたところから生まれてきた。そのように西洋では、つねに異民族との戦争や交易を繰り返しながら、ことばも整合性を持った「伝達」の道具へと作り変えられていった。
しかし島国の日本列島では、異民族との出会いが大幅に遅れ、その間にすでにことばが洗練し完成されていた。しかも、その後も異民族との大きな軋轢や親密な関係も持つこともない歴史を歩んできたから、ついに「全体=公共」をイメージする意識が育たなかった。
その代わり、原初の、人間としての根源的な連携のかたちは、この島国で命脈を保ち引き継がれてきた。
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文節表現は単語と単語の連携として生まれてきた……もうこれだけでいいのかもしれない。たくさんの単語を持てば、それらをつなげたくなる。つなげたくなるのは、連携しようとする人間の本能だ。
つなげること=連携すること、すなわち人類の文化や文明はアナログな類推思考として生まれてきた。デジタルな二項対立の思考によってではない。人と人の連携もまた、「あなたとわたしは違う」というデジタルな思考によってではなく、あなたとわたしが「共有」しているものを見出してゆくことによって生まれてくる。
あなたとわたしが違うことは、確かめるまでもなく、はじめからわかっていることだ。たがいに別々の存在であることのせつなさというものがある。それは、この身体がこの世界から切り離されて存在していることのおそれと不安を誰もが根源において抱えている、ということだ。そしてそのおそれと不安をあなたと「共有」していると感じたときに、連携という関係が発生する。
「連携」とは、「共有」することであり、「献身」し合うことだ。
人間は、この世界から切り離された存在であることのおそれと不安を抱えている。しかし切り離された存在でなければ生きることはできない。切り離された存在だから体が動く。これは、生き物が生きてあることの基本である。と同時に人間はこの事態に対するおそれと不安をなんとか克服しようとする。このおそれと不安を克服しなければ、身体がこの世界から切り離されてあるというこの事態に耐えられない。
あなたと一体化したいのではない。あなたとは別々の存在として、あなたと何かを「共有」してゆきたいのだ。それによって、このおそれと不安に耐えられる。
この怖れと不安を「共有」しながら、たがいに「献身」してゆくのだ。
人間は、一人ぼっちになりたいのだ。しかし一人ぼっちであるためには、誰かと何かを共有していなければならない。言い換えれば、誰かと何かを共有する行為は、一人ぼっちになる行為でもある。一人ぼっちだから、共有することができる。それは、あなたのものでもわたしのものでもない。あなたに「贈与」するのでも「返礼」するのでもない。
あなたに「捧げる」のだ。
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五万年前、氷河期の北ヨーロッパで暮らしていたネアンデルタールは、集団でマンモスなどの大型草食獣の狩をして暮らしていた。
人間的な高度な連携のかたちは、おそらくここで芽生えた。
彼らは、洞窟を住処としていた。
洞窟には、10人か20人しか入れない小さなものもあれば、100人がまとまって入れる大きなものもある。マンモスの狩は、大勢の人手が必要である。おそらくいくつかの洞窟が連携して人手を集めていたのだろう。そして、狩の獲物を解体したり分配したりするための「共有」の広場があった。
彼らは、いったいどのように分配していたのだろうか。
それぞれが自分の分をとって洞窟に持ち帰るというようなことはしていなかったにちがいない。彼らに「所有」という意識はなかった。おそらく、その場でみんなで食べていたのだろう。つねに、食事はみんな一緒にした。
たくさんの人間が集まれば、どうしても順番になる。
では、どんな順番で食べていたのか。
おそらく、狩をしてきた強い男たちからではない。男たちの体は、すでに温まっている。
寒空の下でじっと待っていた女子供の体は、すでに冷え切って死にそうになっている。
死にそうになっているものから順番に食べていったのだ。
男たちも、そんな死にそうになっているものが食べているのを見るのは大きなよろこびだった。その「献身」
は、この生を「共有」するよろこびだった。
彼らは、生きてあることが困難な環境のもとで暮らしていた。だからこそ、生きてあることを「共有」することは、大きなよろこびになった。
それは、強いものが弱いものを助ける、ということではない。自分が狩をしてきたのだから自分のものだという意識は、彼らにはなかった。みんなが生きてあるために狩をしたのだから、その獲物はみんなのものに決まっている。
まず「全体=公共」を発想するというヨーロッパ文化の伝統は、すでにここからはじまっているのかもしれない。
ともあれ、彼らの連携を支えていたのは、強いものが弱いものを助けるという意識ではなく、みんなでこの生を「共有」しているという意識だった。生きてある、ということにおいては、誰もが弱者だったのである。
つまりそれは、本質的には、「弱いものどうしが助け合う」というかたちだったのだ。
「助け合う」というより、誰もがたがいに「献身し合う」という構造だった。そうしなければ誰も生きていられない社会だったわけで、彼らは、「助けてやる」などという現代的な自意識とは無縁だった。
それは、今にも死にそうなものに向かって差し出され、捧げられ、命を「共有」していったのだ。
「助けてやる」などという自我意識などではない。
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古代の日本列島において、村と村をつなぐ道路とか橋とか港とかため池とか、そうした土木工事は、すべて村人どうしの自主的な連携でやっていた。村と村の連携の仲介をしたのは、多くは旅の僧で、支配者は関与していなかった。
古代でさえそうなのだから、古墳時代の巨大古墳の造営だって、権力者の命令というより、庶民が自主的につくって権力者に捧げるというかたちだったのだろう。だからそのような巨大古墳のことを「陵(みささぎ)」といった。それは、庶民の信仰の対象であると同時に、農業用の灌漑用水池でもあり、そのようにして湿地帯であった奈良盆地や河内平野を干拓していった。
また、乞食や旅の僧や旅芸人に食事や宿を提供することも、貧しい村人がやっていたことで、しかもそれは「弱いものを助ける」という意識ではなく、神の使いに対する「捧げ物」として差し出していた。
日本列島で国歌や国旗ができたのは、明治以降のことである。それまでの日本列島の住民は、「国家」という意識などなかった。そういう「全体=公共」はイメージしないのが日本文化の流儀なのだ。
日本列島において、誰もが国の秩序に従うという暮らしの歴史は、つい最近はじまったばかりである。
とりあえず「てにをは」の文化で、貧しい村人どうしが連携してゆく、という歴史をずっと歩んできたのだ。
何はともあれ、「嘆き」を共有しているところで、もっともタフで緊密な連携が生まれる。それはもうどうしようもなくそうなのであり、「助けてやる」という行為を交換するのではなく、「献身」し合う関係なのだ。
恋だって、そのようなかたちで生まれてくる。それは、あなたと一体化しようとする態度ではなく、たがいに分節されてある存在であることの「嘆き」を「共有」しながら、「献身」していこうとする態度なのだ。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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